テンプテーション
                       阿羅本 景

 
 ――遠野志貴 SIDE

 不思議と眠れない夜だった。
 輾転反側というのか、ベッドの中で転がるけども眠くはならない。深夜の十
二時を越えても眠くならないと言うのはたまにあることだった。もっとも、有
間の家にいたり有彦の所にいたりするとこれくらいの夜更かしは普通であって、
午後九時消灯、などという寄宿舎みたいなこの遠野家では下手に夜更かしして
もヒマする訳であって。

 ましてや、眠れないというのはひどく心を焦らせる。
 焦っていても眠れない事は分かっていても、なんとか目を瞑って眠ろう努力
してしまう。悪循環だったが抜け出す道がない。何故か不思議と悶々として俺
は……

 悶々として。
 俺は仰向けに戻ると、暗い天井を見つめる。
 ほとんど光もないのに死の線が細く屋根に走っているのが分かる。こんな時
にこれを見てもなんにもならないのに、つい見つめてしまう。俺は軽く溜息を
着いた。

 一体何で、今日はこんなに眠れないのか。
 俺は手を伸ばして眼鏡を取ると、鼻頭に載せながらその手で闇の中のスタン
ドの紐を探る。指先に触れた小さな感触を絡めると、カチリ、と音がするまで
引く。

 ぱっと暖白色の光が広がり、ベッドの周りを照らし出した。こうやって眠ろ
うと無理をすると良くない、いっそ何か別のことをした方が眠気が湧いてきて
……
 リーダーのテキストでも読んでいれば真昼までも十分に眠くなるのだから、
いっそ……と思う一方、俺は何となくこの不眠の原因が分かっていた。

 ――溜まっているんだ、俺は

 つまるところ、欲求不満である。こう、秋葉に知られたら命はないが、俺は
その昔、琥珀さんとセックスしてしまったことがあって……恋人はシエル先輩
だけども、なんとなく琥珀さんとの関係が続いてしまっている。琥珀さんは不
可抗力ですよー、と笑うのだけども俺は申し訳なく思っているわけで、そのま
まずるずると……情けない限りだ。

 琥珀さんとの関係は、まぁ、ささやかなものだった。俺にはシエル先輩がい
るわけだし。
 でも、先輩は中間報告とか仕事というか、とにかくイタリアに用があるとか
でここ数週間日本を留守にしている。そうなると、俺は自然と先輩との接触が
無くなるわけで……

「……激しいからなぁ、先輩は」

 ひっそりとそう呟いてから、俺はこの闇の中で誰かが聞き耳を立てていない
かと不安になる。もちろん部屋の隅には闇がわだかまるけども、そこに誰かが
潜んでいるわけではない。
 とにかく、俺は堪っているわけで、もしかすると悶々としているのは独寝の
寂しさからかも……

 先輩はいないから、琥珀さんと……などと思わず考えてしまう。
 馬鹿、俺。堪ってるんなら自分で抜くべきだろう、その、琥珀さんとの関係
も深みにはまると………それに、翡翠の手前ネタがないし、後始末もあるから
どうしたものか……有彦にくれー、などと言うと後でなんて言われるか分かっ
たもんじゃない。

 ……取りあえず、ティッシュの箱を……
 俺がベッドの端からスリッパに足を滑り込ませると、コツコツとドアが鳴っ
た。

「……誰?起きてるけど」
「ああ、志貴さん、起きてらっしゃったんですか」

 かちゃりと扉を開いて顔を覗かせたのは、琥珀さんだった。
 夜の見回りのためか、手に懐中電灯をもっている。ひょこっと部屋の中の俺
を覗くと、にっこりと微笑み掛けてくる。

 普段ならこんな夜分に訪問されると慌てるものだけども、俺は――不思議と
安堵していた。
 なぜか?わからない。だけども、琥珀さんが側にいれば少しはこの焦燥も…

 もしかして、琥珀さんの身体をこのまま俺が求める?それとも琥珀さんは俺
に抱かれに来た?それならば僥倖だけども、そんな自意識過剰なこともないだ
ろう。琥珀さんはきっと別の用事がある……のかどうかわからない。

 ただ、俺がベッドに腰掛けたまま手招きをして、琥珀さんは部屋に入ってく
る。
 後ろ手でそっと扉を閉めると、懐中電灯を消してサイドランプの照らし出す
光の柔らかい半径の内側に入ってくる。

「今晩は、志貴さん」
「……こんばんわ。いや、もう消灯時間の後だけど、何か用があるの?」
「用ですかー、あると言えばありますねぇ、志貴さん……お隣いいですか?」

 琥珀さんが小首を傾げてそう言ってくると、おれは軽く横にずれて琥珀さん
の席を作る。
 琥珀さんはぽんと腰を下ろし、ベッドのスプリングが弱く波動する上で揺れ
ていた。ランプの光は琥珀さんの影に陰影を写し出し、ふと彼女の表情を読み
にくくする。

 ――ああ、こんなに近くに。

 弱い光と深い影、そして手を触れれるほどに側にいる琥珀さん。彼女の着物
から微かに立つお香の薫りがする。今はエプロンを着けてないからか、こうや
って側にいるとひどく艶めかしくて……
 俺はつい琥珀さんの肩に手を伸ばそうとしたけども、堪えた。一体何を俺は
逸っている……琥珀さんに今の俺を知れたらそれだけでも恥ずかしいのに。

 琥珀さんはランプを背にして、俺の顔を見つめていた。ほんの僅かに目尻が
下がり、笑っているような泣いているような、不思議な目つきで俺のことを…
…そんな目を見ると、思い出したように心臓がドキドキ言い始める。琥珀さん
の瞳に見つめられると、不思議と心の中まで見透かされるような……秋葉や先
輩、アルクにだって見ることのない瞳。

 いや、時々翡翠もこんな目をする……やっぱり似ているからだろうか?双子
だから。
 ぼんやりと瞳孔が開いたかのような瞳。俺はつい気恥ずかしくなって俯く。

 だが、俺の中で宿っている高ぶりは、琥珀さんが側にいることでより掻き立
てられる。もうあの衝動的で破壊的な欲望を持つロアはいないはずなのに、不
思議なほどのこの興奮は……

「志貴さん、今夜夜分にお邪魔してすいませんねー。明かりがついていました
からどうされたのかと思いましてー」
「ん……ああ、ちょっと眠れなかっただけ。何か読みながらベッドにいれば眠
くなる……」
「ダメですよー、志貴さん。そんなコトしたら眼、悪くしちゃいますよ」

 琥珀さんがくすくす笑うと、ほっとして俺はコツコツと眼鏡を叩く。
 透明な硝子に見えるが、この不思議なレンズは……俺の魔眼を封じてくれて
いた。

「ああ、眼鏡しているけど度が入ってないから、これ。俺はそんなに視力は悪
い方じゃいし」
「でも、ベッドの上で読書されたら肩とか凝っちゃいますよ。そうですね、不
眠症ですか……」
 琥珀さんは軽く腕を腕を組んで考え込んでいたが、やがてすとん、と腕を下
ろして俺を見つめる。話していたときは普段の琥珀さんだったけども、黙り込
むとその中からびっくりするほど温度の冷たい瞳が覗いてきて――
 俺は覗き込まれる不安で、鼓動を激しく脈打たせる。もしかして、琥珀さん
は……

「……不眠症ですか、志貴さん……ふふ」
 
 微かに笑って琥珀さんは腰を俺に近づける。
 琥珀さんとの間の距離は縮まって、俺の腰と琥珀さんの着物の腰が触れ合う
ほどだった。俺は咄嗟に琥珀さんから離れようと身動きする。が。

「うぁっ!」

 俺の股間を琥珀さんが触る。
 琥珀さんの瞳は俺の盛り上がった股間を見通していたのか、硬く疼く肉の上
に掌を添えた。身体のどこよりも熱い肉の器官をは、布越しに妙なる手触りを
感じる。

「琥珀さんっ、なにを……」
「ふふ、分かってますよ志貴さん……不眠の原因は、これですね……こんなに
熱く張らして……大変ですねー」

 さわさわと琥珀さんの手は股間の上を走る。なまじ握られたりするより、こ
うやって触る代わらないかのタッチで触れられた方が堪える。パジャマの中で
強ばって反っくり返っているペニスの上を、琥珀さんの手がさすって……
 微かだが鋭敏な感覚が染み込む。琥珀さんは俺の身体に身体をさらに寄せて、
その髪を俺の胸のくっつけてくる。とん、と琥珀さんの頭の重さを胸に感じて、
髪の薫りが……

「やめて……そんな……」
「あら、志貴さんのこれを鎮めないと、とてもじゃないけれども眠れませんよー。
服の上から触っているのに、志貴さんのったらこんなに硬くされちゃって」

 琥珀さんの手が、しごくように這う。
 俺は息が上がってきて、身体で逃げようとするけども出来なかった。琥珀さ
んは俺の胸に囁きかけてくる。俺の股間を撫でながら、ゆっくりと。

「……志貴さんの不眠症を解消するためには、お薬が要りますね」
「琥珀さん……ふ、巫山戯てないで……やめて……」
「あら、ふざけてなんかいませんよー。志貴さんの健康を預かるのは私のお仕
事ですから。志貴さん?」

 琥珀さんは僅かに身体を起こすと、顔を上げて俺を見る。
 俺は琥珀さんに股間を愛撫されながら、どんな顔で琥珀さんを見つめたのか
――わからなかったが、琥珀さんは笑顔で俺を見上げる。

 ――ただ、ひどく瞳が虚ろだったような

「……志貴さんのために特効薬があります。これを……」

 琥珀さんの手が、名残惜しそうに俺の股間から離れた。
 俺はほっとしたような、それでいて物惜しいような思いに駆られる。むしろ
あのまま嬲られてズボンの中で精を漏らしてしまうことを期待していたかのよ
うにも思えた。
 俺が一息ついて眺める中、琥珀さんは袂を探って何かを取りだしている。

 琥珀さんは薬剤師だから、きっと睡眠薬か何かを出してくれるんだろう。
 それでもいい、内側から灼かれるような欲情に身を焼かれるよりは、いっそ
薬のもたらす眠りに身をゆだねた方が。

 だが、意に反して琥珀さんの手が掴んでいたのは……

「……鍵?」

 それは真鍮の古い鍵だった。何年も手によって磨かれたものらしく、ランプ
の明かりの中で鈍い金の光を放っている。飾りの付いたその鍵は、今まで見た
ことがないような……
 これのどこが特効薬だというのだろうか?

 わからない。

「はい、これを……志貴さん」

 俺は琥珀さんに渡されるままに鍵を受け取った。中指ほどの長さの鍵は、思
ったよりも重厚な重みを手に感じる。俺は手の中にある鍵を、しげしげと眺め
る。使い込み方からは、どこかの部屋の鍵のようだったが……見覚えがない。

 琥珀さんは俺が驚き惑う様を見つめていたみたいだったが、ふと眼が合う。
 琥珀さんは、すーっとまた、あの焦点の座らない琥珀色の瞳を俺に向ける。
 不意に、井戸の底を覗き込んだような、足元が浮くような感覚。

「……この鍵は、翡翠ちゃんの部屋の鍵です」

 その言葉を俺は、瞬時に理解できなかった。
 翡翠の部屋の鍵。ようやくその言葉の意味するところを分かると、俺は一瞬
鍵を取り落としそうになる。まるで真鍮の鍵が魔法の言葉で燃え上がり、俺の
手を焼いたかのように。
 だって、これは翡翠の部屋の鍵……なぜ??どうして?

 俺の頭の中では物事が繋がらず、バラバラに運動している。頭の中で言葉は
結像せず、俺のとまどいを余すところ無く琥珀さんに見せつけていたようだっ
た。
 琥珀さんは俺の瞳を見つめながら、話を続ける。

「その鍵で……翡翠ちゃんを夜這いして、女の子にして上げて下さい」
「よ……夜這い?な、なんで?」
「それは、志貴さまの情欲は普通のセックスでは収まりませんから。翡翠ちゃ
んの初穂を頂くのでしたらきっと志貴さまもご満足いただけるかと」

 笑いながら――見間違えかと思ったが、笑いながら琥珀さんは恐ろしいこと
を言う。
 俺の掌の上の鍵は、忌まわしいほど重い意味を帯びていた。これを握りしめ
ることは即ち翡翠の貞操を犯すことであり、そんなことは……

 ――だが、そうしないと俺は情欲に灼かれる

 このまま独り寝をするのも我慢がならない。だが翡翠を手に掛けるのはあま
りにも……でも、禁断の秘果は禁じられるほどに甘いという。俺がそう思えば
思うほど、翡翠のあの身体を想像し、まるで俺は狂ったように。

 わからない

「……翡翠ちゃんも、志貴さん以外の男の人は望んでいませんからねー」

 意味深なことを琥珀さんは口にする。
 俺は琥珀さんに鍵を押し返そうと思ったが、それも出来なかった。そうして
琥珀さんを押し倒してこの獣欲を発散させるという手もあったが。

 琥珀さんのその深い瞳に、俺は何故か恐怖していた。
 恐怖故か、欲望故か、俺の中では琥珀さんの言葉は神の律法のように犯し難
くすら感じる。この鍵を握りしめ、翡翠の部屋に夜這いを掛ける。それは琥珀
さんも公認のことだし、翡翠も俺を嫌ってない……かも知れない。

 だが、そんなことは許されるのか?
 ――わからない

 千々に思い乱れる俺の目の前で、琥珀さんがすっくりと立ち上がった。
 俺は琥珀さんの目線から逃れると、俯いて拳の中に鍵を握りしめる。その彫
刻が肉に食い込み痛みを憶えるが、この痛みが無いと俺の心はこの今の出来事
を現実だとは認識しないだろう。

「……後は、志貴さんの思うがままに……志貴さん?」
「ん……」
「良い夜を」

 琥珀さんは笑ってお辞儀をすると、俺を部屋に残して扉の向こうに――消え
た。
 なぜか、その笑いだけが……虚ろで正体が知れない不思議な笑いではなく、
心の底から満足を憶えたかのような笑いだった……なぜ?わからない。

 俺はぱたん、という控えめな扉の音を聞きながらベッドの上で鍵を握りしめ、
固まったかのように座っている。琥珀さんがいなくなって、行動の選択肢は俺
にゆだねられた。
 どうする?これは琥珀さんの悪ふざけだと思って、忘れて寝るのか?それと
もこの鍵を僥倖と思って翡翠の部屋に夜這いするのか?それは漢らしくないけ
ども、据え膳を食わぬは男の恥とも言うし、なによりも……熱い。

 熱い。
 琥珀さんに触られた股間の膨らみは、まだ硬く勃っている。いや、この鍵を
手渡されてから縮むどころか、より大きく硬くなっているかのように。俺は呻
く。
 ……ここで自慰するというのは、間違っている。琥珀さんも翡翠も傷つけな
いかも知れないが、傷つくのは俺ばかりだ、ならばいっそ……

 熱い。
 喉がカラカラに枯れるほどに。
 俺はべっとりと掻いた首筋の汗を拭うと、再び鍵を見つめる。掌の中にこの
金属片が、ささやかながら大きな意味を持っていた。世界を滅ぼすほどではな
いが、俺を滅ぼすには十分なくらいの運命の結晶。

 熱い、熱い、熱い。
 枯れた喉が水を求める。水ではなく滴る女性の淫液を求めているのかも知れ
ないし、燃えるような血潮を求めているのかも知れない。だが、この乾きは耐
え難い――

 俺はまた拳の中に鍵を握り込むと、膝に力を込めて立ち上がる。
 どれほどの時間悩んでいたのだろうか?時計を見るともはや1時を越えてい
た。誰しも寝静まっているだろうこの屋敷の中を、俺は――

(To Be Continued....)