パタン、と音を立ててドアが閉まる。
 部屋には俺と、半分残った羊羹と、まだ湯の入った急須、それに中途半端に
ベッドメイキングされた寝台が残される。慌ただしく翡翠と琥珀が出ていった
ためか、ひどくガランとしている様に感じてしまう、俺の部屋。

 これからなにを琥珀さんがしようかというのは、気に掛かる。琥珀さんは悪
意では動かなくはなったが、茶目っ気にしては激しい行動をとることもあるし。

 10分経過。

 俺は急須を傾けて濃い目に入った緑茶を注ぎ、最後の羊羹を片付けた。
 まぁ、なにをしているのかが分からないが、きっと愉快なことなんだろう。
休日の午後だ、悪いことにはならないと思う。

 20分経過。

 俺は湯呑みの底に溜まった粉っぽく苦く濃い緑茶を、逆さにしながら飲み込
む。急須を振ってもお茶は出てこないし、羊羹もない。でも琥珀さんも翡翠も
姿を現さないし、なんとなく探しに行ってはいけないような気がした。

 30分経過。

 俺は椅子の上で足を組んで、有彦から借りた文庫本を読んでいた。新人の文
学賞をとった作品らしく、あいつが旅行中に読んでいたらしい。とりあえず、
何かイベントが起こるまで俺に要求されているのはここにじっとしていること
であるから、こうでもしないと……勉強でもするかな?

 40分経過。

 何となく気乗りがしないので本を置き、柄にもなく漢文の課題などをこなし
始めた俺は、コツコツとドアがノックされるのを聞いた。
 ん?何事だろう?と思いながら俺が振り返ってドアを見つめると、ゆっくり
とドアが開く。

「失礼しますねー、志貴さん」

 頭を下げて入ってきたのは、琥珀さんだった。
 蝦色の和服の上に白いエプロンを付けていて、にこにこ笑って部屋に入って
きた……
 だが、俺はなんとなくヘンな感じがして、挨拶しかけた声を留めた。

「…………」

 頭の上には青い琥珀さんのリボンがあるが、どこか……違う。
 目の色はアンバーブラウン。琥珀さんの瞳の筈……だった。
 だが、やはり違う。

 俺は口をつぐんで、じっとこの琥珀さんを見つめる。
 この琥珀さんは、琥珀さんではない。なにしろ俺にじっと見つめられるても
堪えた様子もなくにこにこして話し始めるのではなく、微かに首を傾けて俺を
黙って見ている。

 何故、琥珀さんは黙っている?

 目つきが……違う。この困惑の色。
 これは――琥珀ではない。
 そうなると……

「……何しているの?翡翠」
「あ……志貴さま……」

 なぜこの琥珀さんが喋らないのかが分かった。確かに声は琥珀さんと翡翠は
似ているが、いざ喋り始めると口調は似せても、やはりその中身が反映される
のだから。
 いや、琥珀さんは翡翠の真似をかなり上手く出来ることは出来るかも知れな
い。でも、逆は無理だったのだろう。

 今や俺の目の前にいるのは、琥珀さんの着物を着付けた翡翠であった。
 手を胸元で握り合わせ、翡翠は申し訳なさそうな、居所のない様子だった。
 俺はやれやれ、と頭を振ると椅子から立ち上がる。そして翡翠の方に歩み寄
ると、びくん、と翡翠が恐縮して縮こまるのが分かる。

 なんか、恐縮して脅える琥珀さん、と言う姿は珍しい。
 まぁ、中身は翡翠な訳なんだけども……

「志貴さま……その、申し訳ございません……」

 俺の目の前で翡翠は、泣きそうな顔をして頭を下げる。青いリボンがぴょこ
ん、と上下する。
 翡翠を上から下まで眺めたが、中の翡翠の人格のせいでいくら琥珀さんの恰
好をしていても、別人であると分かる。これが、翡翠が琥珀さんと似ていない
と言った由縁か――

 俺は納得して頷くと、最敬礼のままで固まる翡翠の腕をとって起こす。
 手を取った瞬間にびくん、と強く翡翠が緊張して身体を竦ませるのがわかっ
たが、軽く肩を叩きながら身体を起こさせた。

「この恰好、琥珀さんが?」
「は、はい……姉さんがその、志貴さんの前に姉さんの仕事着で……それで、
姉さんの口調を真似して、志貴さまに……」

 そこまで歯切れの悪い口調で言うと翡翠は、目を伏せる。
 そのまま翡翠は微かに身震いをしていたが、やおら俺の手を両腕でとって、
意を決した瞳で俺を見上げる。

「申し訳ございません、志貴さま。使用人が主を試すが如き行動は慎むべきで
あり、志貴さまのお怒りもごもっともです。姉の分まで仕置きはお受けいたし
ますので、どうかご寛恕の程を」
「あーいや、怒っていないよ、翡翠も琥珀さんも。しかし……」

 翡翠は咄嗟に俺の手を取ったのだろう。ぎゅっと握りしめる手は痛いほどだ。
 翡翠の琥珀色の瞳は懸命に俺を見つめるが、この瞳も……え?

「翡翠、その……カラーコンタクトしているのか?」
「はい、志貴さま……姉さんの持ち物で、これも」

 琥珀さんは翡翠の目の色のコンタクトを持っていたのは分かるけども、自分
の目の色まで用意しているとは……一体何をどこまで用意してあるのか興味は
尽きない。
 翡翠もようやく、必死のあまり自分がなにをしているのかを気が付いたらし
い。俺の手からぱっと手を離すと、そのまま手を後ろに組んでもじもじと下がる。

 琥珀さんがいじらしげに俯いている、というのも目新しい光景だった。
 琥珀さんの恰好で翡翠の仕草、というのはこれはこれで可愛いモノだ。
 こう、食指がつい動くような……

 いかんいかん。こんなにお日様が高いのに……
 
「まぁ、琥珀さんが翡翠のフリをするのは出来たかも知れないけども、逆はま
た真なり、ということではなかったということかぁ」

 俺は如何にも小難しげなことを唸ってうんうんと殊更に頷く。というか、こ
うでもしないとこの和服姿の翡翠があんまりにも可愛らしいの、つい押し倒し
たくなる。何しろ翡翠の和服姿というのは新鮮でたまらなく……

「たしかに、私では姉さんを真似るのは出来ませんから……」
「いや、むしろあれほど上手い琥珀さんが特殊な例だったんだから、気に病む
ことはないよ」
「あー、言われちゃってますねー」

 俺と翡翠が話し合っている最中に、ドアの向こうから声がする。
 俺が首を動かし、翡翠が振り返るとコン、とワンノックされた。俺が琥珀さ
ん?と応えるのと、ドアがすっと開くのはほぼ同時だった。

 いや、もしかして翡翠が琥珀さんの恰好をしているのだから、琥珀さんは翡
翠の恰好をしているんだろうか?衣装の交換、と言うのはあり得る。
 でも、この口調だと琥珀さんは必ずしも翡翠になりきっている訳ではないから――

 僅かな間にスパークするように俺の中の慌ただしい考えが飛び交うが、瞬き
をするほどの間に推論の結果は出るはずはない。
 俺は開くドアの隙間を見つめる

「姉さん――」
 
 翡翠はどことなく憤然とした口調で話しかけようとしたが、すぐに絶句した。
 今回の計画に大してのコメントを口に乗せかけた俺も、その科白が頭のうし
ろから落っこちていくのが分かった。

 ひらり、と濃紺のプリーツスカートが舞う。
 白いセーラー服の袖が舞い込み、スカートと同色のセーラーカラーが見える。
 そして、それを纏っているのが……

「琥珀、さん?」

 白いリボンで上を結んだ琥珀さんが、ひょっこりと姿を現した。
 その恰好は俺が初めて見るものだった。衣装はなんだか分かる……浅上女学
院の制服だ。秋葉がこれを着て高校に行っているし、毎日見るんだから間違い
ようがない。
 だが、それを琥珀さんが来ているというのは初めて見るから――

「やっぱり翡翠ちゃんが私のフリをするのは難しかったですねー、付け焼き刃
じゃどうにもなりませんか。でも、やっぱり似ていますよね、翡翠ちゃんは私
に」

 ぐるぐると琥珀さんは翡翠の周りを回って、上から下まで翡翠の姿を確かめ
ている。
 だが、俺の目に映る光景は、見慣れない浅上女学院の生徒が琥珀さんの周り
を回っている光景だった。でも、それは琥珀さんと翡翠で……ああもう、混乱
する。

「口を開かなければ分からない……かな?」

 俺も頬を指先でひっかきながらコメントする。
 だが、今気になるのはそんなことよりも、琥珀さんの恰好だった。浅上の白
と紺を基調としたセーラー服は琥珀さんに清純さを引き立てていて、その笑顔
と相まって学園のアイドルみたいな感じであった。もしも琥珀さんや翡翠と一
緒に学校に行っていればこうなるんだろうな、と思うほどの――

 俺がまんじりともせずに琥珀さんを見つめていると、琥珀さんはスカートを
持ってひらり、とその場でターンしてみせる。ああ、膝までの白いハイソック
スが……琥珀さんも分かっている、うん、実に。
 浅上制服の琥珀さんは実に可愛らしかった。琥珀さんの和服で困惑する翡翠
はベッドの上に被さって味わいたい様な頼りなさがあり、浅上制服の琥珀さん
は一緒に連れ歩いて味わいたい風合いがある。ああ、たまらんなこれは……

 もし、こんな琥珀さんと翡翠を一緒に頂ければ。

 思わずぴくぴくっ、と動く右手の指を俺は背中に回して隠す。
 いかんいかん、お日様の高いうちにそんな不埒なことを……それに、琥珀さ
んと翡翠でイメージプレイだなんて……憧れる……いや、そうじゃなくって。

「志貴さん志貴さん、似合ってますか?私」

(To Be Continued....)