潮騒
大崎瑞香
/ ドアがノックされる。 鮮花の胸は高鳴る。 一気に顔が赤くなるのがわかるほど、火照る。 (幹也が帰っていた) 心臓の鼓動が部屋の外にいる幹也にまで聞こえてしまいそう。 ダメよ、おちつくのよ鮮花、と何度言い聞かせても静まるばかりがいよいよ高鳴ってしまう。 いよいよだと思えば思うほど、身体が震えてくる。 立ち上がると、膝がガクガクしてままならない。 (――女は度胸よ、しっかりしなさい鮮花) 自分を叱咤しながら、やや早足気味で玄関へと急ぐ。 なぜここにいるのかの質問に対しての返事。言い訳を幾通りもシミュレートして確認してしまう。 玄関の前につくと目を閉じて、大丈夫よ、と言い聞かせる。 そして鍵をあけて、玄関をあけて、にこやかに、上品に、お嬢様風に微笑みながら話しかけた。 おかえりなさい、と――。 / 雨はふたりを溺れさせるかのように降りしきる。 雨は飛沫をあげて弾けているのに、こんなにも激しく降っているのに、聞こえるのは互いの荒い獣じみた息だけ。 刀がゆっくりと振り上げられる。 街灯でいやにギラついて見える。 まるで黒雲を切り裂く稲妻のようだ、とそんな場違いなことを幹也は思った。 式は雨で濡れて、とても綺麗だった。 こんな状態だというのに、式に壮絶な色気を覚えていた。 ゾクゾクするほどの色気。 雨に濡れて髪ははりつき、白い肌は上気して朱色に染まり、寝間着はぬれて貼りつき透けて、なまめかしい。 頭から浴びている雨のため、まるで涙を流しているようだとも思った。 その水が桜色の唇を伝わり、顎からしたたりおちていく。 全身は雨に打たれ水飛沫をあげている。その飛沫は光をはらみ、式がまるで輝いているようだった。 ぐしゃぐしゃに濡れ貼りついた前髪の奥から、妙に艶っぽい式の瞳がみえる。それは蒼く輝き、こちらをまばたきもせずに見つめていた。 その手には今まさに幹也を殺さんとばかりに小刀が握られているのに。 まるで戦乙女のような、生々しいエロスとタナトスが入り交じった壮絶な絵画そのものだった。 その絵画に、生々しいエロスに、まとわりつくタナトスに、性と死を司る女性に――――――――式に見とれていた。 女性は古来より性にして生、そして聖だった。子供を産み育てるという存在。その存在が死を意味する刀を持つ時、性と死を司る時、凄惨なほどの色気を滲ませる。 雨が肌にあたり弾けても。 風がうなりをあげつんざくような声をあげても。 黒々とした空で目の前が薄暗いはっきり見えなかったとしても。 それでも式に見とれていた。魅入られていた。 その心に。 その魂に。 傷つき血を流す繊細なそれらに――。 (式になら殺されていいなんて――なんてイカれているんだ) でもそれはとても自分らしいと思った。 じいっと刀を見つめた。 闇の中に輝く白銀のそれはあまりにも冴え冴えとしていて、切なささえ感じさせた。 あまりにも鋭利で、鋭利すぎてなにかの拍子で折れてしまいそうで。 まるで式そのものだった。 あんなに硬く、強く、しなやかに鍛えられているのに、本当はただの可愛らしい女の子。 意地っ張りで怒りんぼだけど、可愛らしい女の子。 ただ両儀家に生まれついてしまって、たまたま両儀だったというだけで。 たったそれだけでこんな重荷を背負ってしまっただけ。 織を失い、過去を失い、そして人を殺めてしまった。 だから。 もし式が欲するのならば殺されてあげてもいいな、なんて思った。 それで少しでも式が楽になるのならば。 でも、式が楽にならないのならば。 楽になるどころか、もっと重荷を背負ってしまうのならば。 殺されない。 殺されてなんてあげない。 それが幹也の出した答えだった。 / なんて非道い。 式は目の前で下敷きにしている愛しい男を詰った。 こんな化け物のために死んでもいいだなんて。 なんて非道いことをいう。 胸の奥で何かが渦巻いて苦しい。 狂おしい。 狂おしくて。 たまらなくて。 この目の前のファッションセンスの欠片もない黒一色の。 この目の前の黒縁なんて古くさい眼鏡をかけている。 この目の前の優しい笑みを浮かべている。 愛しい男を。 虚を埋めてくれた男を。 世界にたった一人の男を。 殺さないといけないだなんて――。 なんて――非道い。 ――そんなの 殺せるわけないじゃないか――。 / 「こんばんわ」 玄関にいたのは幹也ではなく、秋隆だったことに、鮮花は面を喰らってしまった。 「――こんばんわ」 なんとかオウム返しで答えると、幹也でないという事実がだんだんと理解してきて、力がぬけていく。 今まで気張っていた分、逆に力が抜けてヘナヘナと崩れ落ちそうになる。 「幹也さんはご在宅ですか?」 優しい笑顔に、なんとかふんばる。こんなところでだらしないところなんて見せられないわ――特に式の身内なんかに! 鮮花は自分を奮い立たせると、にっこりと上品に微笑む。礼園のお嬢様特有の艶やかな笑み。 「いいえ、残念ながら幹也は出かけておりますわ」 「ああ、そうですか……」 残念そうな口調なのに、鮮花はどこか違和感を覚えた。 しかし考える暇を与えずに。 「ご不在でしたら、また今度お伺いします」 「言づてをいたしましょうか?」 「いえいえ」 かすかに、でもはっきりと頭をふって辞退する。 「それには及びませんので。それではおやすみなさい」 「はい。それではおやすみなさい」 そうして秋隆は立ち去った。 (もしかして今日は幹也が帰ってこないのかしら――?) 鮮花は玄関に鍵をかけるとそっと息を吐く。 この予感めいたイヤな思いを振り払うために。 (式とは別れたのだから) 妙に苛ついて仕方がなかった。 (だから幹也。早くわたしのとこに帰ってきて――) 狭いはずの幹也の部屋が一人で居るのには耐えられないほど、とても広く感じられた。 / 、 式は声にならない慟哭をあげて、小刀を放り投げた。 そして下敷きにしている愛しい男にこの苛立ちを、この思いをぶつける。 「罵迦っ!」 その胸を叩く。 「罵迦、莫迦、バカ――――――――――――ばかぁ」 雨に打たれながら、幾度も幾度も叩く。 あの時と同じ。 幹也と別れなければならないと理性は告げているのに。 幹也は離してくれない。 離してくれないのならば、わたしがいなくなるしかない。 なのに、いなくなっても、幹也はやってきて式を追い詰める。 式に必要なものがなんであるか、突きつけてくる。 逃れようもなく、目を逸らしようもなく、ただそれを見せつけてくる。 非道い。 惨い。 酷い。 酷いほど――愛おしい。 愛おしすぎて、気が狂いそう。 それほど、目の前の男が愛おしい。 幹也の顔に温かい雨がふった。 みると、式の顔はぐちゃぐちゃになっていて、目はうるみ、慟哭していた。 「ばかぁ……幹也のばかぁ」 式には目の前の男がどう考えても莫迦にしか思えなかった。 片目を失って、走れなくなっても。 わたしに近づくと不幸になるといっても。 こうして刀を突きつけて殺すと脅しても。 威しても、嚇しても。 ――どうしても どうしても離れられない――。 こんなに人の心にズカズカと入り込んできて。 こんなに人の心を胡乱にさせて。 こんなに。こんなにも――――――――好きにさせてしまって。 酷い。非道い。惨い。悪い。 みんなみんな、幹也が悪い。なにもかも、すべて、幹也が悪い。 自分が受けるはずの罰なのに。 それなのに、その罰さえ受けさせてくれない。 そのかわりにこんなにも切なくて狂おしいものを、この男は突きつけてくるのだ。 「……………………………………………………みきやのばかぁ……」 幹也は泣きじゃくりただ力なく胸をたたく式の手を掴んだ。 はっとして式は幹也を見る。 幹也は笑っていた。 あの夢のように。 手を切り取り足をもいで自分の血の海にいるというのに、笑っているあの笑顔があった。 胸が痛む。 痛くてたまらない。 好きだから殺したくないのに。 「……式……」 そういって幹也は身体を起こしてくる。 まっすぐ見つめるその視線がとても心地よく、そして痛い。 甘美な痛みに、式は背筋がゾクゾクした。 罪を犯していると思った。 罰を受けるはずなのに、それから逃れて幹也の手を握るなんて……。 幹也の顔が近づいてくる。 雨に濡れて髪がはりつき、その顔の傷痕がはっきりと見える。 疵痕がまるで烙印のようにさえ感じられる。 その烙印が罪の深さを表しているようで、苦しい。 なのにそれはとても――心地よい。 痺れるような心地よさで。 式は目にも見えず触れることも出来ないものなんか信じていなかった。 心や神、仏なんて、そんなもの考えたこともなかった。 なのに今だけは祈った。何かに縋りたかった。 殺(ゆる)して、と――。 式は観念したかのようにゆっくりと目を閉じる。 まるでその罪に溺れるように。 その甘美なる罪を受け照れるかのように。 ただ、この震えるような想いを伝えたくて――。 穏やかに。 静かに。 そして幹也の唇が触れた。 とたん貪るように、唇を合わせる。 吸い付き、つばみあい、舌を絡める。 その心地よさに。 息が出来ないほど、溺れていく。 とても罪深い接吻だと、思った。 罪深くて、業が深くて、そして甘い。 とろけるような口づけ。 ただそれを貪ってしまう。 はしたなく音をたてて吸い合う。 幹也の舌が入ってくる。 それを吸い、軽く歯をたてる。 そして舌どうしを絡ませて、口の中をぐちゃぐちゃにする。 …………ぢゅうぅ……っゅうぅ………… 乱れた息と淫らな音が聞こえた。 口の中を幹也の舌が蹂躙していく。 幹也は式の舌をねぶり、そしてほほの内側の粘膜をくすぐる。 式の身体が震えていた。 濡れて肌着がはりつき、透けて見える身体からほのかに式の体温が感じられて心地よかった。 舌の上のざらついたところを舐め、裏側をくすぐり、そして唾液を送り込む。 互いに息さえできなかった。 互いの吐息さえ甘く、それさえ逃したくなかった。 柔らかい唇と舌。そして唾液。 はしたない音をたてて幹也は式の唇を奪い続ける。 ついばみ、強く吸い立てる。 ……くちゅ……ちゅちゅうっ……。 涎がはしたない音をたてる。 式も幹也もせき止められていた何かが解き放たれた思いだった。 離したくない。 離れたくない。 そして、そのまま同化したい。 そのままふたりが融けあい混じり合って、ひとつになってしまいたかった。 式は、このとても甘くてたまらない罪に蕩けてしまいたかった。 幹也はちょっと唇を離す。 式はそれさえも許さず、唇を押しつけた。 舌先で唇をなぞり、すいつく。 激しく貪り、何もかも蹂躙していく。 口づけというより口淫であった。 その柔らかい女の唇で淫らに男の唇を犯すという口淫。 幹也の吐息を、幹也の唾液を、式は飲み込んでいく。飲みほしていく。 式の腕はいつの間にか幹也の首にまわり、抱え込んでいた。 身悶えするような快感が二人の身体わ駆け抜けていく。 意地っ張りて素直なクセに素直じゃない式が、こんなにも求めてくる。 優しくて臆病で静かな幹也が、こんなにも求めてくる。 そう思うだけで、身体も、心も震えた。 「……っん……」 いつもの式からは考えられない甘い吐息がかかる。 ……ちゅうぅ……っう……ぅん……。 淫らな音と淫らな吐息が重なり合う。 それでも唇がつながったままで貪るように、ついばんでくる。 唇を吸われ、舌でチロチロと舐めてくる。 お返しにと、幹也も舌でチロチロと舐め返す。 お互い唇を離し、舌でチロチロと舐めあう。 いやらしく絡め合い、互いの舌をねぶりあう。 ……くちゅ……ちゅうぅぅ……ぅふん……ぁあ。 唇が疼いていた。 心地よくて痺れるような疼きがふたりを蕩けさせていく。 降りしきる雨で全身が濡れても、その唇と吐息は熱く。 とても熱く、そして粘ついていて。 火傷しそうなほどだった。 唇から発した疼きは、身体をよじらせてしまうほどの甘い痺れとなっていく。 痺れてしまって、よじられてしまって、それでもなお貪りあい続けて。 痛いほど吸われているのに。 苦しいぼと舌を絡ませているのに。 なのに、それはとても甘くて。 口の中をねぶり、吸われ、絡め合わせているはずなのに、脳までなめ回させて、啜られているよう。 その甘い舌と、柔らかい唇と、熱い唾液によってドロドロになっていく。 掻き回させて、粘ついて、苦しいくせに甘くて。 その舌が。 その唇が。 その涎が。 身体どころか精神まで犯していく。 ぐちゃぐちゃになるまで犯されていく。 口の中を。 頭の中を。 心の中を。 魂の中を。 式という存在のものを。 幹也という存在そのものを。 犯し、蹂躙し、汚していく――――――――罪深く、とても罪深く。 まるで潮騒のようだ、と式は思った。 イヤな雨音なのに。 織を失い、人を殺した時と同じように雨がふっているというのに。 それは幹也の鼓動と吐息と混じり合って。 とても柔らかく、とても遠くに聞こえた。 降りしきる雨音がはじめて安堵できる音に。 心地よい潮騒のように、式には聞こえた。 幹也から立ち上る牡の臭気に式の身体は反応してしまう。 式から立ち上る牝の匂いに幹也の男は反応してしまう。 ひどく気をそぞろにさせるような、その心惹かれるものに反応してしまう。 たまらない香り。 いやらしい臭い。 牡と牝の匂い。 そして、ずゅぷっと唇が離れる。 唇から唾液が糸を引き、つながったまま。 いやらしい音と、いやらしい糸が唇どうしの間を繋いでいた。 式は湯気がたちそうなほどの熱い息を吐くと、胡乱な目つきで幹也見つめた。 妖艶な牝の貌に幹也は震えてしまう。 幹也も熱に浮かされたような視線で式を見つめていた。 その男の貌に、式のオンナは酷く疼いた。 「幹也――」 式は罪を知りながら、告白する。 恍惚とした堕落とも思える表情を浮かべ、式は何処までも幹也に、罪に堕ちていくのを感じ、身悶えた。 「――――抱いて……抱き……しめて……」 幹也の鼓動と息を肌で感じられて式は安堵した。 側にいると実感できるだけで、心安らいだ。 イヤなはずの雨音が心地よい潮騒のように、聞こえるのは、たぶん。 罪に溺れていくというのに、なぜかその罪が甘美なのは、たぶん。 たぶん、それは幹也が側にいるからなんだ、と―― たぶん、もう一人のわたしも殺めてのうのう生きているわたしへの罪へ、と――。 たぶん、この潮騒はそれに誘う闇からの呼び声なのだ、と――。 たぶん、この罪という名前の海に今溺れていくのだ、と――。 式は、そう思った。 それでもなお、幹也が泣きたくなるほど、切ないほど愛しかった。 |