だが、事態はあっさりと蒼香の予想を超える様相を呈していた。
 蒼香は十分後に、まさか自分が寮の面会室で、椅子に腰を下ろして腰を抜か
している羽目になるとは思わなかった。いや、思えるのは予言者か変人だけだっ
た、としても。

 ちらりと眼を横の羽居に走らせると、そこにはぽやーっと笑っている顔があっ
た、が、付き合いが長い蒼香にはこの羽居の顔が、驚愕のあまり正体を失い掛
けている顔だと分かる。
 そう言う自分も、どんな顔をしているのか見当の付かない蒼香である。

 目の前には、和服の女性とズボン姿の子供が座っている。
 一見すると親子か姉弟か、和服の女性はこれもにこりと笑っているが何とな
く悪巧みをしているようであり、子供の方は緊張し、また恐ろしいほどの居心
地の悪さを感じているようであった。こういってはなんだが、両方とも見目は
よい。

 蒼香にはそれが最初、何かの間違いだと思った。自分は秋葉の兄に会いに来
たのであり、こんな親子か姉弟には用はない筈だった。
 ――果たしてそれが、遠野志貴その人であると知るまでは。

「……だからいやだったんだよ琥珀さん……」
「でも、これ以上秋葉さまをお待たせするのも悪いと思いましたが……」

 二人は小さく囁きながら何かを話し合っているが、蒼香にはまず信じられな
い思いの強さ故に話している言葉も碌に耳に入らなかった。
 蒼香は人前でそのようなことをするのは無礼であると知りながらも、思わず
ごしごしと顔をこすってから改めて目の前を見る。だが、二人の姿は変わらない。

「……その、本当に、遠野の兄さん……?」
「信じて貰えないかも知れないけど、そう。えーっと……」
「月姫蒼香です」
「……月姫ちゃん、遠野志貴なんだ、俺が」

 信じろと言われても無理な話である。何しろ目の前にいるのがどう見ても小
学生の男の子であるのだから。ふるふると首を振ると、蒼香は腕を組んでどう
しても自然に不躾な視線を志貴に浴びせてしまう。
 浴びせられる方の志貴も、仕方がないという諦めと焦りに似た感情に浸っている。

「……なんで……高校生だと聞いたけど、なんだってそんなに……」
「半年前までは間違いなくそうだった。保証しても良い。だが……いろいろこ
の世には説明の付けがたい出来事があって、一度で十分なのに二度三度とそれ
が重なった挙げ句にこうなってしまった訳で……御免、説明になってないな」

 少年は手を広げて自分を示すが、すぐにしゅんとなって手を下ろす。
 その横では、琥珀も「どう説明しましょうかねぇ?」と首を捻るばかりであっ
た。蒼香は動揺し、羽居は幸せそうに思考停止状態に陥っていた。
 かくして誰も何とも言えないまま、調度の整った面談室の中を沈黙が占める。

 蒼香は一度目を瞑ると、意を決して話し始める。

「……秋葉の周りは色々説明の付かないことは起こるけど、今回ばかりは……
本当に、遠野の兄貴なのか……」
「……説得できないのは忸怩たるものがあるが、月姫ちゃん、信じてくれ」

 そう言って少年志貴が、深々と頭を下げる。
 目の前の存在はあまりにもナンセンスであったが、ナンセンスでありすぎる
が為に逆に迫真でもあった。秋葉や蒼香を騙そうとしているのであれば、それ
らしい高校生を連れてくるだろう。まかり間違っても小学生を連れてきて秋葉
の兄だとは言うわけがない。
 
 馬鹿馬鹿しいだけあって、逆に嘘とは思えない……少なくとも、志貴の真剣
な様子からすると。とりあえずこの際は羽居の顰みに倣って思考停止するべき
なのかを頭の中で過ぎらせていた蒼香は、志貴が口を開くの見る。

「秋葉は……どうしてるのか、教えてくれないか?」

 そう聞かれて、初めて蒼香は自分の用事を思い出した。最初の一歩で激しく
躓いてしまったために切り出せなかった用を思い浮かべ、蒼香は果たしてこの
目の前の不思議な二人組に告げるべきかどうかに戸惑う。

 それが蒼香の、常識人としての反応だった。
 だが、その傍らの非常識人はあっさりと目の前の事態を肯定していた。
 それは――羽居である。 

「秋葉ちゃんは、志貴お兄さんに会いたくないって言っててー」

 その言葉に、はっと目の前の少年の顔色が変わる。
 今にも泣き出しそうなほど引きつった顔には、深い悔悟と苦慮、そして哀切
が宿っていた。まるで自分の魂の半分を引きちぎられた痛みに呻くかのような。

 その顔色に蒼香は確信を抱く。百万言を翻しても理解できなかったことが、
この顔色一つで分かるような……そんな印象すらある。すくなくとも、本当の
兄であり、おそらく恋人でもある遠野志貴ではないと、こんな顔は出来ない
――少なくともこの年の少年には。

「会いたくない……って……」
「うんー。ベッドの上に寝たふりしたまま、蒼香ちゃんがいくら言ってもだめ
だったのー」

 羽居がそう告げると、志貴はがっくりと肩を落とした。首まで落として絶望
に打ちひしがれる横で、琥珀がそんな志貴の様子を心配そうに伺っている。

「秋葉さまがそのような……折角志貴さまがいらっしゃったのに」
「……やはり、すぐ迎えに行くべきだったのかな、琥珀さん……秋葉は俺のこ
とが嫌いになって……そんなはずは……いや……」

 志貴の言葉は消え入るように頼りない。
 それまで沈黙を守っていた蒼香は、ぽつりと口を開いた。

「遠野の奴は……志貴の兄さんを嫌いになるはずがないですよ」
「……それは……」
「あいつが誰か人を嫌いになったら、こんなに意地を張る訳がない。そう言う
無駄なことは嫌いな質なんですよ、遠野は。でも、しかし」

 蒼香は改めて志貴を上から下までまじまじ見つめて、やはり信じられないと
ばかりに頭を振る。志貴はその視線の中で身の置き場がないように縮こまり、
ただでさえ華奢な少年の姿はさらに小さく見える。

「……こんな、小さくなるのは予想外だと思いますけど」
「だろうね、俺も予想外で……あいつに合わせる顔がないから……」
「でも志貴さま。現実を受け入れないことには秋葉さまも……」

 志貴は俯いて唇を噛む。これが、今まで志貴がずっと恐れていたことであった。
 秋葉と結ばれながらも、秋葉を生かすために自分勝手な死を選んでしまった
自分に秋葉が腹を立てること。長すぎる別離の時間が秋葉の心を凍らせること。
そして変わり果ててしまった己の姿に秋葉が拒絶を示すこと。

 秋葉に拒絶される――それは志貴の中の命の意味を殺す、悪夢だった。
 もし秋葉に拒絶される事になれば、生き返った意味すらも無くなる……

 だが、それに対して志貴が出来ることはあまりにも少なく、彼自身も無力で
あった。
 琥珀も志貴を助けるためには身も心もを惜しまなかったが、秋葉に対してな
すべき術を持たないことには変わりがない。

 蒼香は深く椅子に腰を下ろしたまま、しばし黙考する。
 蒼香には、目の前の志貴の痛々しい様子が見ていられなかった。こんな少年
があんなに深い絶望の色を浮かべるというのは、良いことには思えない。
 それに、この再会の機会を逃せば秋葉は今よりも激しい鬱の中に沈んで行く
であろう事も間違いなかった。今でさえ過ごしづらい空気を巻き散らかす秋葉
が、これ以上の気鬱のタネになるというのは蒼香にとっても願い下げだった。

 なんとかしなければいけない。何故こうなったか?は棚上げにしておいても。

「……しかし、どうしたものか……」

 思わず険しくなってしまう瞳で、蒼香は志貴を凝視する。蒼香は腕を組んで
首を捻るが、量産がすぐに思いつくわけでもない。そして、物を言うのも辛げ
な志貴は黙りこくって座り込み、琥珀もなす術がない。

「やっぱり、秋葉ちゃんに遠野のお兄さんが会った方が良いと思うの〜」

 緊迫した手詰まりの雰囲気が漂い始める中で、徹頭徹尾マイペースな羽居の
発言が響く。そりゃお前、解決になってないよと頭ごなしに言いたくなる思い
をぐっと蒼香は堪える。今は無駄だ無理だと思ってもとにかく解決の端緒を掴
まなくてはいけない。

「会わせたら逆効果かも知れないけども、嘘を着きつづける訳にはいかないか
らな。イヤだぞ、遠野にに嘘吐き呼ばわりされて糾弾されるのは……」
「うん、やっぱりそーだよねー」

 うんうん、と羽居が頷く。目の前の志貴はぐっと黙っていたが、ぽつりと口を開く。
 蒼香は組んだ腕を離して、志貴の言葉に耳を傾けた。

「……いろいろ迷惑を掛けて済まないが、なんとか……秋葉に会えないものだ
ろうか?」
「それは……遠野を連れてくればいいんですけども、今の遠野はテコでも動か
せないから」
「うん、秋葉ちゃん強情だしー、私と蒼香ちゃんで抱っこしてくることもでき
ないの〜」

 蒼香はベッドの上に螺子止めされた置物ように動かない秋葉の姿を思うかべ
て嘆息する。
 そうなると、志貴と秋葉が会いに行くのは一つの手段しかない。

 志貴が秋葉の部屋まで会いに行く――

「無理だな、それは」

 その考えに思い当たった蒼香が断定する。口調の険しさに驚きながらも志貴
は、蒼香を伺う。

「それは……やはり秋葉は……」
「秋葉を連れてくるのはもちろん、この寄宿舎で秋葉に会いに行くのもな」
「うん、だめ……そんなこと出来ないよ」

 蒼香と羽居が暗然と頭を振る。
 だが、一人だけこの否定的な空気の中に捕らわれていない人間がいた。それ
は口を閉ざして蒼香や志貴とのやり取りに口を挟まなかった、琥珀である。

「月姫さん……無理というのは、どうしてですか?」

 琥珀はすっと背中を伸ばして聞く。蒼香はつい頭をばりばり掻いて無理なこ
とを横柄に説明したくなるが、この身なりの正しい秋葉の使用人の前ではつい
大人しめの態度をとってしまう。

「それは……ここは浅上の寄宿舎ですから」
「では、何故無理かを分けて考えてみませんか?まず一つは」

 だが、琥珀はあきらめずに質問と提案をする。その態度にほぅ、と蒼香は感
心した。
 もしかして、この和服の女性は何かの解答を持っているかも知れない……蒼
香は居住まいを正すと、その訳を分析する。

「一つは、今も面談室の外にいるシスターの眼をかいくぐる事」
「あ、それでしたら簡単ですー」

 蒼香の分析に、琥珀はにっこりわらって手を会わせる。ぽん、という掌の合
わさる音の後に、琥珀は声を潜めてそっと応えた。
 その瞬間、蒼香は琥珀の眼の中に怪しい翳りを見たような――気がする。

「……眠って貰えば済むことですから」
「は?その、一体何を?」

 思わぬ事を口走る蒼香の目の前で、琥珀は手提げの巾着袋の中を探ったかと
思うと、すぐに透明な樹脂のケースを出す。それを見た傍らの志貴が、なにや
らいやなものを見たかのように顔を歪める。
 琥珀がケースを開くと、そこには小さな注射器が入っているのが蒼香に見えた。

「……これは鎮静剤です。こちらを使えば一時間ほどは眠ったままに」
「待て待て、あんた一体何者なんだ?おい!」

 思わず声を高くしてしまった蒼香だったが、すぐに口元に手を屋って声を潜
める。大声を立てれば外に怪しまれるのは間違いないから。
 だが、琥珀はしれっとして蒼香に答えた。

「私は遠野家の健康管理を任されておりまして、その為に」
「……鎮静剤もか?」
「は、もしや秋葉さまが再会で過度に興奮されたときに……と用意しておりま
したから」

 そう言いながら琥珀は微かな笑いを浮かべている。
 この女性は恐ろしいな……と蒼香は偽らざる気持ちであった。あの秋葉にし
てこの使用人、とも言うべきか。だが、蒼香にはその横の志貴の顔色の意味す
る真相までもは読みとれなかった。

 なんとも冴えない顔色の志貴は――琥珀の計略の暴走を感じていた。
 だが、今はそれより秋葉のことが大事であり、その為に琥珀の計画が無茶で
あろうが無謀であろうが、目的が達成されるのであれば乗る気にはなっていた。
志貴は軽く咳払いして、会話を促す。

「で、月姫ちゃん。他の理由は?」
「それは……お兄さん、男性でしょう?ここ浅上の寄宿舎は男子禁制だから、
喩えシスターの目をかいくぐっても他の生徒に見つかれば……」

 それは当然にして最大の障害であった。たとえ少年とはいえ、男性の志貴が
歩き回れば騒動は免れないし、そうなってしまえば元の木阿弥だ。
 出島生島のように何かの葛籠か箱に隠して……などと考え始めた蒼香に、ま
たしても琥珀が得心の笑みを浮かべていた。
 そしてその口からほとばしり出る計略は――

「それも簡単ですねー。志貴さんが女装すれば良いだけのことで」
「……は?」

 途端に空気が止まり、志貴が文字通り眼を見開いて琥珀に首を傾げ、発言の
真意を正す。
 蒼香も何が言われたか分からぬといった感じに、呆然とその言葉を聞き間違
えでなかったかを頭の中で繰り返す。
 間違いなく――琥珀は「女装」と言っていた。なるほどコペルニクス的展開
の一種というものであるが……

「それ……どういうこと?」
「ちょっと志貴さん、立ってみていただけませんか?」

 琥珀がはぐらかすように志貴に言うと、渋々立ち上がる。蒼香と羽居の目の
前に立つ志貴は、肩幅も広くなくほっそりした体つきで、むしろ中性的な感じ
すらする。顔も和風美人の秋葉には似ていないが、それでも少年にしては整っ
た造作である。

 そんな志貴の後ろに琥珀が立ち、ぽんと肩に手を置く。そして怪しく笑いな
がら説明を始める。

「ほら、志貴さんは昔と違っていまならなんとか女の子の恰好が出来ますよー」
「え?なに?琥珀さん……」
「確かに、中等部でもそれくらいの背の女の子はいるよー」

 羽居が思いだしたかのように呟くが、それも妙な感じの計画への賛同に聞こ
える。

 今の志貴は少年としてまだ成長の途上にあり、背も女の子と言って通じる高
さであった。蒼香はそんな志貴の姿を、またしてもじろじろと見つめていた。
確かにそれは想像もつかない策だった。浅上の歴史をひもとけばそう言うこと
をしでかした人間はいたかも知れないし、今の志貴なら成功の確率は決して低
くはない。

 そして……蒼香の心の中は次第に興奮に沸き立っていた。

「は……ははは……こりゃいいや」

 蒼香は自失の態から立ち直ると、ぽんと膝を打って笑い始める。
 ――まさか、遠野の兄貴がやってきてこんなに面白可笑しいことになるとは。
全くナンセンスな計画であったが、蒼香はそう言うのは決して嫌いではなかった。

 いや、むしろ彼女はこの静謐さを重んじる女学院の異端児であり、こういう
ハプニングこそを望んでいたのではなかったのか?そもそも秋葉に志貴の来訪
を告げる役を買って出たのは、内心こんな騒ぎを期待していたのではなかった
のか?と

 ふふ――と、蒼香は自分の口元が不敵に笑い始めるのを感じていた。

 そして、目の前で真っ青な顔して動揺している志貴も、彼女の中の眠った嗜
虐的な心に微かな火種を起こすような……

「そうか、そうか、そうくるか……ねぇ?」
「悪い策では無いと思いますが……如何でしょう?志貴さん」
「わ、悪い策じゃって……そんな、俺が女装する?女装!?」

 眼を白黒させて琥珀に縋り付く子供の志貴の姿が、蒼香の中で全てを決する
後押しとなった。こうなれば今まで秋葉に被った迷惑、倍返しにして返してや
れと……どんな顔を秋葉がするかを考えるとおかしくて堪らない蒼香だった。

 ――ならば、することを考えないとな。

「よし、決まりだな。ちょっと中等部の瀬尾を呼んできてくれ」
「晶ちゃんのこと?どうしてー?」
「こんな事を他に相談できるのはあいつしか居ないし、中等部の制服ならこの
遠野のお兄さんにぴったりだろ」
「わかったー、じゃぁ晶ちゃんを呼びに行って来るね〜」
「では……一足お先に私もお仕事をさせていただきますね」

 羽居と琥珀が立ち上がり、戸口に向かう。いきなり息のあった女性陣の連携
に呆然とする志貴と、対照的に自若の蒼香はおう、と声を掛ける。
 その声はひどく陽気に、志貴には聞こえた。

「幸運を祈るぜ」
「ふふふ、それはもう……お任せくださいませ」

 琥珀は振り返って微笑む。先に羽居は身をドアの隙間に躍らせる。

 パタン、とドアが乾いた音を立てて羽居と琥珀を吐き出す。
 そして面会室に残された志貴は、震えながら蒼香を見た。
 そこにはいつの間にか足を組み、にやりと笑うセーラー服姿の不敵な闘士がいた。

「本当に……俺が?女装?」

 今にも卒倒しそうな志貴に、蒼香は腕を組んで嗤う。

「なぁに……これはあれだ、遠野の兄さん」
「?」
「秋葉の奴を待たせ過ぎた、ツケだな。あきらめて女装してあいつに会いに行
くこった。それに、こんなに面白そうなことを今更止められる訳がない」
「…………嘘」

 志貴がへなっと床に膝から崩れ落ちるなか、低く人の悪い蒼香の笑いが――

(To Be Continued....)