雨
プロローグ
大崎瑞香
/ 雨音が聞こえてくる。 葉や木の枝、アスファルトに弾ける、パラパラという音。 (――雨の日は、嫌いだ) そう式は思った。 今、式は両儀家の自室にいる。自分から出ていったはずの古巣に戻ってきていた。 そこで雲が厚く暗いというのに、電気も点けずに、窓辺で外を眺めていた。 すべてのものが灰色のモノトーンに染まる中、青々しい葉が鮮やかに映えている。庭にある紫陽花も色づきはじめ、梅雨の本格的な到来をしめしていた。 目の前のガラスに水滴が滴り、マーブル模様となって、そこに映り込んだ式の姿に覆い被さっている。その姿はまるで――泣いているようだった。 いつもの凛々しい式の姿はどこにもなく、そこにあるのは萎れた花のよう。生気がなく、気怠げで、儚かく見えた。水が与えられぬ花が萎れしなびるかのように、式の瞳は曇っていて、弱々しい。 畳の部屋にペタンと座り込んで、ただガラスごしの外を眺めていた。 ガラス窓にかかる息によって時折白く曇るが、それもすぐに消え失せてしまい。 そこにあるのは、朽ち果てた人形のようだった。 式の姿そのものは髪の毛は大ざっぱな切り方をしているものの、見目麗しいといっていい。その白磁のような透ける肌、ややつり目気味の切れ長の目には黒い瞳、薄く引き締まった桜色の唇、すっととおった鼻梁、一筆でさっと描いたような眉。 ショーウィンドウの中で飾られるような、守られるような儚い美麗ではない。けばけばしいほどの華美でもない。 業物と呼ばれる刃物のような、凛とした美しさが式のそれだった。 なのに今は生気がなく、その張りつめた身を切るような雰囲気もなく、ただぼおっとしているだけ。 整っているために逆に人形のような感じを与えてしまうのだ。 雨の音が静かに響く。 この世の中がすべて雨になってしまったかのよう。 雨になってしたたり落ちて、すべて消えてしまうかのような錯覚に、式はふと捕らわれた。 (――バカだな、俺は……) そんなありえもしないことに思いを馳せてしまう自分のアンニュイさに、つい自嘲の笑みさえ浮かべてしまう。 実際、式自身今は何もやる気が起きなかった。 指一つ動かすのももどかしく鬱陶しい。 まるで血管を流れる熱いはずの血潮が、灰色の鉛になってしまったかのよう。 重くて、もどかしくて、息するのさえ辛い。 ふと、ガラスに映る自分の顔を見つめる。 (――なんて顔をしているんだ、俺は) ひどい顔だと自分でも思うほど。目の下にはうっすらとクマがあり、顔色はやや白く、強ばっていた。 そして目に映るのは、それでもなおふっくらとして女であると主張してやまない桜色の唇。その瑞々しいそれは紅をひいてもいないのにほんのりと紅く、艶めかしかった。 式は自分の唇に触れてみる。 柔らかい感触。 一度だけ他人のそれと触れたことがある。 あの――熱い……。 式はくすりと嗤うと、今度はガラスに映り込んでいる唇に指で触れてみた。 それはやはり冷たく、そしてひたすらに硬かった。 / (――やっぱりいない……) 思わずため息をついてしまった。 幹也は傘をしまい、雨に濡れた黒いコートを脱いで、部屋を汚さないように注意して入っていく。 部屋をあける度に鍵がかかっているので、ドキリとする。この部屋の主人はいるときには鍵をかけ、いないときには開けっ放しにしてくからだ。 不用心だな、とは思うけど、彼女らしいと思っていてそのままにしている。本当はヘンなヤツが入ってこないか心配なのでいろいろと遠回りに言うのだけど、彼女は俺をどうにかできるヤツなんてそうそういないよ、なんて笑いかえしてきたのが懐かしい。 ガランとした部屋。 もちろん幹也の部屋ではない。恋人といっていいはずの両儀式が借りている部屋だった。 必要最低限のもの以外ない部屋を見回すと、人気がないとまるで倉庫のようだな、と思った。 電話をチラリと見る。留守電がはいっていると点滅して知らせている。 幹也は震える手で留守電を解除する。 電子登録されたメッセージが冷たく響き、そして用件数を告げると、次々に幹也の声が再生された。 式、帰ってきた? 今日いってもいいかな もし聞いたら連絡が欲しい 虚しく響く自分の声にため息ひとつで返答すると、いつものとおり電灯をつけて、そのままいつもの場所へゆき、いつもの場所に座った。 テーブルを見ると、うっすらと埃が積もっていて最近使用されていないことがわかる。 壁には寒いときに和服の上から羽織る革ジャンがだらりとかかっていた。彼女のトレードマークだというのに、それがここにあるだけで心配になってしまう。梅雨に入り、肌寒くなったこの季節に革ジャンを来ていないなんて……幹也は式のことが心配でたまらない。 壁にかけた時計の時を刻む音だけが響く。外からは雨の音。 ふたりの音が幹也の呼吸と重なり、重く響く。 しかし本当ならばここにあるべき音がひとつ欠けている。 式の息づかいが足りないな、と、幹也は思った。 (それさえあれば、本当は温かいのに) 幹也はふとベットを見る。 いつもならば和服姿の式が、そこでのびのびと寝ているというのに。 そこにはしわくちゃなシーツがあるだけ。そのシーツの皺は式の姿でよれていて、淋しさがこみ上げてくる。 幹也はかぶりをふると、台所から布巾をもってきてテーブルの上を拭き始める。 熱心に、ただ愛おしげに――いつでもこの部屋の主が戻ってきてもいいようにと。 電灯は煌々と照らしているというのに、部屋の中は暗く澱んでいた。 ただ――式がいないというだけで。 幹也は黒縁眼鏡をかけ直して、またひとつため息をつき、床を穿き、ゴミをまとめる。 食器を確認し、水道の蛇口をひねって少しでもカルキ臭くないようにしておく。 ガスの元栓を確認し、そして最後に冷蔵庫をあける。 冷蔵庫の方はほぼ空っぽ。冷凍庫の方にはハーゲンダッツのストロベリーが8つ入っていた。 幹也はその数を確認すると、少し目を細め、そしてコンビニ袋から今日も狩ってきたハーゲンダッツのストロベリーを2つ――式と幹也の分――を取り出すと、冷凍庫にいれた。 (――これで10つめ、か) 冷凍庫の扉を閉めると、電灯を消し、幹也は部屋から出ていった。 ガチャリと鍵のしまる音がイヤに響いた。 / 「どうしたの幹也君、元気がないのね」 工房伽藍の堂のオーナーにして社長である橙子は、少しからかい気味に唯一の社員である幹也に話しかけた。 なんでもないですよ、とこちらに顔を見せずに帳面にかかりっきりで答える。 「そんなことはないわよ」 胸元にオレンジ色に輝くブローチを弄りながら、幹也の方を向いてしゃべり始める。仕事の図面をほっぽり出して話しはじめる。 橙子自身、この仕事の少し飽きが来ていた。 マンションのエントランス部の設計なのだが、設計者のセンスを存分に発揮するだけの予算が降りないのだ。高級マンションのエントランスはロビー形式になっていることが多く、ホテルのように待合いにも使えるようにもなっている。そういう場合、マンションの価値の一部はここが受け持つこととなる。それだけの空間をゆったりともつマンションだから豪華である、というわけである。この空間の無駄遣いにも似た設計は橙子は嫌いではなかった。 逆にやりがいのある仕事だともいえる。石を用いて重厚さが醸し出すのもありえるし、白い壁紙とライドウッドの色調の木材で暖かみを醸し出すのもいい。また全部ダークウッドカラーでシックにするのもおもしろい。色々と手を入れるところがあり、いじれるのだから。 なのに、そのための予算が降りない。だというのに注文ばかりついてくる。いっそ断ろうかとさえ思ったのだが、あいにくとオークションで手に入れたいヴィクトリア王朝時代の逸品が出展されそうだ、という情報を得てしまったためその資金稼ぎのためにも断るわけにはいかなかった。唯一の社員の給金のためでないところが彼女らしいのだが。 飽きがきたこともあって幹也にちょっかいをかけたのだが、どうやら本当に深刻らしい。 いつも律儀な幹也はこちらをみて話すことが多い。なのにこうして生返事を何度くりも返すようだと、悩み事が大きいことがありありとわかる。 「ねぇ幹也君」 「なんですか、所長?」 「なにを悩んでいるの? お姉さんに話してご覧なさい」 にっこりと完璧な年上のお姉さまの笑み。 幹也はようやくこちらを見る。 生気のない顔にどんよりとくもった瞳。 橙子は死人のようだなと思った。 「なんでもないですよ」 にっこりと微笑むが逆に痛々しい。 (――これは根深いわね) 橙子は煙草に火をつけると大きく吸い込む。ニコチンがまわってしびれにも似た安堵感がうまれる。 「ねぇ幹也君。こういう時は年上に相談するものよ」 「いえ――橙子さんには関係ありませんから」 プカプカと煙草を吹かしながら、この生気のない社員を眺める。 まずはかるいジャブのつもりでこの男のウィークポイントである『彼女』をつついてみる。 「どうしたの、式さんと喧嘩でもしたのかしら?」 曖昧な笑み。その笑みを見て、クリーンヒットだと感じた。 ついにやにやとして笑みを浮かべる。 「彼女と喧嘩だなんて、珍しいわね。いったいどうしたの?」 「…………」 幹也はかぶりをふって、この話はおしまいと示した。 フィルターを噛みながら、橙子は思案する。が、まずは時間が欲しい。 「珈琲をいれてくれないかしら」 「わかりました」 すぐに立ち上がると給湯室へと向かった。しっかり歩いているようだが、ややふらついていて、重症だな、とも橙子は思った。 その間にいかにして悩んでいることを聞き出そうかといじめっ子特有の表情を浮かべながら、女オーナーは思案しはじめた。 背後で給湯室の扉がしまる音がした。 / 真っ暗な夜。 星は消え去り、ただ無慈悲な女王がその青ざめた貌を見せている。 街灯がところどころついているが、夜の闇を追い払うまでにはいたらない。 世界は夜のとばりにつつまれ、身じろぎひとつしなかった。 いつもならばもっとはっきりと聞こえるはずの車のクラックションも、家からの雑談やテレビの音も遠くに聞こえ、まるで幻のよう。 そんな中、幹也は歩いていた。 いつもの黒一色の姿は闇と同化し、影となりはてて消えてしまうかのような錯覚さえ覚えさせる。 幹也は自分のアパートにつくとポストを見る。 投函されたチラシや広告の山。それを丁寧に仕分けして必要なものとそうでないものをわける。何か入っていないかと捜し物をさがすかのような丹念さだった。 そしてチラシ以外ないことがわかると、あからさまな落胆の表情を浮かべて部屋へと移動する。 入り口の前までくるとキーチェーンを取り出す。そこには鍵が4つ、ジャラリと響く。その音が幹也の心に苦く響く。 ひとつは工房「伽藍の堂」の鍵。ひとつは式の部屋の鍵。ひとつは幹也の部屋の鍵。そしてもうひとつは――式にあげた幹也の部屋のもうひとつの鍵。 式の顔が脳裏に浮かんで、消える。それをなんともいえない目で見つめると、鍵をあける。 そして中へはいると、ガチャリと鍵をかけた。 妙に重々しい、渇いた音だった。 / 鮮花がため息をつくのを見るのは、まありよくない出来事がおきる前兆だと、同室の瀬尾は思った。 特技ともいってもいい未来視を発現させなくても、この強く前向きな黒桐鮮花がため息をつくのは、危険といってもいいと本能が告げていた。確信といってもいい。 だから君子危うきに近寄らずと別室へと逃げだそうとそおっとそおっと忍び足で部屋から出ていこうとしていた。 ようやく扉の前にまで辿り着くと、安堵のため息をはく。そして、そっと扉のノブをまわして開けた――――とたん、 「――ねぇ瀬尾」 と呼び止められてしまった。 一瞬躊躇する。しかしその躊躇が命取りだった。 「どこいくつもりよ」 すべてお見通しなの? と驚愕の表情を浮かべてしまう。 あーとえーととなにか言い訳をしようとするのだけども、言葉にならず、なんていっていいのかかわらない。まさか、鮮花あなたから逃げようとしただけですなんて、そんな命知らずのセリフなんて、口を裂けても言えるわけない。 机に向かって勉強しているはずの鮮花はこちらを一瞥ともすることもない。 背中を向けているのに、その強い意志をたたえた鮮花の目で見据えられているかのようで、瀬尾は躰がぶるぶると震え始めてしまった。 (――マリア様、お守りください) 怯える子羊は涙目で必死に聖母様に哀願する。が天の助けは届くことはない。 ギィと音がして、くるりと鮮花が瀬尾の方を向く。 本能がニゲロと叫んでいた。 鮮花は不機嫌だった。 あからさまに不機嫌だったのだ。棘というか怒気というか、それが目に見えてしまうぐらい、不機嫌で。その据わった目におののいてしまう。 「――瀬尾」 その低く、いささかドスの利いた声に、子羊は諦観した。 ひきつった笑みを浮かべてせっかく開けた、自由と平和へと続く扉を閉じる。 鮮花は腕組みし、こちらを見据えている。ビリビリとしている雰囲気に呑まれて、つい愛想笑いしてしまう自分が哀しかった。 「兄さんを知っているでしょう?」 逆らうなという本能に従って、コクコクと頭を上下にふる。 「兄さんがつき合おうとしている女性がいたのよ」 つき合っているの間違いでしょうと突っ込みたくなるが、本能が危険を感じて押しとどめる。 しかし鮮花の顔が曇る。あんなり怒気にあふれていて、強い意志の輝きがあったのに、突然陰り、哀しそうに見えた。 突然の豹変ぶりに瀬尾はびっくりしてしまう。 「ど……どうしたのよ、あざ……」 「――別れたのよ」 その声は重く、なぜか辛そうに響いた。 「兄さん――幹也と式は、別れたの」 式は窓から庭を眺めている。 陽も落ちて暗く、陰鬱な眺め。 幹也はカーテンをあけて、見えるはずもない両儀家の方を眺めた。 昏く、すべては闇の中。 雨になってしたたり落ちて、すべて消えてしまえばいいのに。 そう思ったのは式か、それとも幹也か――。 すべての者に雨が降り注ぐ――重く冷たい雨が。 |