ティータイム
阿羅本
「あ、シエル様、いらっしゃいませ」
銀のトレイの上に白いカップを並べた琥珀が、ぺこりと頭を下げる。
七月の初旬といよいよ夏の到来を感じさせる季節の中でも、琥珀の恰好は襟
元を正した和服とエプロン姿であった。涼しげなシエルの白いワンピース姿と
対照的であったが、琥珀の額には汗の一粒も浮いていない。
時刻は昼を過ぎたころであり、西日になる前の天頂の太陽の注ぐ光が燦々と
窓から射し込み、その外の庭を青々と照らし出す。
そんな、初夏の休日のある日のこと。
玄関から応接間の向かう廊下で、すれ違う様な形になった琥珀に、シエルを
連れて来た志貴は会釈をする。
「お帰りなさいませ、志貴さま」
「や、琥珀さん、ただいま……今、部屋は空いてるかな?」
志貴は背を屈めて琥珀に尋ねる。両手でトレイを支えている琥珀はほんの少
し考えると、ほんわりと笑って答える。
「ええ、応接間でしたら……お茶、後でお煎れしましょうか?」
「うん、助かる」
志貴はそう答える琥珀に妙にかしこまったような態度を見せていたが、そん
な様子を後ろから見ているシエルはくすくす笑いを浮かべている。胸元に青い
リボンの付いた帽子を抱え、志貴と琥珀の主従のやり取りは、柔らかく微笑ま
しい思いで眺めるシエル。
志貴は自分に近しい人間以外には驚くほど無関心な人間であるが、この屋敷
の中の翡翠や琥珀、妹である秋葉や恋人であるシエルなどには今のように柔ら
かい姿を見せる。
ただ、それを恋敵であるアルクェイドに見せるのだけは気に喰わない――と心
の中の中で呟くシエルであった。
シエルは頭を軽く振って、金髪の泥棒猫のことを頭の中から追い払う。そし
てこの屋敷の中では仲の良い琥珀に挨拶しようとして、シエルは琥珀が両手で
支えているトレイの上に気が付いた。
――あれ、どうして琥珀さんは……
「お邪魔します、琥珀さん……その、それはどうされるですか?」
シエルが指差していたのは、琥珀の持っているトレイであった。
琥珀の手に支えられたトレイの上には、底の浅いカップが何個も積んである。
そして、木の枠のついた硝子の砂時計が三つほどその脇に見えた。
志貴もシエルの言葉を耳にして、改めて琥珀の姿を見る。そして、志貴もシ
エルに続いて尋ねようとすると、琥珀は胸の辺りのトレイを眺めてから、これ
ですかー、と笑って答え始めた。
「あ、これですかー。これはテイスティング用のカップですね」
「……テイスティング?」
「はい。この季節のダージリンの新茶が、懇意にさせて貰っているお店から届
けて貰いまして。いつものティーカップだと深すぎて水色が分かりませんから、
浅いスープカップを使うんですねー」
水色、と聞き慣れない用語を聞いて首を傾げる志貴と、感心したように頷く
シエル。水色というのはそのままでお茶を煎れた時の色であり、入れ方はもち
ろん茶葉の種類や時には季節、はては農園によってすらも異なる。シエルは指
を顎に当て、興味深そうにカップの上を眺めている。
「ダージリンの新茶ですか……風流ですね。夏の茶葉ですか?」
「ええ、セカンドフラッシュがようやく入ってくる季節になりまして……私、
本当は紅茶よりも日本茶の方が好みなんですけども、ここのダージリンだけは
別格ですねー」
琥珀とシエルはそう、ほのぼのと立ち話を交わしていた。
いつも琥珀によって紅茶を入れられている志貴はその辺には関心の薄い人間
なので、二人の会話に何となく入り込めない。
ただ、先輩も琥珀さんもやはり女の子だから、こういう趣味趣向の話題は楽
しいんだろうな――とぼんやり考えている志貴であった。至って無趣味で無趣
向の人間である志貴には、それが羨ましく思える。
「あれ?シエル様は紅茶、お好きでした?」
「えーっと、母国も職場もコーヒー党でもっぱらエスプレッソでしたけど、こ
ちらだと紅茶でも日本茶でも戴きますね。美味しければ何でもOKです」
「あははは、そうですねー」
琥珀は取り留めもなくシエルとの会話が弾んでいたが、ふと自分の一歩後ろ
に所在なさげに志貴が立っていることに気が付いていた。素早くカップの上に
目を運び、琥珀は僅かに頭の中で考えてからこう提案する。
「せっかくですから、志貴さまもシエルさまも、テイスティングされませんか?」
その琥珀の言葉に、志貴はきょとんとしてしまう。そして、つい志貴の口か
ら漏れる言葉はというと――
「えー、その……俺で良いのか?琥珀さん?」
「もうっ、なにを仰るんですかー。志貴さまはこの遠野家の主なのですから、
志貴さまが悪かったら私はこのお屋敷に入れるお茶のテイスティングなんか出
来ませんよー」
自信のない志貴の言葉に、くすくすと仕方なさそうに笑いながら琥珀は応え
ていた。一方のシエルは如何にも嬉しそうに手を握り、目を輝かせて答える。
「私も同席させてもらってよろしいんですか?」
「ええ、シエルさまは志貴さまのいい人ですから、お茶をお煎れする機会も多
いと思いますので、やはり美味しいお茶をお選び戴いた方がよろしいかと存じ
ますので」
「きゃ……そんな、遠野くんのいい人だなんてー」
シエルは琥珀の言葉に顔を赤らめて、頬に手を当てさも嬉し恥ずかし、といっ
た感じで身悶えして見せる。だが、琥珀の言葉を頭の中で反芻するうちに、黄
金色に輝く豊穣の草原ような、恋するシエルの心象風景の中に暗い一抹の影が
過ぎる思いがする。
その黒い影というのは、言うまでもなくシエルの心を悩ませる恋敵であった。
だが、シエルはそんな心中の不穏な色を押し隠し、笑顔を作りながら琥珀に
尋ねる。
「琥珀さん?」
「はい、なんでしょう?」
「もしかして、今の遠野くんのいい人というの……他の女性に言われたことは
無いですよね?」
シエルは琥珀に尋ねたにも関わらず、その傍らで冷や汗を流している志貴。
志貴とシエル、そしてアルクェイドの関係はいびつな三角を描く関係であった。
基本的に志貴とシエルは恋人同士だが、それにあの吸血姫・アルクェイドが
ちょっかいを掛けている。そして、そんなアルクェイドを志貴がやはり憎から
ず思っている――言うなれば優柔不断の招いた事態がこれである。
志貴は、自分にならともかく琥珀にまで鯉の鞘当てのとばっちりが及ぶ事を
怖れ、思わず慌てて琥珀とシエルの間を遮って何か弁明じみたことを口走ろう
とする。
だが、琥珀の方が一枚上手であった。志貴に仕える者として、当然のことの
ようにシエルとアルクェイドの関係を知る彼女は、目の前のシエルの穏やかな
らざる笑顔をさらりと受け流しながら答える。
「いいえ。やはり、志貴さまにはシエルさましかいらっしゃいませんねー」
「そうですよね、そう。いや、変なこと聞いてすいません」
そう言って、あはははは、と和解と確認の意味合いの深い笑いを浮かべる二人。
その傍らで、危機回避が琥珀の機知によって実現され、心の中では手を合わ
せて拝みたい気持ちの志貴が胸を撫で下ろしながらその笑いに唱和する。
あ、でも――と言いかけ、時ならぬ不思議な笑いの合唱を中断したのは琥珀
であった。
「あの、テイスティングですが……秋葉さまも当然ご一緒となりますが、よろ
しいでしょうか?」
秋葉と一緒。その言葉を聞いた途端にまた志貴は顔色を曇らせる。
志貴の妹である秋葉とシエルの仲は良好とは言いかねる――正しくは、秋葉
がシエルのことを嫌っているというのが正しく、シエルはその反発をむしろ楽
しんでいる様なところがある。この二人の関係はアルクェイドとシエルのそれ
とは違い、多分に陰性の対立であり、志貴の気疲れの一因であった。
シエルと秋葉が同席する――不安を禁じきれない志貴がシエルを顧みると、
そこには普段と変わりなく、余裕のある笑顔のシエルがいた。シエルは志貴を
見つめると、その顔をおかしそうに眺めて話す。
「そんなに不安そうな顔をしなくても良いじゃないですか、遠野くん」
「ご、御免、先輩……」
「確かに秋葉さんと私は仲良しって訳にもいきませんけど……でも、あの泥棒
猫とは比べものになりませんし」
アルクェイドと比較して、秋葉はマトモなのか……とシエルの言葉を聞きな
がらも、笑えないモノを感じる志貴であった。だいたい、アルクェイドより悪
いと言われるのは人間社会を蝕む死徒連中ぐらいしかない、というシエルの価
値判断を知る志貴は、その言葉にイエスともノーとも言いかねて曖昧な表情で
相づちを打つ。
「まぁ、秋葉も先輩のことは言葉ほどには悪く思っていないはずだし……」
何とか場を取り繕おうとする志貴の言葉にシエルは軽く笑うと、それに、と
言って付け加える。
「秋葉さんと私はそのうち、シエル義姉さんと義妹と呼び合う仲になるんです
から今のうちから仲良くしておかないと、遠野くんをいろいろと苦労させちゃ
いますから」
「あはは、そうですねー。私もシエル奥様ってお呼びする事になるんですねー」
シエルの夢一杯の言葉と、それに調子を合わせた琥珀の持ち上げ。そして、
その間で(アルクェイドのことが片づかないとそーにもならないんじゃないの
か?)という口に出せない疑問を抱え、またしても生硬な笑い。
志貴はなんとかこわばる笑顔をほぐして喋ろうとする。
「じゃぁ、琥珀さん。食堂?それとも居間に……」
「そうですねー。早速リビングでご用意いたしますので、是非とも午後のお茶
をお楽しみ下さい」
琥珀はそう言って頭を下げ、しずしずとトレイを抱えたまま志貴たちから離
れ、廊下を進んでいった。
そして、琥珀の背中を見送るシエルは、つと志貴を振り返ると、機嫌を僅か
に傾けて尋ねる。
「……遠野くん、もしかしてさっき、アルクェイドのこと考えていました?」
心の中の疚しいところを付かれた志貴は僅かに顔色を変えるが、シエルには
それを咎める様子は見せなかった。むしろ、アルクェイドのことを考えていな
い、と言われる方が怪しく感じるシエルには、自分に対してのわかりやすい態
度をとる今の志貴の方が、気になるところは無かった。
シエルは、志貴に対して腰に手を当て、指を鼻先に突き付けてこう言う。
「……遠野くん?遠野くんは私と一緒にいるときは、私のことだけを考えて下
さい」
「いや、その、先輩……ごめんなさい」
シエルは志貴に突き付けていた手をほぐし、背の高い志貴の頭をくしゃくしゃ
となでつけながら、こう答える。
「まぁ、今日の所は大目に見ます。さ、行きましょう?遠野くん」
(To Be Continued....)
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