Curatio vulneris gravior
vulnere saepe fuit.
-傷の治療は、しばしば傷そのものより大きな痛みをともなう-
阿羅本 景
それは底の深い眠りのようであった。
夢のように巡るのは、あの最後の日の遠野の庭。血刀を操るシキとの戦い、
そしてシキを殺し、己の内に取り込んでしまった秋葉。
最愛の妹を、いや女性は取り返しの付かない事になってしまった。折角結ば
れた矢先の悲しい離別。秋葉を救うには、自分はああするしかなかった。
その結果、志貴はこうやって闇の中を彷徨っていた。
無明の闇の中で、どれだけ足掻いていたのかも定かではない。今は出口を探
して迷う事にも倦み疲れ、空間の中で浮かぶでもなく、横たわるでもな、有り
体にいれば漂っていた。
このまま漂い続ければ、闇に蝕まれ己が誰で思い出せなくなるだろう。
だが……どうしようもない。
――ほんとうに、なにもかも、わからなくなる……
上も下も平行もない闇は――己が見続けていた死の線の向こう側かと志貴は
思う。変化のない沈滞の世界。そして、僅かに……沈んでいく。
秋葉はどうなったか、と輪郭のぼやけてきた意識で思う。だが、そんなこと
を思う間にも最期の時が訪れんとしていた。
志貴の意識は、いきなり闇を切り裂く光の奔騰に包まれる。
光は様々な色に輝き、恐ろしい勢いで志貴を押し流す。この流れは自分を、
決して変えることのない世界へと誘う――志貴はそう思う
――これが、本当の死か
志貴はひどく醒めた意識でもってそう考えた。
――最期に、秋葉に……翡翠に、琥珀に、有彦に、そして先輩に会えなかっ
たのが残念だったな。
そう思う間もなく――
§ §
――天国の光景というのは、味気ないものだ
光の中で志貴は目を開き、そんな事を考える。
目の中に映るのは、ランプを下げた石積みの天井。まるで城の中の一室に居
るかのような光景であった。せめて天井には何かを貼った方が良い、これじゃ
無愛想すぎる、と志貴はらしくもなく考えた。
そうして、志貴はようやくここが、あの漂い続けた黒糖蜜のような闇の中で
はないことに遅ればせながら気がついた。そして、志貴の頭はここが死後の世
界、それも天国だろうと状況を判断していた。
それにしては、この天国というものはまるで日本らしくない。
形式上は仏教との端くれだった志貴はインド風の極楽浄土にいけるかもしれ
ないが、あまりにもらしくない。神道の方だったら黄泉の国かもしれないが、
それにしても石造の建物の中で、朝日が燦々と刺しているのは妙な感じだ。
――じゃぁ、俺はどこの宗旨の天国に居るんだ?
志貴は目を開き、まんじりともせずに天井を眺めていた。
そして、自分の身体の上に粗い毛織りの毛布が被せられ、頭の後ろには堅め
のクッションの入った枕が宛われていることに気がつく。足に感じるシーツの
感触は晒しの木綿のように感じる。
「……参ったな、なんだってキリスト教徒の天国に……」
志貴はそんな風に小さく愚痴る。愚痴ってから今更のように、口が利けたこ
とに気がつく。だが、妙に音程が高いような気がする。
いや、口が利けたどころか、今の志貴には肉体の感覚があった。
――? なんか違うな……
身体を起こす気力も体力もないが、毛布の下で手を握って見たり、足をすり
あわせてみたりすると確かに身体の感覚がある。その感覚はリアルであったが、
現実にしては奇妙であった。
志貴の憶えている感覚よりも、サイズが小さい。
志貴は朝陽の差す方向に向かって顔を向ける。石像の壁に、質素な調度品。
ベッドはダブルのサイズがあるように見える。窓は鎧戸が外され、硝子越し
に空が見える。
天国と言うにはあまりにも、質素かつ飛躍のない情景である。
「……じゃぁ、ここは何処だ」
誰に聞くともなく志貴は呟き……重要なことに気が付いた。
寝起きで眼鏡を掛けていないにも関わらず、あの死の線が全くない。
「……生き返った……んじゃないのか?いや、そんな……」
見たいと思って見たことはない死の線であるが、俄に己の視界から消え去る
と逆に不安を覚える。志貴は忌み嫌いながらも、死の線が見える己の目に慣れ
きっていた。しかるに、今の状況は志貴に狼狽を生むばかりである。
ベッドの中で身体をこわばらせて、志貴は独り混乱の中に沈んでいた。
考えれば考えるほど、今の場所も、自分の状況も、何もかもが分からなくな
っていく。目をつぶればこれが夢であるかも知れないが、もし夢であるとして
もあの無明の闇に戻るよりは、この夢を見る方を選びたかった。
志貴が求めているのは――状況説明であった。
そして、それを与える予兆を志貴の感覚は感じた。
ニスも塗っていない木を鋳造の金具で留めた扉が、軋むようにして開く。
そして、そこに姿を現したのは――
「せん、ぱい?」
「……お目覚めですか?遠野くん」
懐かしい声であった。
その声の主の姿を目にする前に、志貴の心にその声が染み通る。誤解から刃
を交えることこそあったが、志貴にとってはその柔らかい声は過ぎ去りし平穏
な日常の象徴。
思わず涙ぐみながら、志貴は頭を起こして声の方を向く。
そこには眼鏡をした、シエルが居た。
服は黒い修道衣で、扉から身体を覗くようにしている。朝の明るい光の中で
あったが、シエルの顔色はあまり良くはない。ふっくらとしたところがあった
シエルの頬は、僅かに痩せて鋭さを増している様に見えた。
それでも、シエルの顔は安堵の笑みを浮かべている。
「先輩……ここは……俺は……」
シエルの登場で、志貴はやっと自分が現世の世界に戻ってきたのだと確信する。
聞きたいことは志貴には山ほど会った。ここは何処で、どれくらい時間が経っ
て、それに今の自分が、秋葉がどうなっているのか。その為には今ここでのん
びり寝転がっている訳にはいかなかった。
志貴はまるで借り物のような身体を起こす。
だが、起きてみると改めて違和感がある。身体の感覚がやけにこぢんまりと
している。
そんなことに構わず、志貴はベッドを降りてシエルに駆け寄ろうとした。
「遠野くん、危ない!」
ベッドから跳ね起きる志貴に、シエルは慌てて声を掛ける。
だが、志貴はなんでそんなことをシエルが口にするのかの見当が皆目付かな
かった。
――そんな、ベッドから降りるだけなのに
そんなことを考えながら志貴は床に立ち上がろうとすると……
足が空を切った。
「え?」
文字通り、志貴の足は空を切った。地面に付いたつもりで足を動かしていたが、
足は空中を遊泳すると、そのままベッドの縁にぶつかる。
なにが志貴に起こったのか、さっぱり分からない。だがもう片足も空中を泳ぐ
「え?」
――なんで足が届かない!
志貴は心の中で叫ぶ。そんなことを思っている間にも、両足が地面を掴み損ね
て図らずも身体のバランスが崩れ、上体が床に向かって投げ出される。
「うわぁぁぁぁ!」
ぐんぐんと迫る石畳の床。そこから顔をかばおうと志貴は必死に手を床に向け
て突き出す。受け身としては賢いとは言えないが、本能故の行動だからいかんと
もしがたい。
そして手が、身体が、顔が床を撃つ前に……
「ハッ!」
一足早くシエルが手を伸ばし、志貴の後ろ襟を掴む。
病院の患者衣の様な薄い服であったが、シエルの腕は首筋ごと志貴の身体を
支えていた。志貴は床を目の前にして、身体が急停止するのを感じる。
「……ふぅ」
「もう、遠野くん、危ないって言ったじゃないですか!」
志貴を抱き起こしながら、シエルは少し怒ったような口調で口を利いていた。
助けられた方の志貴も、こう叱られるように言われた以上反射的に謝ってしまう。
「ごめん先輩、転ぶとは思っていなかったから……」
「ああ……遠野くん、もしかしてまだ気が付いてませんか?」
シエルの手によって床に立たされる。足にひんやりとした石畳の冷たさが伝わった。
志貴は立って周囲を見回し――やはり何かがおかしい事に思い当たる。
視界がやけに低い。慎重が半メーターは下がった感じで、ほとんど目線が同
じだったシエルを遙かに見上げるような低さ。
――まるで、背が縮んだような……
「気がつくって、なにを?」
志貴は思わず生唾を飲んで聞き返した。目覚めてから、蘇ってからと言うも
の、このつきまとう違和感が志貴を不安にさせていた。自分が死の淵から蘇っ
たという喜びはなく、ただこの自分の得体の知れない状況に関する気味の悪さ
ばかりがある。
シエルは、目線を逸らして眉根を寄せ何事かを考え込んでいた。そしてちら
りと眼鏡越しに志貴を一瞥すると、ひょいとしゃがみ込んで志貴と目線を合わ
せた。
まるで、子供に話しかけるかのようなシエルの挙措。
「……はい、遠野くん。こうすれば分かると思いますけども……」
「俺が……縮んだのか?」
志貴が震える声で口にすると、シエルは少し困ったような顔になる。
早く答えを言ってくれ――という志貴の思いを死ってか知らずか、シエルは
ゆっくりと噛んで含めるように言い聞かせる。
「それは、半分しか当たってません。
まず、状況の分からない遠野くんのために……ここはルッカの教会施設です」
「……?」
「国はイタリアです。遠野くんを生き返らせるために、日本から運んできました。
で、幸い遠野くんは蘇生したのですが……その……」
シエルの言葉が途端に歯切れは悪くなる。問い返す言葉もない志貴の目の前
で、シエルは口をへの字に曲げて、なんと言ったらいいのか分からない、とい
う風情で困っている。 志貴は、そんなシエルに先を促す。
「……その、俺はどうなったの?それより秋葉は?」
「ああ、秋葉さんはご無事です……が、それよりも問題は遠野くんでして……
その……蘇生は成功したんです、ええ、死徒の浸食も何もありません、でも、
問題が……」
シエルはそこで口ごもると、やおら腰を上げてすたすたと質素なタンスに歩
み寄る。そして、その中を覗き込んで大きめの姿見を取り出すと、なんとも言
いようのない複雑な表情のままで帰ってくる。
志貴はその顔に、後悔というか、躊躇いを感じていた。どちらかというと神
経が図太く、自分は愚か強面の秋葉に対しても物怖じせずに言いたいことをい
うシエルをしてここまで躊躇わせる「なにか」が我が身に起きている――志貴
の不安はいや増すばかりであった。
「ど、どうしたのさ先輩……らしくないよ……」
「その……遠野くん……これは、仕方なかったんですよ?」
肝心の、志貴に何が起こったのかを迂回して弁明に回るシエルに、志貴はだ
んだん苛立ちをも感じていた。遠回りなシエルの態度に堪りかね、志貴は思わ
ず声に力を込める。
「……先輩、それを見れば、何が起こったのかがわかるのか?」
「ええ、それはもう覿面に……そうですね、こればっかりは後回しに出来ませ
んからね。私の未練でした、遠野くん――はい、どうぞ」
――まぁ、まるで俺の子供時代のような
シエルが差し出した姿見の中に映る姿を見て、志貴がまず感じたのはそれだった。
年は十歳ぐらいで、目つきが鋭い短髪の少年。髪は黒だが目は群青色で、薄
いグリーンの貫頭衣をまとっている。
「これが、今の遠野くんの……今の……」
「うん、先輩、それは分かる……って、えええええええええ!!!!」
自分が喋ると鏡の中の子供も口を動かす。その事実は取りも直さず、自分が
子供になってしまった――そう、否が応でも分からされてしまった為に、志貴
は思わず絶叫を上げていた。
いや、志貴でなくても絶叫の一つも上げたことだろう。なにしろ、高校生か
らここまで変わり果ててしまえば……
「ぬぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「と、遠野くん、落ち着いてください!」
――それは無理な相談だ、先輩
そんなことを頭の中では考えるが、今の志貴はそんな意識とは裏腹に、身体
が暴走して驚愕の絶叫を上げるのみであった。
「ど、どどどど、どうしてこんな事になっちゃったんだよ先輩!」
「そ、それは説明すれば長くなるのですが……取りあえず、落ち着いてください!」
姿見を持ったままあたふたとするシエルに、その前で身体をせわしげに触り
混乱のままその場で地団駄を踏む志貴。姿見一枚によって引き起こされた混乱
は、収集の兆しを見せていない。
志貴はほとんど半泣きで叫んでいた。
「こ、これ、これ直るの?先輩!」
「……直るというか、その……元に戻るというのは……ごめんなさい……」
『ごめんなさい』
その言葉の意味を、志貴は「不可能」と取った。
つまりは――もう、あの高校生の遠野志貴の身体には戻れないと。
――嘘
《つづく》
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