――あれは、美しく
 ――そして危険だ。

 志貴の中で、何かが警告を発する。どくん、どくんと心臓が冷たい脈を打ち、
水銀のように重くねばった冷たい血液が身体を巡る。心は興奮し、身体は冷え
切る。明かな異変にも関わらず、志貴の足は止まらない。

 ざくりざくりと雪は、足下で沈んで行く。志貴は一歩、また一歩と炎と――
人影に向かって近づいていった。いつの間にか傘を投げ捨て、もがくように進む。

 炎を背にした女性は、炎に見入って動こうともしない。傘もささず、短い金
髪を風に嬲らせているがそこに雪の姿はない。細い肩の、たおやかな女性の姿。
 だが、この女性が異様な空気と世界の中心であると志貴は自然と感じ取って
いた。

 志貴は、炎と女性に向かって歩を進める。丘を下り、雪を踏む。

 ――この女は、一度見たことがある、どこかで、一回だけ

 志貴は言うことを聞かない身体を駆り立て、なんとかその炎に近づこうとする。
手を心臓の上にあて、はぁ、はぁ、と荒い息を吐き、息は凍る空気の中で白く
曇る。
 志貴の目の前に見えているのは、炎の中を眺める金髪の女性の背中であった。
その背中は、一度だけ――弓塚 さつきの事件の時に見たことがある。

 志貴が彼女に向かって声を上げようとすると、女性が音もなく振り返った。
 志貴の目に飛び込んできたのは――

「……………………………………」

 紅い眼。それは血のように真っ赤な瞳であった。

 志貴は振り返った女性の紅い瞳に見つめられ、足を止めた。いや、むしろ足
が勝手に止まってしまった。女性のその容貌は、炎に照らされ輝いている。整っ
た鼻梁と細い顎、口もとの揃い方も完璧であった。まさに天上の美女であった
が――

 紅鋼玉の、いや血の如く紅い瞳と、感情のない冷たい美貌。
 身体には、死の兆候を示す線は一つたりとも無い。
 彼女は――この世界の中で純粋に完成された、なにより危険な存在であった。

「……………………………………」

 志貴には分かった。これは、人間の形をしているが人間ではないと。
 胸に当てた指が、コートに深く食い込む。空いた右腕をコートの中を探り、
隠していたナイフを探り当てようとするが、金属の冷たい感覚が指に触れた
瞬間に、志貴は身体の動きを止めた。

 ――ナイフを持って、どうする?こいつは倒せはしない

 志貴の中のもう一人の志貴が、冷たく断定する。シキの戦いのときに己を
駆った極死の自己は、目の前の存在があまりにも強大であることを告げてい
た。それに首肯せざるを得ない志貴はナイフの柄を握りしめたまま、動きを
止めて目の前の女性を見つめる。

 金髪の女性は、感情も興味もない眼で志貴を見つめている。
 身動き一つ取らない女性の視線の中で、志貴もまた動きがままならずにいる。
 降る雪が、志貴の髪と肩に積もりはじめる。

「……………………………………」

 静かな対峙は、金髪の女性によって破られた。
 彼女は、志貴をまるで無視するように眼を逸らし、そしてそのまま踵を返し
て歩き出す。志貴の目の前で歩く彼女は、雪に足跡を記さなかった――積もる
柔らかい新雪の上を、滑るように歩いていく。

 志貴は一人で取り残されていたが、足は彼女を追うことは出来なかった。
 燃える炎の熱を、遅れるように志貴は感じる。

 女性は驚くほど早く、志貴の目の前から遠ざかっていった。雪を上をゆっく
りとした歩調で歩居ているだけにも関わらず、驚くべき速度で志貴の視界の中
で、金髪の白い人影は小さくなっていく。

 それと同時に、辺りの世界が変わって行く。
 平原の彼方の山並みは、まるで霞んでいくように姿を変え、急峻な山並みと
なる。新雪のつもったうねる草原は後退して、雑木林が生えるように広がって
いった。

 志貴の目の前で変わっていく世界は、万物に死が宿る、あの忌まわしくも懐
かしい世界であった。風景はたちまち平原から、山の中の道路に変わる。

 ――何が起きた?いや、今までが何だったんだ?

 志貴は混乱と狼狽の極みにありながら、辺りを気ぜわしく見回す。浮かんで
いた月は、雲と煙の中に消えていた。志貴はようやく、目の前で燃えている物
に注意を向けた。

 燃えているのは、大型の乗用車であった。ごうごうとうねる炎の中で形の判
別は容易ではないが、その中に浮かぶ形は何となく志貴には見覚えがあった。
 炎に照らされた足下を眺めると、多くの車のパーツが飛び散っている。志貴
の足下には砕けた強化ガラスの破片が飛び散り、雪の中にぽつぽつと突起を作っ
ていた。

 志貴は辺りを眺め、そして飛び散ったパーツの中から何かを見付けた。
 それは、折れて半分に曲がったバンパーと、上の方が折れたナンバープレート。

 志貴は、ナンバープレートに元に歩み寄ると、その上に積もった雪を払い、
プレートを読む。その数字は、志貴の記憶の中にある番号と一致している。
 志貴は、狂う炎とその中に消える車を、傾ぐような動きで見つめる。

 ――信じたくない

「秋葉……」

 ――信じられない

「秋葉……」

 ――これが、秋葉の乗っていた車だなんて

「秋葉……秋葉ぁぁぁぁぁっ!」

 志貴の絶叫が木霊する。ガソリンによって激しく燃える炎は、狂ったように
黒煙を曇天に巻き上げていた。車は炎の中に没し、辺りには生命の気配はない。
 志貴は燃えさかる炎に向かって膝を折った。立膝のまま炎の熱に向かい、そ
のまま力無く膝を折り、志貴は譫言のように呟き続ける。

 ――秋葉が、この車の中に

「……嘘だろ……秋葉……お願いだ……嘘だと言ってくれ……」

 ――翡翠や七夜さんに、なんと言えばいいんだ……

 志貴の背中から力が抜け、そのままどさり、と雪の中に倒れ込む。
 身体の下に当たる金属の破片が痛むが、それを感じる志貴ではなかった。炎
に煽られているにも関わらず、寒さが身体の底に凍み込んで、こみ上がる絶望
と共に疲労と眠気が志貴の中を占めていった。

 止まるところのない炎の噴き上がる轟音を聞きながら――志貴の意識は遠
ざかっていった。

(To Be Continued....)