Nec possum tecum vivere, nec sine te.
-私はおまえとともに生きていけない、おまえなしに生きていけない-

                          阿羅本 景

承前

Chapter.1

Curatio vulneris gravior vulnere saepe fuit.
傷の治療はしばしばその傷の痛みよりも
大きな痛みを伴う


chapter2

Dum fata sinunt vivite laeti.
運命が許す間、喜々として生きよ。



 
 プラスターで塗り固められた壁とワックスが長年染み込んだ床板。まるで修
道院のようだ、と思いながら歩く少女がいた。月姫蒼香は苦り切ったような、
だがなにやら面白いことを嗅ぎつけたような顔で歩いていた。
 髪を後ろでまとめ、ゴムで留めただけの横顔は少女の愛らしさより、少年の
ような凛々しさがある。線のしっかりした顔はそのまま男装をさせても似合う
ようであった。が、今の恰好たるや少年と言っても通じるような恰好だったが。

 上はTシャツ一枚で、下はトレーニングスーツ。何かの部活帰りと言っても
通じる恰好であったが、これがこの寄宿舎の夏の彼女の服装であった。
 あまりのラフさにすれ違う下級生は驚きの目で見つめられることもあったが、
高等部の三大偏屈者で通る蒼香は、そのまま柳に風とばかりに鼻歌混じりで廊
下を歩き、居室に向かう。
 寄宿舎には冷房が完備されており、外の焦熱は伝わってこない。蒼香は目を
瞑っても分かる自分の部屋の前に着くとノックもせずにドアノブを握る。

「遠野!いるよァ!」

 扉を開けるなり、無遠慮に部屋の中に一声呼ばわった。
 その声には寄宿舎の居室の中に響き、中にいる二人の少女に違った反応を引
き起こす。
 一人の少女は、机の上でハサミを片手に何かを細工していたがすぐに戸口の
方に振り返って、嬉しそうな緩い笑顔を返す。
 蒼香の同室、蒼香にとっての数少ない友人と言える三澤羽居であった。

「おかえりなさーい、蒼香ちゃんー、お出かけじゃなかったのー」
「そうも行かない事情が出来てな、で、遠野は何している?」

 戸口に立ち止まって戸枠に肘を突く恰好で蒼香が問うと、うーん、と一拍置
いて考える仕草を取った羽居が部屋の奥のベッドの上を指さす。
 二段ベッドが二組、そしてその下段に人影がある。

 俯せになった、肩胛骨ほどに延ばした髪を背中に広げさせている少女。
 これが、遠野秋葉の姿であった。蒼香に呼びかけられて、ぴくりと背中を動
かしただけだった。
 蒼香はベッドの上の秋葉を見ると、うへぇ、と露骨に顔を歪める。

「……生徒会長サマはご機嫌斜めか、いつものように」
「うーんと、そーみたい。お仕事あれば元気になるのにねー」

 手仕事の手を留めていた羽居は、秋葉ちゃんやってみる?とハサミとノリを
秋葉に指し示してみせるが、枕から秋葉は顔を上げようともしない。
 蒼香は短く刈り込んだ側頭部を指で掻きながら、口元をへの時に曲げて困惑する。

 ――まーったく可愛くない

 蒼香は聞き取れないほどに愚痴を口にすると、代わりにあからさまな溜息を
ついてみせる。
 秋葉は冬に寄宿舎に戻っていたが、それからというもの蒼香の目から見ても、
精神的に不健康な生活を送っていた。

 当初はポストでの騒ぎなどがあった秋葉であったが、冬の間に来た一通の手
紙を見てから意固地に寄宿舎の中に立て篭もり始めていた。彼女の愛しいお兄
様のことだな、と蒼香はアタリをつけていたが、あまり首を突っ込む気にもな
れずに放っておくことにしていた。

 秋葉のばっさりと切った髪がだんだん元に戻り初めて来たときに、同室の蒼
香は嫌でも秋葉の精神的な変調を意識せざるをえなくなった。

 だんだん秋葉の様子が鬱病に近くなってくると蒼香にも流石に放置は出来な
くなってきていた。生徒会長の仕事や課題があるときは普段の秋葉になるが、
やることが無くなるとベッドに籠もって鬱々と過ごすばかりであった。寮内の
他の生徒にはこの秋葉の行動はある種の畏怖――軽々しく動かないが故の――
を与えていたが、同室の蒼香には堪った物ではなかった。

 全く堪えていないのは同室の羽居ぐらいであっただろう。秋葉が居ても居な
くても、鬱でも操でもひたすらマイペースなルームメイトに蒼香は羨望を憶え
ている。

 自分も浅上では一二を争うほど神経は太いつもりだったが、こいつは次元が
違う、と。
 
 蒼香は頭を振りながら、ゆるゆると部屋の中に入っていく。
 一度思い雰囲気に耐えかねて蒼香が秋葉を問いただしてみたところ、出て来
た答えというのは……

 ――兄さんが悪いんです、なにもかも

 というあまりにも抽象的な答えだったので、蒼香には正直この鬱のルームメ
イトを一体どうしたものか正直わからないものがあった。卒業までこうして居
るつもりか?とも不安に思ったこともある。だがしかし――

 蒼香は椅子をひっぱって来ると、ベッドの傍らに下ろして腰を掛ける。
 足を組んで蒼香は、まず秋葉を黙って眺めていた。こういう鬱の状態に陥っ
てしまった秋葉に話しかけても無駄に終わることが多いことを知っている以上、
まず気を引かなくてはいけない。
 蒼香が二度ほど脚を組み替えると、もぞり、と秋葉が顔を動かす。

「……私に何か用なの?蒼香」
「んー、まぁな。正確にはオレの用がある訳じゃなくて、使い走りにすぎない
んだけどな」

 蒼香はようやく枕から顔を離した秋葉の顔を拝む事が出来た。
 一応はゆったりとした私服に着替えている秋葉は、寝ぼけている訳ではなく
確かな眼で蒼香を見つめ返していた。そして、ぼつりと尋ねる。

「…………どんな用なの?」

 ようやく興味を示し始めた秋葉に、しめしめと心の中で思う蒼香。この状態
だとたとえ生徒会の用がある後輩や同級生でも追い返してしまうことがある秋
葉なのだから、ぶっきらぼうとはいえ話を聞く以上は脈があると言うことである。

 蒼香は頭の中で、自分に託された用件を一体どういう風に口にすればいいの
かをつと考える。思わず腕を組んでどう口にしたものかを考えるが、持って回っ
た言い方を思いつく訳でもなく、まずはぽんと両膝を叩いて単刀直入に切り出
すことにした。

 蒼香は腕を膝に付き、前屈みになって秋葉に告げる。

「寮母のシスターからな、遠野、お前にお客が来ているって」
「……誰?」
「二人。一人は上の姓を聞いていないけども、コハクって言うそうだ。あれか、
宝石のコハクなのかな?優雅な名前だ」

 蒼香が口にしたことに、秋葉は耳をそばだてていた。秋葉にとっても琥珀と
いうのはもちろん覚えがない名前ではないが、それに対してコメントすること
なく蒼香の言葉を待った。
 じっと身動きもしないで話を聞いている秋葉を、蒼香はついニヤニヤしなが
ら眺め下ろす。

 ははぁん、脈ありだな……と蒼香はにやついて膝を組む。

「……それは私の家の使用人よ。一体何の用があって……」
「もう一人は誰かを聞かないのか?遠野」

 次第ににじみ出てくる動揺を面白がって蒼香が尋ねると、秋葉は途端に不機
嫌そうに枕に顔を戻してしまう。こうなるとは分かっていたが、可愛らしくも
素直でもない秋葉の行動を、自分のことを棚に置いて呆れる思いで蒼香はいる。

「……誰よ」
「遠野志貴って言うんだと。お前の兄貴だろ?」

 さんざん焦らせようかと考えていたが、下手に婉曲な表現を取るのが苦手な
蒼香は竹を割ったようにすっぱりとその名前を口にした。
 その瞬間、秋葉は文字通りベッドの上から跳ね起きた。

 その様子の激しさに、思わず蒼香は笑い転げそうになっていた。ほとんど半
年ぶりに見る秋葉の思いも寄らぬ行動と顔色が蒼香にはおかしくて仕方ない。
 くっくっく、と口元を抑えて笑う蒼香の前で、秋葉はまずは喜悦の顔で跳ね
起き、先ほどの鬱が嘘のような生き生きした生気を放っていた。が、次の瞬間
に困惑したような顔色がじわじわと顔に広がっていき、ついには青い顔になっ
て爪を噛み出す。

「…………それは本当?蒼香」
「嘘付けるのなら嘘付いてるよ、遠野、それも六ヶ月ぐらい前に。どうやらお
前のお兄様はしびれを切らせて妹を迎えにしたらしいな、まったく羨ましくな
るような兄弟愛で。妹より檀家のじーちゃんばーちゃんを大事にするボンズの
兄貴達に見せてやりたいよ……ってーおい、遠野?」

 蒼香が見ている目の前で、爪を噛んでいた秋葉はそのままばったりと倒れ込
むと、またしても枕に顔を埋めて鬱屈状態に逆戻りしてしまった。思わぬ挙動
に蒼香が腰を浮かし、秋葉の肩を掴んで揺さぶる。

「おい遠野、一体どうしたんだよ?」
「……会いたくありません、兄さんとは……」
「おいおいおいおい……今までお前、そのお兄様と会いたくて駄々こねてたん
じゃないのか?せっかく向こうがやって来たのに遠野が……」
「…………」

 揺さぶられても身動き一つせず、まるで自閉するかのようなかたくなな態度
の秋葉に、蒼香はあきらめて手を離す。そして腕組みしてからかう様な口調で
秋葉に浴びせかける。

「……はぁん、お前……意地っ張りが過ぎて、引き返しが付かなくなった?」
「…………」
「お前の愛しい兄様にさんざんダダこねて、今更喜んで会いに行く顔がないっ
てか……素直じゃないなぁ、遠野、お前その意地を何とかしないと損するぜ?」

 秋葉の答えはない。この沈黙は図星を突いた故か……と蒼香は思っていたが、
引きずり起こして秋葉を面会室に連れていくだけの、腕力も気力もお節介も無
い蒼香は渋々頭を振りながらクローゼットに向かう。

 秋葉と蒼香のやり取りを離れて見守っていた羽居が、首を傾げて尋ねてくる。

「あれー、蒼香ちゃん。なんでお着替えするの?」
「そりゃお前、面会室で校外のお客に会うのにこの恰好じゃダメだろ?」
「じゃぁ、蒼香ちゃんが秋葉ちゃんのお兄さんと会いに行くんだー」

 Tシャツを脱ぎ捨ててセーラー服に腕を通す蒼香は、しかたないからな、答える。

「遠野は会いたくありませんと言ってます、じゃぁ。の伝言ゲームじゃ済まな
いだろ。同室の誼だ、遠野の兄貴に説明しに言ってやるってコト」
「ふーん……ねぇ、蒼香ちゃん?」

 羽居は工作道具を袋にしまいながら立ち上がり、ほえっと笑って蒼香に向かう。
 後ろで結っている髪を戻し、普段の学生の姿になりつつある蒼香はなんだ?
と言う顔で見つめ返す。

「私も一緒に行っていいかなぁ?」
「行くって……遠野の兄貴に会いに?」
「うん、わたしもその『ドウシツのヨシミ』ってのみたいだからー」

 そうは尋ねながらも、羽居は蒼香に並んでクローゼットの中を探り、制服を
取り出す。答えを待たずに動き始める羽居に蒼香は一瞬呆然したが、そのマイ
ペースさと腹の太さには呆れたように笑う。
 すっかり浅上女学院の女子生徒の姿に化けた蒼香が、腰を手に当てて二段ベッ
ドを振り返る。そこに見たのは……相変わらずベッドの中に横たわり、鬱々と
沈む秋葉の背中だった。

「オレが良い悪いじゃなくて遠野の事情だと思うけどな……まあ、あいつはあ
んな感じだから構わないだろ、本当は遠野が会いに行く訳なんだし」
「……………」
「……遠野、少しは肩肘の力を抜けって。ま、オレが言っても説得力無いけどな」
「できたよー、蒼香ちゃん、行こ〜」

 まるでピクニックに出掛けるかのように朗らかにはしゃぐ羽居。
 蒼香は天井を睨んで、長くやるせない溜息を流す。一体どういう風に今の秋
葉の状態を説明したものか、と……それ以上に、一回写真でちらりと見ただけ
の眼鏡を掛けた、秋葉の兄という人物に興味があった。

 何しろ、浅上の鉄の女こと遠野秋葉を恋に煩悶する少女に変えてしまったの
だから――

「やーれやれ、可愛くない。そんな性格ブスの真似してるとお兄様に嫌われる
ぞ、まったく……」

 そんなことを呟きながら、蒼香は口元がついついにやけてしまうのを意識する。
 同室の秋葉をタネにして、なにやら面白そうな騒動の薫りを嗅ぎつけていた
のだから。そう言うのも悪くはないな、この静かすぎる浅上の中では……と思
いながら。

(To Be Continued....)