琥珀がテーブルの周りを立ち回りてきぱきと用意を勧めているのを見守るよ
うに、向かい合う一組のカップルと一人の美少女が居間にあった。

 居間のソファに座して、秋葉は眉間に皺を寄せて志貴とシエルを眺めている。
 志貴はシエルの傍らに座り、秋葉の視線に晒されて居心地が悪そうに身じろ
ぎしていた。恋敵とは言わないが、仲のよろしくないシエルや秋葉と同席して
いる以上志貴にはそうするしかない。

 シエルは秋葉の前でも落ち着きを払っている。そもそもシエルと秋葉のスタ
ンスというのは、秋葉の余裕の無さがあり、シエルにはむしろその反発を楽し
んでいるようなフシがある。シエルの挙動は、まさに待ちの姿勢のそれだった。

 一方の秋葉は、琥珀の作業を見守りながらも眉根をしかめて目の前の兄とそ
の恋人を交互にちらちらと眺めている。そして、しばらく兄の志貴に目を据え
ていたかと思うと、渋い表情で話し始める。

「兄さん。なぜ、こちらにシエルさんが?」

 志貴は秋葉の機嫌の悪さを察すると、手を顎に当て顔を背け、なんとか言い
逃れに適した言葉を探し始める。いや、琥珀さんに誘われてちょうど先輩と一
緒に……などと、説得力の薄い言い訳ばかりが思いつくが、決定打となりそう
なものはない。

「今日は先輩と一緒の……その、秋葉――」
「遠野くんと琥珀さんのお誘いを受けて、ご一緒にテイスティングをさせてい
ただくことになりました。些か不敏の身でありますが、今日はご教示お願いい
たします」

 志貴の言葉を途中で遮るようにして、シエルがそう答えて秋葉にうやうやし
く頭を下げる。
 落ち着きを払ったシエルの態度に志貴はびくびくしながら事の成り行きを見
守り、秋葉は胡散臭そうにシエルのそのしたり顔を見つめていたが、やがてつ
いと顔を返す。

「まぁ、私はかまいませんけど――兄さん?」
「ん?あ、何だ?秋葉」

 にわかに言葉を自分に向けられ、訳もなく狼狽する志貴の顔を秋葉は見つめ
る。そして、すこしむくれるような顔で、手を膝の上で組み直しながら言う。

「兄さん?そんなに緊張しなくてもよろしいではないですか?それとも、私が
シエルさんと一緒にいると、何か問題が起こるとでも考えて……?」
「いや、そんなことはないけども……いや、今日も二人ともキレイだなぁ、と」

 志貴の腰の据わらない言い訳じみたお世辞に秋葉は溜息をつくと、ポットか
ら小振りのティーポットにお湯をそそぎ入れ、砂時計をひっくり返していく琥
珀の仕事に目を遣る。

 秋葉にはシエルの到来は急なことであったが、ある意味こうなることは想像
できなくもなかった。それに、兄の恋人であることは頭では熟知しているのだ
が、心のどこかでそれに対して素直に納得できかねるものがあった。

 その為か、一度シエルに目を遣ってからと言うもの秋葉はそちらの方を見な
いようにして、琥珀の手つきを眺めている。やがて、きちんと端座して口をつ
ぐんでいるいるシエルと、何かを話したくても話せない志貴、それに世間話を
するほどに機嫌のよろしくない秋葉――という三人に気まずい沈黙が流れ始め
ていた。

 それを察したのか、琥珀がぐるりと一同を眺め、なんとなく陰気な感じが漂
う居間の空気を変えようと笑顔で話題を切り出して話し始める。

「秋葉様。今年のセカンドフラッシュですが……」
「どうなの?琥珀」
「今年はタルボ農園とキャッスルトン農園、それにアリヤ農園の新茶を送って戴
きました。どれも甲乙付けがたい出来ではないかと思いますが……」

 砂時計の砂はガラスの中をさらさらとこぼれ、薄く積もってゆく。テーブルの
上にはコジーの掛けられた三つのポットと、三組づつの浅いテイスティングカッ
プ。琥珀の前に広げられたお茶の用意を見て、シエルが尋ねる。

「琥珀さん、先ほど農園と言っていたのは?」
「ええ、ダージリンには大小四十あまりの農園がありまして、それぞれの農園と
それぞれの生産ロットによって味が変わるんです。その中でも質の良い物を選ん
で貰っていますね」
「農園毎に……それはまた」

 そこまで言うと、ほとほと感心したようにシエルが呟く。その様子にどうして?
と小脇をつついて質問する志貴に、シエルは小声で答えた。

「……遠野くん、農園毎のダージリンの新茶なんて、普通嗜む人はそう居ない
んですよ?せめて季節毎の新茶であったり……こんな、英国の上院議員でも飲
まないような紅茶を飲んでいるって、遠野くんは気が付かなかったんですか?」
「いや、まぁ……秋葉が飲んでいるくらいだから悪い物じゃないと思ったけど」

 志貴は秋葉と紅茶を共にすることはあるが、あまりその味に対して気を払っ
たことはなかった。時折秋葉と琥珀がお茶に関して語り合うことを耳にしたり
もしているが、その時も話は右耳から左耳へと通り抜けている事が多かった。

 茶道の事なら育ちから分かる志貴だが、どうにも洋風の紅茶や珈琲などと言っ
たものには注意が払えない為、改めてシエルに言われて気が付く有様である。

「……兄さんは、そういう人なんです。せっかくとっておきの者を勧めても、
『ああ、おいしかった』ぐらいしか言わないんですもの」

 小声でのシエルと志貴の話に聞き耳を立てていた秋葉が、恨めしそうに腐す。
機嫌の傾いている秋葉らしい拗ね方あったが、そこで志貴を弁護するように琥
珀が笑って話し出す。
 琥珀は砂時計を確かめ、コジーを外してスプーンでカップの中を軽くかき混ぜた。

「でも、志貴さまはお料理とかお茶とか、美味しい物を召し上がられるときは
お言葉にはされませんけども、顔色とかご様子とかを拝見しているとああ、喜
んでらっしゃるなって分かりますねー。
 それが嬉しいので、私もお仕えする甲斐があるので頑張っているんですよー」

 琥珀のほのぼのとした声と共に、ポットの蓋の隙間から立つ香気がゆらりと
漂い、居間の空気を柔らかく変えていく。馥郁たる香気を吸い込み、シエルは
目を閉ざしてその繊細な香りを感じていた。

「……良い香りですね」
「ええ、やはりこの季節の新茶は春と違ってまた別の味わいがありますねー」

 琥珀はポットを次々に揃えると、暖めたカップを手際よく並べてストレーナー
を片手に、とぽとぽと甘さを感じさせる香気を溶かし込んだ紅茶を注いでいく。
琥珀が袖を押さえながら滑るようにテーブルの上のカップを秋葉の前に進める。

 秋葉はカップを手に取ると、ソーサーを片手に持ち上げ、しばらくカップよ
り立つ香気を楽しんでいる。そして、そんな秋葉の対面に座る志貴とシエルに
もダージリンのカップが勧められる。

「……言われてみれば、香りが違うな」

 志貴がカップを手に取った時の感想は、そういう物であった。いつも紅茶は
食堂で呈されることが多かったが、朝に忙しない志貴は碌に手もつけないし、
夕に出されても味を傾注している訳ではなかった。
 だが、こうやってとっておきの新茶を出されれば、その薫りと繊細な水色に
さすがの志貴でも、このお茶が他の紅茶と一頭地ぬきんでていることが理解で
きる。

 恐る恐る唇を寄せて、カップから紅茶を口に含む。
 その味に出来るだけ気を巡らせていた志貴の口内に広がるのは、何とも言え
ないほのかな――甘みであった。テーブルの上に砂糖もクリームもないのに、
ストレートのダージリンから甘みがし、苦さや渋み、諄さは一切ない。

 志貴が驚いて声を上げようとすると、琥珀はその顔を見て可笑しそうに言う

「ああ、志貴さまも気がつかれたんですね。
 タルボ農園の出来が良い物は、何も入れなくても滋味と甘味があるんです。
残念ながらこのレベルのお茶はいつも入れられませんけども……如何ですか?
志貴さま?シエルさま?」

 志貴がシエルの方を向くと、そこにはカップを両手で持ってほわーん、とし
た顔のシエルが瞼を閉ざして、新茶のもたらす感覚の中に浮遊していた。そし
て、琥珀の言葉によって気がついたように、そっと眼鏡の奥の青い瞳を開く。

「いいですねー。こんなお茶をいつも頂きたいです」
「いえいえ。シエルさまが志貴さまとご一緒にいらっしゃるのでしたらたら、
いつでもお出ししますよー」

 琥珀の言葉にぴくり、と秋葉の眉が動くが、秋葉はカップを握ったまま無言
で新茶を味わっている。いつもだったらここで文句や愚痴のひとつも漏れるの
であるが、今は黙って受け流そうと努めている。

 その様子を志貴は見逃さなかったが、ことさらに言い立てるのは大人らしく
ないので秋葉に倣ってコメントは避けていた。

 やはり、美味しい物を飲んだり食べたりすると怒れないんだろうな――と志
貴はぼんやり思っていた。いつも厳直なお嬢様の秋葉もやはり人の子、と言う
ことを思うと、志貴は何となく面白おかしいような気分になる。

 続いて琥珀の勧めるのは、別のポットの新茶であった。

 一つの新茶は水色は薄目であり、その代わりに鋭く思えるほど強い香気と草
の様な緑の味わいの強いものであった。そして、その後に呈された物は、前の
カップに較べると熟みのある味わいであり、薫りも味わいも玄妙で、むしろ中
国茶に近いものを感じさせる。

「……はぁ、同じダージリンでも、ここまで違うとは」
「はい、順番はタルボ、キャッスルトン、アリヤ農園となってますね」

 続けざまにカップに手を着けて、志貴の感心したような、また一面では呆れ
たようにも取れる声であった。今まで口を閉ざしていた秋葉は、三杯目のカッ
プを味わい終わった後に、おもむろに琥珀に話しかける。

「ちゃんと味の差が出ていたわね、琥珀」
「お褒めいただきありがとうございます。秋葉様のお気にいられたのは……」

 秋葉は僅かに目を細めて味覚の記憶を新たにすると、ゆっくりと答え出す。

「そうね、タルボ農園の円熟はさすがだし、アリヤ農園の玄味はここ数年他に
代え難い物があるわね。キャッスルトンのマスカテルフレーバーもここまでくっ
きり出ると、さすがダージリンと思うわね。敢えて言えばタルボからね」
「……マスカテル?」

 聞き慣れない秋葉の言葉に志貴は首をひねると、すっかり志貴への解説役を
任じつつあるシエルが首を傾けて耳元にそっと教える。

「遠野くん、マスカテルというのはダージリンの青い草っぽい香りのことです。
マスカットの薫り、という意味ですけども……そもそもイギリス人の表現です
からあんまり深い理由は聞いてはいけません」

 フランス人らしく一通りイギリス人を腐したことを言い、シエルは相好を崩
して志貴に笑いかけた。
 なるほどねぇ……と分かったような分からないような顔の志貴を一瞥すると、
秋葉は手を膝の上に組み、背筋を伸ばしてその傍らのシエルに尋ねる。

 シエルを前にしては穏やかな様子の秋葉の言葉であった。

「シエルさんはどれが気に入りまして?」
「私は三番目のアリヤ農園ですね。こう、すごくダージリンらしいんだけどダー
ジリンらしくない感じが素敵です」

 シエルの論評に秋葉はふんふん、と興味深そうに頷いていた。そして、答え
たシエルと尋ねた秋葉の目が期せずして同時に動き、志貴の顔に据えられる。

 にわかに注目の的となった志貴は、今だに半分ほど残ったテイスティングカッ
プを抱えたままできょとんと二人の顔を見つめていた。やがて、二人の視線は
自分に感想と論評を求めているのだと察すると、志貴は片手で顎の先を掻いて
悩み始める。

 志貴は味覚の記憶をたぐり、言葉にしにくいその感覚を何とか言葉に使用と
苦心していた。そして、どのような言葉を口にするのかを迷いながら志貴は口
を開く。

「そうだな……いつも琥珀さんの煎れてくれるお茶は美味しいと思ったけど、
今日は格別で……難しいなぁ、どれがどうと言うのは。でも……」

 志貴は、言葉をそこで止めた。
 秋葉は最初のタルボ農園の新茶が良いと言い、シエルは三番目のアリヤ農園
が良いと言う。ここで自分は二番目が良かった……といえば三者三様で丸く収
まりそうな気もしたが、シエルと秋葉の瞳は志貴に、自分たちの好きな茶葉の
どちらかを選ばせようとしている期待の色を見いだしてしまっていた。

 それがどうというわけではなく、ただの茶葉の好みの問題だ、と志貴は思う。
だが、その一方のこの場で秋葉の趣味に合わせるか、シエルの趣味に合わせる
かの重大な選択が呈示されているような気もしてならなかった。

 だが、そのどちらが良いのか?紅茶の味覚の記憶は期せずして現れた選択の
緊張で曖昧な世界の中に没してしまっていた。

 ――ど、どう答えればいいのか……

 志貴は咄嗟に琥珀に救いを求めて無言で瞳を向ける。
 琥珀はその様子に気が付くと、空いたカップを片づける手を止めた。

「そうですね、ここまでのクラスになると良い悪い、ではなくお好みの問題で
すので……私が見ていた限りでは、三番目のアリヤ農園の時に志貴さまは感じ
入るところが有ったように見受けられましたが」

 本当の所は、志貴も自分がそんな素振りを見せていたのかは全く自信はなかった。
ただ、渡りに舟とばかりに琥珀の言葉を頼り、喋り始める。

「そう、三番目は良かったね……ねぇ、先輩?」
「はい、遠野くんもわかりましたか……うん、うれしいですね」

 志貴の言葉に、目を輝かせてシエルは答える。一方で秋葉はなんとなく、志
貴が言った茶葉と自分の選んだ物が違ったことに対して敗北に似た感覚を憶え
て、口をすぼめて拗ねるように目線を二人の逸らす。

 ――でも、琥珀があんな事を言わなければ

 秋葉の心の中で、そういう想いがわずかに宿る。
 そして、助け船をだしてシエルを応援した琥珀をじろり、と恨みがましい瞳
で見つめた。だが、長年仕えてきた琥珀は慣れた物で、そんな秋葉の非難の視
線にもにこにこ笑って動じた様子は見せなかった。

「まぁ、でもどのお茶も甲乙付けがたかったと思うよ。秋葉の言っていたタル
ボ、も実に美味しかったし……」
「……いえ、兄さんもこの味を堪能されたのでしたら、それはそれで私も取り
寄せている甲斐があるという物です」

 秋葉はそう、顎を心持ち引き気味にして言う。
 志貴の言葉で少し機嫌が持ち直した秋葉であったが、その態度にまだ僅かに
拗ねたようなところがあった。その持ち前の気性の強さの隠せない言い様にな
んとなく苦笑してしまう志貴。

 ――まだ機嫌を曲げているみたいだけど、それも秋葉らしい

 志貴は皮肉でもなんでもなく、心の底からこう秋葉の事を考えていた。
 だが、今日の秋葉はシエルと共にいるにしては穏やかな様子であり、シエル
もことさら波風を立てようとしていないことから、ゆったりと静かで満ち足り
た空気が居間の中に、紅茶の残り香と共に漂っている。

「まぁ、でもこうやって較べて見るのも面白いもんだ……でも、先輩も」
「?わたしも、何ですか?」
「いや、先輩がこう、カレー以外の物で味をどうこう言うというのも珍しいな
ぁ、と」

 穏やかな空気の中での、坦懐からの志貴の言葉であった。
 秋葉はそんな志貴ののんびりした台詞にクスリと笑いを浮かべるが、シエル
はその言葉を聞いてむー、と機嫌を崩して志貴にくってかかっていた。

「もうっ、遠野くんは私はカレーばっかり食べていて、美味しい=カレーだと
思ってるんですか!?」
「いや、先輩の家の冷蔵庫の中ってカレーばっかりだし」
「あれは、保存用です!私だってちゃんとした味覚はあるんですよ?遠野くん……
でも、それは、まぁ、カレーも好きですけども……」

 初っぱなは威勢は良かったが、おしまいの方になると勢いが失われていくシ
エルの剣幕であった。そして、シエルは最後にはぼそぼそとカレーも好きなん
ですけども、こういうのも好きだって遠野くんがわかってくれくれればいいん
ですよーだ、などということを小声で呟いてる。

 志貴は、いじけて見せるシエルにやさしく語りかけた。

「まぁ、先輩。そんなに拗ねないで……でも、先輩の好きなお茶が分かって今
日は良かったし、これからも一緒にお茶を飲めればなぁ、とも思うから」
「……そう、遠野くんが言ってくれるのならば……」

 志貴とシエルの目線が合い、見つめ合う二人の顔が近づいていく。
 いい感じになってきた――と志貴が思った矢先に、えへん、というこれ見よ
がしな咳払いがし、二人は慌てて顔を離して向き直る。

 そこには、口元に手を当ててつんと済ましている秋葉と、面白い物を見させ
ていただきました、という顔で笑っている琥珀がいる。

 ――兄さんったら、見せつけなくてもいいじゃないですか

 秋葉は口にこそそういう出さなかったが、顔色はいかにもそう言いたげであった。
志貴もシエルもそんな秋葉の顔を見て、仕方ないな、と苦笑を漏らす。

 一方の琥珀は、片づけ終わったカップをトレイに載せ、一同に頭を下げてこ
う告げる

「……では、テイスティングはこれくらいに致しまして、今度は午後のお茶に
されませんか?
 そうですねー。テイスティングの後ですし、シエルさまがいらっしゃってま
すので、ちょっと趣向を変えてカレー風味のサモサにチャイ、というのはいか
がでしょうか?」
「あ、どうも気を使っていただいてありがとうございます〜」
「……いいわね。じゃぁ、そのようにして、琥珀」

 少女達の楽しげな声が、紗のカーテン越しに初夏の光が射し込む居間の中に
さざめき満ちる。志貴はソファに深く腰掛けると、満足げに頷く。

 こういう、のんびりしたのも良いモノだ――と。

「じゃぁ、琥珀さん。お茶の準備の方もお願いできるかな」
「はい、畏まりました」

 気怠げにも感じる夏の空気の中で、志貴の目は――窓の外に金色の翳を捉え
た、ような気がした。

(To Be Continued....)