両儀
大崎瑞香
/ 鮮花は幹也の住むアパートの前につく。 ここに泊まる決心はしていた。 幹也の部屋に泊まることを幹也は許してくれるに違いない。 夜更けだし、と時計で確認する。 終電はまだある時刻。でも幹也と問答しているうちに終わってしまう予定の時刻。 自分でも計算高いと思うけど、こうでもしないとダメだとも考えていた。 幹也のあんな痛々しい姿を見るぐらいならば、この躰を捧げても良いと思っていた。 もしそれで幹也の気持ちが晴れるのならば、誰も触れたことのない躰を捧げるぐらいどうでもよかった。 幹也から告白してくれるように良い女になる、という計画から外れてしまうけど、それでもよかった。 わたしの方から幹也に告白しても断られるから、幹也の蒲団に忍び込んで、そうして愛欲に溢れた……思わず自分の想像に貌を赤くしてしまう。 今日はそのつもりで外出届を出してきたのだし、きちんと勝負下着できめてきている。小さいリボンのついたフリルのついた可愛らしい白い下着。かわいらしさを全面に出しながらも、カッティングラインがきわどくてちょっとやらしいヤツ。 いつの日にかと思って購入しておいてよかった、と思う。 きちんと礼園の修道女めいた制服で、おしとやかに、お嬢様風に。 ついアパートの入り口の前でぶつぶつと手順を確認する。傍目から見ているとかなりヤバい女性にみえる。まるでストーカーのようだ。 失恋した幹也を慰めるのはわたしだけだと思う。 もしかしたら幹也は式にぞっこんなのかもしれない。もし抱いてくれたとしても、それは恋慕ではなく、虚しさだけかもしれない。 でも幹也がかたくなに心を閉ざす前に、すべりこまなければならない。 幹也がどんなに深く昏いところにいたとしても、わたしはこの恋心だけでどんな場所にでもいけると思う。この気持ちは式に負けるつもりなんてない。この世界で幹也を一番愛しているのはわたしなのだと信じている。 ドアをきっと見据える。顔は緊張のためかやや白く、唇が一文字に引き締められている。 チャイムを鳴らすが、出てこない。 もう寝ているのかしら、と思ってそっと鍵を取り出して、開ける。 こっそり合い鍵を作っておいてよかったと思う。 鮮花は震える胸を手でかるく押さえ、深呼吸すると、鍵を開けた。 / 式は淫欲で痺れた頭を軽くふって立ち上がる。 ぶつかって弾ける雨音だけが、この蒼白い世界を支配していた。 着崩れた襟元をあわせる。と当時に太股を伝わる愛液にぶるんと躰を震わせた。 立ち上る淫蕩な牝の匂いが鼻につき、式の顔がかすかに歪んだ。 このやらしい自分が自分の本性だと告げているようで、理性で決めたことなのに感情が聞き入れてくれない苦しみがよぎった。 「――シャワーでも浴びよう……」 言い聞かせるように呟くと、ふらふらと扉をあけて風呂場へと向かった。 静まりかえった廊下を静かに歩いていく。 暗く昏い世界の中を式はただ独り歩いていた。 まとわりつく愛液の匂い。 乱れた和服。 ほつれた髪。 うっすらと汗のういた肌は紅く艶めかしい。 今先ほどの自涜が淫らにまとわりつき、たまらなく淫靡な雰囲気をまとっていた。 それでもなお、式の足音はしない。 この板張りの廊下をまるで自らの体重がないように静かに統べるように歩いていた。 たとえ爛れた感覚に襲われていたとしても、式はやはり両儀だった。 その歩みに隙はなく、その姿がそのような淫靡なものでなければ一介の部芸者のそれであった。 しずしずと、でも音をたてず、まるで夜現れる幽鬼のように歩いていた式は、ふと歩を止めた。 雨音と自分の息以外の物音が聞こえたのだ。 そちらに視線を投げかけると、扉があいていた。 (――――――――?) その扉から灯りが漏れている。そこは無人のはずだった。今日は秋隆は休みをとっていてそこに詰めるような人物はいなかったはずなのに――。 ふと気になって覗き込む。 覗き込んだ先は警備のためのモニター室だった。 複数のテレビにカメラからの映像が映し出されている。それが次々切り替わり、両儀家の要所や外を映しだしている。 暗くよどんだ世界がモノトーンで表示されていた。 降りしきる雨で濡れた、昏いの世界。しかし木々の葉はいよいよ鮮やかに濡れながらも輝いていた。 その中に映し出されたものに式の心臓はトクンと高鳴った。 目を見開いて見入ってしまう。 (――あの……罵迦……) 一目見ただけで、熱いものがこみ上げてくる。 胸の奥のやわらかいところが震えた。 視線を彷徨わせ、そこにある小刀を手に取る。 なぜ手にしたのかかわらないし、そこになぜ小刀があるのかもわからない。でもそこに刃物があって、手に取らないといけない気がした。そうでないと、自分が壊れてしまいそうで。 それをぎゅっと握りしめる。まるで縋るように、関節が白くなるまで握りしめると、式は扉を乱暴に開けて、飛び出る。ぎしぎしと床を軋ませながら、駆け出していた。 / 鮮花は灯りをつけて見回す。 ベットの上。ドキドキしたけどお風呂。もっとドキマギしてしまったけどトイレ。 そのどこにも幹也はいなかった。 幹也がいないとわかると、とたんへなへなと崩れる。 気負いすぎていたのか、鮮花は力が入らない。 (――どこにいったのよ、幹也ったら) 幹也が今帰ってくるのではないかと、視線を入り口の方を向けて鮮花はきちんと正座して座った。 なぜか幹也が帰ってこないような不安めいたものが胸を締め上げてくる。 鮮花は手で胸を押さえて落ち着かせる。 なんでもないのよ、ただの動悸よ、と言い聞かせても。 なぜか――――――――怖かった。 怖くて、鮮花はただ玄関を見続けることしかできなかった。 / 式はギシギシと廊下をきしませて駆け抜けていく。 そしてそのまま玄関をあけて、庭を突っ切る。 外へでると雨音がいっそう激しく聞こえる。 風が一瞬駆け抜け、うなりをあげる。 木々の葉がざわめき、飛沫となって飛び散る。 頭から雨を浴びる。すぐに寝間着は濡れ場にまとわりつく。 それでも構わず、式は走った。 そして門の前までかけよると、通用門を押し開ける。 昏い世界に黒い人影。真っ黒といってもいい人影。 「――――ようやく見つけた」 聞きたかった優しい声が、うるさい雨音に掠れることなくはっきりと式の耳に届いた。 幹也がそこに傘をさして立っていた。 そしてにっこりと笑う。 式を安心させる、いつもの笑み。 その笑みを見たとたん。 その黒縁眼鏡をかけた男の顔を見たとたん。 降りしきる雨の中、立っているのを見たとたん。 式はいてもたってもいられなかった。 胸の中でぐちゃぐちゃになった感情があふれそうだった。 胸は高鳴り、頭はぼおっとして、興奮していて――でも視線は幹也から離れなかった。 「濡れちゃって」 そういって幹也は一歩前にでると、傘に式を入れた。 傘にパラパラと弾ける雨音が、なぜか心地よかった。 「あ、そうそう。お土産があるよ」 とコンビニ袋を前に差し出す。 それをきょとんと見てしまう式。 そしてそれを受け取る。 中を覗き込むと、 「――これって……」 「式、好きだろ?」 その中にはハーゲンダッツのストロベリーが2つとトマトサンドが入っていた。 それを見た途端、わなわなと式が震える。 胸でふるえる黒々としたものが、強いものがあふれかえってくる。堰を切ってあふれ出す。 「バっ、罵迦か、お前っ!」 それが第一声だった。 恋慕、憤怒、慕情、安堵、思慕、苛立ちといった昏く身勝手な欲望。 式の中にある黒々と渦巻くものが次々にあふれだす。躰を揺さぶって出ていく。 激しい奔流がこみ上げてきて、止められない。止めようもない。 でも。それでも――止めなければならなかった。 「あれ、嫌いだったかい?」 それに対して明るくとぼけた声。 それが気に障る。 気に障ってしかたがないのに、刺々しい感情をザラリと撫でていくというのに。 それは柔らかくて、その刺々しいものをやさしくくるんでしまう。 その心地よさに痺れてしまう。 「嫌いじゃないけど……いやそうじゃなくて!」 「――怒鳴らなくても聞こえるよ」 「………………」 いつもの雰囲気だった。 このいつもの掛け合いに、ふたりの心は揺れた。 式は自分の胸がこんなにぽっかりとあいていたのかと思う。 虚(うろ)がこんなにもひろがっていなんて思わなかった。 その穴の中にするりと幹也が張り込み埋めてしまった。 目の前でにこにこと微笑む男をみて、違うと思った。 この虚は幹也が埋めてくれたもので、幹也がいないと埋められないのだ、とわかった。 わかって――――――しまった。 ――とたん。 式の瞳から涙がこぼれ落ちた。 じんわりとまなじりに浮かび上がり、頬を伝わって落ちていく。 雨で濡れた頬を温かいものがしたたっていく。 一筋、二筋――。 でも言わなければならないとも思った。 ここできちんと別れを告げないといけないだとわかった。 「コクトー」 「なんだい、式」 その声はあくまで優しくて、心にじんわりと響いてくる。 それを捨ててしまうのだと思うと、躰の芯まで冷たくなるような感覚だった。 凍えて、そのまま死んでしまいそうなほど。 だからあえて幹也とも黒桐とも呼ばず、コクトーと呼んでいた。 「もうコクトーとは逢えない。伽藍の堂にもいかない」 「――どうして?」 幹也の言葉はあくまでも優しい。でもその黒縁眼鏡の奥からの視線は強く、熱かった。 「俺は両儀家だからだ」 「それじゃ意味がわからないよ、式」 「……………………」 何から話すべきなのか式は逡巡する。 ただ自分の想いを、不安を伝えられればいいと思い、しゃべり始めた。 「両儀家っていうのは『 』につながる人間を生み出そうとしてきた一族なんだ。特別な知識、脈々と伝わる旧い因習によって、俺みたいな化け物が産まれるんだ。 両儀であるということは、それだけで危険なんだ。俺の祖父も両儀だった…… でも気が狂って座敷牢に閉じこめられて死んでいった。どうしてかわかるか?」 「………………」 「化け物だったからだ。人間なのに、人間以上の身体能力をもち、複数の人格がそなわっているんだ。いったん暴れたら止めようがない。だって……人殺しではなく、殺人鬼になってしまうんだからな。 怪物なんだよ、両儀って。そしてそれは俺なんだ」 「………………そんなこと」 「それだけじゃないんだ、コクトー。俺もまた両儀を産むことを考えているんだ。そう育てられたんだから当然だよな。遙かなる螺旋の果てにあるものを見つめているんだ。世界は意味があって分割し、バラバラになってったというのに、俺の家は逆を目指すんだ。『はじまりのその前』『おわりのその後』『初源』『太極』――それを夢見て、夢想し、そして妄執している、それが両儀家なんだ。『 』につながるという狂気に囚われているんだ。あの荒耶宗蓮という糞坊主と同じなんだ。それ以上だ。そんなことをずっと追い求めているんだから。そんな狂気(ユメ)をずっと思い続けているんだからな」 「………………」 「そして――それは俺もそうなんだ。この流れる血が疼くんだ。も、もし……もし、俺がコクトーにだ、だ、だ、抱かれたとしても、考えるのは両儀を生み出すことなんだ。そしてそのことをコクトーに強制してしまう。強制してしまうんだ。そんなのヘンだろ。おかしいだろ。なのに――俺の血が、両儀家というものが囁くんだ。旧い因習と古代からの血脈が、そう言うんだ。そう囁くんだ。そう叫ぶんだ……」 「………………」 「そして俺はお前をいつか殺す。殺してしまうんだ。コクトーが流した血の中で俺は笑っているんだ。手を切り取り、足をもいで。まるで芋虫のようになったお前を俺は嗤って見ているんだ。 血の海の中でもがいているというのに、コクトーの顔には血が一滴もついてなくて、そして、そして……」 「………………」 「……それでも黒桐。お前は笑っているんだ。俺に向かって笑いを向けているんだ。俺は殺人鬼で、殺戮が好きな化け物で、魔性で、怪物なんだ。なのにお前はそれでも笑っている。そんなコトばっかり思うんだ。俺は罪を犯したんだ。なのに罰を、咎を受けるのは黒桐ばかりで」 「………………」 「そんなの間違っているんだ。罰は黒桐ではなく、俺が、この俺が受けなくちゃいけないんだ。俺は人並みの生活なんて送っちゃいけないんだ。幹也にも言ってなかったけど、俺は、俺は……ビルの浮遊する幽霊も殺したんだ。この手で、あいつの胸を突いたんだ」 「………………」 「そしてわたしは……わたしはもうひとりのわたしを……織を殺したのよ……。わたしはあの時に幹也を殺そうとして……そして……そしてそれから逃れるために、目を背けるために逃げて……その結果は……わたしは織を、もう一人のわたしも殺したのよ」 「………………」 「人ひとりしか背負えないというのに、幾人殺めたんだと思う? わたし一人の感情で、わたし一人が逃げるために、こんなにも殺めてきたのよ……。もうわたしは殺人鬼なのよ、幹也。両手どころか全身が血まみれなのよ。そしてそれでもわたしには殺人への衝動があって、血への昏い欲望があって。それは織のだと思っていたのに、本当はわたしのもので。それはいつか牙を剥くから。幹也に向いちゃうから。だから――――――」 唇は動かず、ただ心で呟く。 (こんな手で幹也の手なんて握ってはいけないのよ。わたしの必要だったものなのに――――――手放すのよ。それがわたしの罰) 式の目からぽろぽろと涙がこぼれる。雨音が聞こえ、声は嗚咽に掠れていたが、その言葉ははっきりと幹也の耳に届いた。 涙を流しながら熱く語る式の迫力に幹也は心が囚われていく。 「――――――だから、もう逢えない」 絞りだしたような掠れた声が、雨音の中、静かに響いた。 長い間の沈黙。もしかしたら刹那だったのかもしれない。ただ雨音だけが響く沈黙。 傘にあたる雨音はぐもって聞こえた。 「――安心した」 幹也はやさしく笑った。 「あ、安心って……」 「僕はね、式がとっても危険なことをやってるんじゃないかと、思ったんだ。白純先輩の時のように、独りで解決しようとしているんじゃないかってね。でもこんなことでよかった」 「……こんなことって……」 「それにね、式。僕はもしかしたら式に嫌がることをしてしまったのかなとも思っていたんだ。ヘンなことをしてしまったのかなって。でも式、君は独りじゃないんだ」 「………………」 それでも幹也が言おうとしていることを式は悟った。 そしてそれを聞いてはいけないと思った。 聞いてしまうと、今の自分が壊れてしまう。 せっかくの決心さえ、揺らいで消えてしまう。 そんなこと――させてはいけなかった。 強ばった手を動かすと、ずっと握りしめていた小刀を抜く。 雨が降り注ぐ蒼白い世界に、冴え冴えとした刃がきらめく。 すべての光を集めたかのような、その硬く美しいしなりに、幹也は見入ってしまった。 「……そんな戯言なんて聞きたくない。だからすぐに帰れっ!」 抜き身の小刀を無造作に構える。いや構えたわけではない。ただゆったりとすぐに別の動作に移れるように、リラックスした立ち姿。 (頭が混乱していても、こんなに感情で揺れ動いているのに) 式は自嘲の笑みを浮かべてしまう。ただ刃物を持っただけだというのに、この躰は、両儀の身体はいつでも目の前の男を殺せるようになっている。 肉体の方がそんな反応をしてしまう。 やっぱり自分は忌み嫌われるべき化け物だな、と自嘲する。 目を細め、幹也を見る。 瞳がぼおっと蒼く輝く。 黒い線が浮かび上がる。点から流した墨のように、黒々として冷たい線が幾重にも走っている。 死の線。 それを切れば、それだけで幹也はもう二度と……。 式は初めて構えた。 幹也はその蒼く輝く瞳に心奪われる。 その手にもつ刃物よりも冷たく澄み切ったソレ。 直死の魔眼に射すくめられてしまう。 怖かった。 冷たい刃か喉元につきつけられたのと同じ。 式が見ているのが自分の死だということがわかると、身体が震えてしまう。 怖いと思っているのに、怯えているのに、その式の双眸に吸い寄せられてしまう。 蒼く、冷たい輝き。 凍えるほど冷たいソレは確かに死に神のものだった。 死にやさしく誘うくせに、そのことには無関心な女神の瞳。 そこにある強い意志の輝きに。 そこにある死そのものに。 式の真摯な瞳に。 魅入られていく。 「――――し…………」 幹也が想いを口にしようとした途端、 風が蠢いた。 影がゆらぎ、蒼白い閃光がなびいて闇を切り裂いた。 物音ひとつしない。 聞こえるのは自分の息とぐもった雨音だけ。 蒼白い閃光は目で追える速度だというのに。 身体は反応できなかった。 その輝きは一筋の線を描いて、迫って。 一歩さがらなくちゃ、と思っているのに幹也の身体は動かない。 動けないタイミングだった。 まるで居合いのようだった。その様式もあるが、その機先を制する抜刀に、身体が反応できないのと同じ。 疾くと滑るような輝きなのに、イヤに遅く。 ジリジリと。 ジリジリと迫ってくる。 幹也の身体の中でこんなにもアドレナリンが分泌されているのに。 毛穴から吹き出しそうなほど分泌されているというのに。 一歩も動けずに。 気がつくと、冷たい感触が喉元にあった。 懐には温かい熱源。 式がするりと忍び込み、つかみかかれる距離で喉元に刃を突きつけていた。 いつの間にか傘を落としていた。 ふたりに冷たい雨が降りしきる。 コートが雨に濡れ、重くなっていく。 着物が水分を含み、若い肌にはりつき、透けてくる。 水滴が眼鏡につき、刃にあたった雨は弾けた。 式は蒼く輝く瞳は微動もしない。 ただ冷たく幹也を見ている。 ひどく落ち着いた瞳に、幹也はあの時と同じく、死を実感した。 「――――――――――――帰って……」 低く何の感情もこもっていない冷酷な声。 「今なら、まだゆるしてあげるから」 ぼそりとしゃべる、感情が剥ぎ取られた声。 剥き出しの声はこんなにも冷たいものなのかと思わせる声。 機械が創り出した暖かみなどない、ただの音声。 しかし幹也はそんな式に ――酷く とても酷く、微笑んだ――。 酷い笑みだと式は思った。 別れ間際にこんな笑みを浮かべるなんて、酷いじゃないか。 しかし次の言葉を聞いた途端、式は自分の耳を疑った。 「式、僕はね、君を一生許(はな)さないよ」 夢かと思っていた言葉。 夢うつつの中聞いたような気がする言葉。 式の心の奥深くを柔らかく掴んだ言葉。 「それにね、式――」 幹也は覗き込むように式の瞳を見つめた。 日本人らしい黒い瞳。それが時折蒼く輝く。それはとても綺麗で、幹也は気に入っていた。 透きとおりすぎて、あまりにも切なくそして抜き身の刃のような凛とした輝きは、式の雰囲気ととてもあっていた。 この誰も近づけないような凛とした雰囲気が式なのだなと実感した。 ここで式に殺されてもいいな、と思った。 式のために人を殺せるのだろうか? の答えは、結局のところ、できない、だった。 式のためにならなんでもできるかと思っていたけど、そういうことはやっぱり無理だった。 もしできるとしたら、自分を殺すぐらいだ。そのくらいならば、臆病者の自分でもできるかもしれない。 だから――式に殺されるのもいいかな、とふと思った。 式にイカれているし。 なによりとっくに――――――――――。 幹也は式に告白した。 「――――――僕はとっくに殺されているんだから。 式。とうの昔に、君に殺(あい)されたんだからね。だから君に今殺されても、本望だよ」 式の瞳が大きく揺れ、目は大きく見開かれる。 目の前の黒い服の男を見入ってしまう。 目の前の愛しい男を魅入られてしまう。 「聞いてね、式。僕は君のこと愛しているんだ――――きちんと言ったことなかったけどね」 冷たい感触。そして痛み。 切っ先が喉に触れていた。 じんわりと赤いものが表皮に滲んでくる。 「……うるさい……」 式は下を向いて顔をみせないまま呟く。 震えた声。 「そんな――そんな戯言なんて……言うな……」 「戯言じゃな――」 「うるさいっ!」 式は下を向いたまま怒鳴りつける。 でも幹也はしゃべるのをやめなかった。 「昔も――いや今でも怖いけどさ、式」 「黙れっ!」 切っ先が皮膚を撫でる。 痒みにも似た痛みが走る。 じんわりとむず痒くて、痛い。 「でも――式になら、殺されてもいいかなって」 「それ以上言うなっ!」 式は顔を上げる。 一瞬、泣いているかと幹也は思ったが、そうではなかった。 潤んでいたが、その視線は鋭く。 その瞳はほのかに蒼く、まるで夜空にまたたく星のように輝いていた。 潤んでいる瞳のまま、まっすぐと幹也を見る。 その視線は幹也の心にまで飛び込んでくる。 射抜かれてしまう。 その見開かれた瞳に。 心まで。 絶望と歓喜と苦悩と悦楽と渇望が入り交じった視線に。 幹也という存在そのものが縛られてしまう。 魅入られてしまう。 見とれてしまう。 とたん、幹也は押し倒されてしまう。 雨に濡れて黒色に輝くアスファルトの上に転がる。 音はしなかったが、はげしく水飛沫がたち、痛みだけが残った。 そして幹也の上に式が馬乗りになる。 その手には小刀。 その瞳には苦悩と歓喜。 唇にはうっすらとした笑み。 その笑みは死に死に神のそれか、それとも――。 ただ雨が世界に降りしきる。 濡れぼそったふたりの動きは止まる。 雨のぐもった重々しい音だけが響き渡る。 なのに聞こえるのは互いの呼吸だけ。 それだけが聞こえた。 「――ならば幹也。今からわたしがあなたを――」 雨音で聞こえない。溺れそうなほどの雨の中、水滴でよく見えない眼鏡の奥から幹也は式の唇が見えた。 式の血の気の失った唇がゆっくりと動く。 コ ・ ロ ・ シ ・ テ ・ ア ・ ゲ ・ ル と――――――。 |