――琥珀 SIDE

 志貴さまは鍵を握りしめたときに怖いほどの瞳で私を見ていた。だけれども、
あの瞳は私には分かった。志貴さんは……飢えていらっしゃると。もし普段の
志貴さんだったら、私に鍵を返していたかと思う。

 だけども志貴さんは鍵を握りしめている。
 ならば私の策に載っていただける、と確信した。私はほのめかす程度にして
部屋から立ち退くと、そのままの足で翡翠ちゃんの部屋に向かう。

 足音を殺しながら絨毯を踏んで、翡翠ちゃんの部屋の前まで来ると私はマス
ターキーで鍵を開ける。明かりの落とされた、装飾は控えめだけども華やかな
部屋の中には……誰もいない。
 私は後ろ手にドアを閉めると、鍵を掛ける。これでいい。

 私は翡翠ちゃんのクローゼットを開くと、その前でおもむろに仕事着の和服
を脱ぐ。帯を緩めて外し、着物を手早く脱いで折り畳み、開いたクローゼット
の中に仕舞っていく。最後は足袋と湯文字だけになったけども、私は暗闇の中
で躊躇いもせずに脱いだ。

 一糸纏わぬ姿になって、私は慎重に場所を探して引き出しの奥に仕舞い、閉
めようとする。
 だけども、扉の中にある姿見の中に、青白くぼんやり映った私の姿を見て―


「いけない……これを外さないと」

 私は小さく呟いて青いリボンを外す。そして着物の上にリボンを置いて、履
き物をクローゼットの片隅に隠す。

 姿見の中に映る、全裸の少女。
 それは、私であり私ではなかった。だが、最後に私が私ではなくなるための
儀式がある。

 予め袂から取りだしておいた、コンタクトケース。
 慎重にそれを開くと、指に載せたブルーのコンタクトレンズを、姿見に顔を
近づけてゆっくりと、開いた目の上に……
 涙を出して瞼をしばたたせながら、私は両方の瞳にコンタクトを入れる。視
界の色が僅かに変わるが、光の弱いこの部屋の中では大差はない。

 もう一度立ち上がると、そこにいるのは……琥珀ではなく、もう翡翠だった。
 鏡の中に映る私はもう私ではない。そう言い聞かせて、私は翡翠ちゃんの下
着を着け、ブルーのゆったりしたパジャマに腕を通す。

 そして、翡翠ちゃんのパジャマを着て私の衣装を隠し混むと、私はゆっくり
とベッドに近づく。翡翠ちゃんのベッドの中に私は身体を横たえると、目を瞑
った。
 これでいい。これで……あとは志貴さんが来るのを待つだけ。

 志貴さんは飢えていらっしゃる。それも、普通のセックスでは満足しないほ
どの。
 ならば、こういう趣向を凝らしてみる……翡翠ちゃんへ夜這いを唆して、そ
の手筈を整えてみせる。もしこれで志貴さまが乗れば……良い夜が過ごせそう
だった。
 
 志貴さんは私が翡翠ちゃんだと思いこんで、一時の欲望に惑わされた事に煩
悶するかもしれない。それも目的の一つだった――志貴さまが悩むほど、私は
満足を憶える。だけど翡翠ちゃんは傷つけさせない、その為にこんな事を企ん
で……

 翡翠ちゃんは、下の食堂で眠っている。私が一服盛ったから――

 志貴さまにしてみれば、純情を弄ぶ悪辣な私の行動だろう。だけどもそれく
らいがいい、ともするとあのシエルさんに没頭してしまう志貴さまにはこれく
らいの刺激を与えた方がいい。この策がどこまで繋がるのかは分からないけど
も、志貴さまが乗ってくれば次の手に繋げやすい。

 私は枕の上に頭を横たえ、待った。

 眠り込んでしまえば迫真の演技だったかも知れないけども、私も志貴さんの
ことを笑えないほどに高ぶっている。男性に抱かれるのは好きではないけど、
志貴さんだけは今までの男性とは少し違っていた。不器用だけどもひどく暖か
くて。
 もし、志貴さんが私をモノのように抱きつづけるのであれば……もう、その
運命は決まっていたことだろう。もしかして私は志貴さんの腕に優しく抱かれ
て迷っているのか……

 おかしな事に、志貴さんの症状が伝染したみたいに私は眠れなくなっていた。
 息を殺してドアが開くのを待っている。そんな私は淫らなのか、あくどいの
か。もし志貴さんがいらっしゃらないと言うのが悪しきシナリオだったけども、
フォローはいくらでも……

 カチャリ、とノックもせずに鍵が鳴る。

 私は知らずベッドの中で身体を硬くしてしまう。ゆっくりと息を吐きながら
不自然にならないように身体の力を抜いて、寝相を作る。
 足音を殺した気配が私の方に近づいてきた。私はその影に背中を向けて、目
を瞑って待った。
 その影は布団を持ち上げ、中にするすると潜ってくる。私は志貴さんの手が
身体に触れるのを……
 
 ――なぜ?

 私の身体に触れたのは、志貴さんの手ではなかった。
 筋肉質ではないけども力強い志貴さんの手ではなくて、その手は……まさか!
 私の疑惑は確信となったけども、体が心に付いていかない。

 女性の手と、私の背中に押し当てられていくその身体は間違いなく……

「……琥珀、貴女は卑怯ね」

 私の耳元に囁きかけてくる、秋葉さまの声だった。
 抵抗することも忘れて私は秋葉さまの腕の中に抱きしめられる。脇の下を通
って秋葉さまは私の胸を抱きしめると、ベッドの中で私を後ろから……

「……な、なにを仰るんですか秋葉さま」
「この期に及んで翡翠の真似は止めることね、琥珀。兄さんはだませるかも知
れないけども、私は騙されないわ」

 秋葉さまはそう囁きながら、私の耳たぶに口を寄せてくる。
 秋葉さまの歯がかぷり、と軽く私の耳たぶを噛む……痛いような、くすぐっ
たいような感覚。 だけども快感よりも、なぜ秋葉さまがここにいるのかとい
う謎と恐怖が私の中にあった。

 なぜ秋葉さまが?志貴さまではなく?ましてや翡翠ちゃんでもなく……

「この屋敷のマスターキーを持っているのは貴女だけではなくてよ、琥珀。貴
女がしきりに兄さんや翡翠の部屋に近づくから、なにをしているのかと思えば」
「…………」
「翡翠の振りをして、兄さんに襲われようというのね。まったく貴女なら考え
そうなことね……琥珀?私を謀るのは許します、でも兄さんをこれ以上騙すの
は許しません」

 秋葉さまは私に厳しい言葉を掛けてくる。私は弁明を口にしようかとしたが、
翡翠ちゃんの振りをし続けるのは無理だった。秋葉さまは本能的に私たちを見
分ける。
 秋葉さまは私に血をも止めるので、私を見分けることは一層……だけども今
の私は翡翠ちゃんの恰好をしていた。

「あら、答えがないのね、琥珀……黙りを決め込めば、許して貰えると?」
「………いえ」
「それにしても、あのシエルといい貴女といい兄さんに……兄さんに抱かれて
……」
「ああっ!」

 秋葉さまはぎっと爪を私の身体に立てる。秋葉さまの細い指が私の身体に食
い込んで――
 服越しで食い込みはしなかったけども、その憎々しい力に私は震えた。私を
憎んでいるのではなく、秋葉さまは――

 嫉妬している。志貴さまに抱かれる女性を。そして抱かれない自分の悔しさ
を呪って。
 その現れが、私の身体に立てられた指先であった。腕にも力が籠もり、私の
息が出来無くなるほど強く……

「あぁ……がはっ!」
「苦しい?苦しいのね琥珀。でも、独り寝を過ごす私の寂しさと苦しさはこん
なものではなくってよ。そうね……」

 秋葉さまの言葉は、酔ったように歪んでいって。
 まるで私を苦しめることで快楽を得るような、そんな嗜虐的な声の喜び。
 
「兄さんの手にはもっと強く抱きしめてくれるの?こんな風に?琥珀?」

 秋葉さまの手が激しく、私の胸を掻き絞る。乳房に指が食い込み、えぐられ
るような苦痛が走る。それはまるで……


「やぁぁぁぁ!はぁっ!」
「あらあら、良い声で鳴くのね。その声も兄さんの耳を楽しませるのかしら?」
「秋葉さま……お許しを……」

 私は切れ切れに許しを請う。今の秋葉さまにいたぶられ続ければ、私は――
 すでに志貴さんと私の計画はご破算になっていた。今は一刻も早く、秋葉さ
まの制裁の手から逃れないと……

 だけども、秋葉さまはふん、と私の耳にせせら笑ってきた。
 そして、胸を握りしめていた手をするすると上げて、私の喉元に据える。そ
して、喉笛を指先で……

「ひゅあ……が……ぁはぁあ……」
「ふふふ、今日くらいはお仕置きをしてあげなくてはね、琥珀。私を貴女が楽
しませてくれれば、許さなくもないけども……」

 喉を閉める秋葉さまの腕と、あざ笑いながら私に告げる声。
 私は翡翠ちゃんのベッドの中で、秋葉さまに生殺与奪を握られている。秋葉
さまにいたぶられることも恐怖だったな、なによりもまだ……

 志貴さんと翡翠ちゃんが、この部屋の外にいる。
 だが、その事を秋葉さまに告げる事は出来なかった。秋葉さまの指は私の喉
笛を掌握し、言葉を封じているからだった。

「……覚悟することね、琥珀。今日は……良い夜になりそうだわ」

(To Be Continued....)