――遠野志貴 SIDE

 乾きに耐えかねて、俺は部屋から転がり出た。
 手には真鍮の翡翠の鍵を握りしめて。これを使うことを考えていた、と言う
ことよりも手から吸い付いて離れないような気がする。

 俺はスリッパ掛けで不確かな足取りを踏みながら、真っ暗な廊下を歩いてい
た。今日は誰かの見張りに出会うこともないだろう。可能性としては秋葉に出
会わなくもないが……あいつは調子が良くないそうで寝込んでいるに違いない。

 俺は、階段を下りて、取りあえず厨房を目指していた。
 肉欲の乾きよりも、喉の渇きを癒したかった。まるで炎天下を駈けていたよ
うに喉が乾ききって奥底で張り付いていて、身体が水分を欲していた。

 食堂の扉を開けて厨房に向かおうとした俺は――

「……………!!」

 食堂のドアを開けた瞬間に、俺は己の目を疑った。
 なぜ、食堂のテーブルの上に、翡翠が俯せになって眠っているのか?
 翡翠は部屋で眠っているんじゃなかったのか?どうしてここで眠っているの
に琥珀さんは翡翠の部屋の鍵を――

「どうし……て……」

 俺は掠れる喉で、そんな声を漏らす。己の眼を信じられないせいか、俺はキ
ッチンの戸口で張り付いて動けなかった。なんとか翡翠に近寄ってその姿を確
かめようとした俺は……

 ゴツ、と足を無様に椅子にぶつけてしまう。
 慌てて転び駈けた俺はテーブルの上に手を突くと、その振動が伝わったのか。
 翡翠が微かに身動きすると、カチューシャの載ったままの頭をテーブルから
上げた。

「…………」

 翡翠は半分もやが懸かった瞳で、俺の方をじっと見つめている。俺もテーブ
ルに手を突いた、汗まみれのみっともない恰好で翡翠を見返していた。
 二人の間で理解のネゴシエーションを成立させようと言う視線のやり取りが
あったが、翡翠の眼がちらりと俺の背後に走ると、翡翠はがばりと体を起こす。

「志貴さま!」
「こ、今晩は、翡翠」

 翡翠は椅子を蹴立てるように立ち上がり、闇眼にも分かるくらい顔を赤くし
て動揺している。まるでコメツキバッタのように慌てて頭を下げ続ける翡翠と
いうのも初めて見るので、俺は驚くやら呆れるやらでなんと振る舞うべきかわ
からなかった。

「も、申し訳ございません。つい気が緩んで居眠りして……」

 ほとんどテーブルに頭をぶつけるばかりにお辞儀する翡翠。テーブルの上に
は飲みかけの珈琲カップがあった。きっと夜の仕事を終わらせて一息ついてい
て、うとうとしてたんだろう。
 そのカップを見ると、俺は途端に灼けるような喉の乾きを思い出した。

「ああ、疲れてたんだね翡翠も。お疲れさま」
「いえ、そのようなお言葉を……申し訳ございません!」
「じゃぁ、悪いけど冷蔵庫からお茶か何かがあったら持ってきてくれるかな?」

 翡翠は一礼すると、一目不乱にキッチンに駆けていった。
 ……翡翠をキッチンに入れると大変なことになるような気もするけども、お
茶ぐらいさすがに普通に煎れられるだろう。ましてや冷蔵庫の中の麦茶となれ
ば。

 俺はふっと溜息を吐くと、椅子を引いて腰を下ろす。
 そして、跡が付くほどに握りしめていた鍵を思い出したように離し、机の上
に置いた。テーブルクロスの上でコトリ、と音を立てる真鍮の鍵。

 翡翠に遭遇して、握り締めていた魔法が解けたみたいに。
 しかし、なんで翡翠がここにいるのに、琥珀さんはあんなに自信満々に翡翠
に夜這いを掛けろって……もしかすると、空室だったかも知れないのに。
 いったいなにがどうなっているのかわからない。

 灼ける様な獣欲も、発散させる対照だった翡翠にばったり会うと不意に弱ま
っていた。やはり、興奮というのはTPOがそろってこそであり、出会い頭に
欲情して押し倒せるものじゃない。
 俺は苦笑いしながら椅子の上に伸びをして、翡翠が戻ってくるのを待つ。
 程なくして、ぱちんと食堂の明かりがつく。闇に目が慣れていた俺は、明順
応にしばし眼を細めて光の痛みに耐える。

「お待たせいたしました、志貴さま」

 翡翠の声がする。俺が細めで翡翠を見つめると、キッチンからトレイの上に
コップを載せた翡翠がやってくる。俺はああ、と答えて翡翠の方に手を伸ばす。
 翡翠が俺に、しずしずとコップを差し出す。俺は指先に露に濡れた冷たい感
触を憶えると、コップを指に握りしめた。

「あああ……ありがとう。翡翠」
「いえ、恐縮です、志貴さま」

 俺はコップの中の氷と麦茶の涼を楽しむ。喉に流れる一条の水は如何にも心
地よい。
 ぐーっとコップの底を傾けて飲み干す俺は――
 ――机の上に置きっぱなしの鍵のことを忘れていた。

「……志貴さま、これは一体……」

 俺がコップを下ろしてテーブルの上に置こうとしたその時、翡翠の眼が机の
上に据えられていることに気がついた。翡翠が見つめているのは――あの鍵だ
った。
 俺があっ!と叫んで隠そうとしたが、不覚にも俺の手にはコップが握られて
いた。
 その為行動が一拍遅れ、その間にすっと伸びてきた手が、鍵を取った。

「ああっ、それはっ!」
「……志貴さま、これは……何故志貴さまが?」

 翡翠は手の取った鍵をしげしげと見つめていた。顔の前にかざすようにして
確かめているが、翡翠はそれが自分の部屋の鍵だとすぐに理解することだろう。
 だが、それを持ってきたのは俺だった。まさに絶体絶命である。

 俺は翡翠から鍵を奪い取ろうかとも思うが、そんなことをしても益はない。
 ただ動転して椅子の上で慌てふためくばかりの俺に、翡翠の詰問するような視
線が据えられる。
 ターコイズブルーの瞳が、俺の顔を捉えてはなさい。翡翠に夜這いを掛ける、
という弱みのある俺は翡翠の顔を直視することが出来ずに、つい顔を逸らして
しまう。情けない限りだ。

「いや、その、それはだな……あの……」

 翡翠は口を開かず、ただじっと顎を引いて俺を見つめている。俺は上手い方
便を考えるが、この決定的な物証を前にはなんとも説得力がない。それに、言
葉を立てて詰問するよりもじっと眺め込む瞳の方が耐え難く……

 はぁ、と俺は降参して息を吐く。
 残念のようだけども、仕方ない。このまま翡翠に疑われるよりも……

「……琥珀さんから預かったんだ」
「姉さん……からですか?」

 俺が長々と息を吐いた末にそう告白すると、翡翠は俺の顔を信じられない、
と言う顔で見つめる。無理もない、自分の部屋の鍵を主人に姉から手渡された、
と言う事態を想像するのは困難なのだから。
 だけど、その意味するところを翡翠は果たして理解するかどうか……理解で
きない方がありがたかったけども。

 翡翠は真剣な瞳で、手に取った真鍮の鍵を凝視している。
 俺はコップを取り上げて、僅かに融けた氷の雫を喉に送る。まだ乾きが癒え
ないかのように。

「……なぜ、姉さんが志貴さまに……いつ受け取られましたか?」
「いや、さっきだけど……」

 俺はむにゃむにゃと答える。なんとかお茶を濁してでもこの場を切り抜けて
部屋に戻りたい一心であったが、立ち上がって逃げ出す気力がない。とりあえ
ず翡翠の疑念がどこかに逸れれば……
 
 翡翠は鍵をそっとポケットの中に仕舞うと、思い詰めたような顔でテーブル
に沿って歩き出す。ぐるりと半周回って、先ほど翡翠が居眠りしていた席の元
にたどり着く。
 そこに残された一組のコーヒーカップ。それを慎重に翡翠は取り上げて、半
分ほど残った冷たいコーヒーの液面を見つめていた。

「そ……それがどうかしたのか?翡翠」
「いえ……姉さんが煎れてくれたのです、このコーヒーを……」

 翡翠はそう呟く。
 琥珀さんがコーヒーを翡翠に渡した。そこで、翡翠はめずらしくこの食堂で
居眠りしていた。
 琥珀さんが翡翠の鍵を俺に渡した。俺は翡翠に夜這いしようと館の中を……

 奇しくもそれが同じ夜の、同じ時間に。偶然の一致では……ない。
 もしかして琥珀さんは翡翠に一服盛った?それならば理屈は合うようだけど
もあわない。翡翠を眠らせるとしても、俺に夜這いを掛けさせるのだとしたら
ここではなくて、翡翠の部屋じゃないといけない。
 
 でも琥珀さんはここに翡翠を眠らせたままであったとしたら……じゃぁ、な
んのために琥珀さんは誘ったのか?わからない。

 俺が首を捻りながら翡翠を見つめると――翡翠の方が先に理解に至ったよう
だった。
 真っ青な顔で震えながら、かちゃり、とカップをテーブルの上に戻す。冷静
沈着な翡翠にしては珍しく、磁器の立てる耳障りな音が夜中の食堂に響く。

 一体、翡翠はなにを――

「姉さん……姉さん、まさか……志貴さまを?」
「何か分かったのか?翡翠」
「いいえ、その……あのっ、失礼いたします」

 翡翠は慌てて俺に一礼すると、たっとスカートを持ち上げて走り出す。
 珍しい、翡翠が走り出すだなんて――いや、眺めている場合じゃなくって!

「翡翠っ、そんなに慌てて……」
「志貴さま……申し訳ないのですが、急いでおりますので」
「それじゃ俺も分からないって!」

 翡翠は俺に背を向け、忙しない声を上げながら走っていた。
 俺も椅子を蹴って立ち上がると、迷うことなく翡翠を追う。翡翠も全力で走
っているようだったけども、やはり男で歩幅も違う俺を振りきることは出来な
い。

 翡翠はまっすぐに、自分の部屋の方向に向かって走っていた。
 俺も質問したいことは山ほどあったが、翡翠の後を追えば自然全部が分かる
モノだと感じていた。むしろ、呼び止めたりすると俺を帰らせようと翡翠はす
るかも知れない。

 翡翠には、何かが分かっていたようだった。
 俺には分からない、琥珀さんの何かを。

 翡翠がドアノブに縋り付き、鍵を差し込んで回そうとする。
 だが、ガキガチャという金属音がドアから響くばかりだった。俺は翡翠の後
ろに立って、息を飲んで翡翠の様子を見守っていた。

「嘘………開いてる……」
「一体それは……翡翠!」

 翡翠はドアノブを握りしめると、扉を内側に押し込んだ。
 バタンと音を立てて、開かれる扉。明かりのついた部屋の中。
 俺が、翡翠がそこに見たのは、想像もしない――光景だった。

「姉さん……!」
「秋葉……!」

(To Be Continued....)