傘をさしていても、志貴の眼鏡に気まぐれに舞い込んだ雪の結晶が張り付く。
 夜の帳の下にさらに黒い雲が低くたれ込め、空に光はない。街路灯の光の中
を雪が白く舞い、アスファルトの上に積もっていく。人通りの少ない遠野家の
周囲では新雪が降り積もり、その中を志貴はざくざくと足跡を残して歩いていった。

 ――冥い夜だ。音もなく、このまま夜の底に落ちて行くような

 志貴は傘を僅かに上げて天を眺める。そこには、己に向かって舞い落ちてく
る雪片しか見えない。星も月もそこにはない。
 降り積もる雪の為か、行き交う人の数もまばらだった。吹く風は刺すように
寒く、晒している耳から血の気が失せて痛く感じはじめもする。

 志貴の足は、遠野邸から住宅街の車道へと向かっていた。今こうしている間
にも、秋葉がどうしているのかが不安であったが、志貴の頭には秋葉が何処で
どうしているのかという捜索の目途があるわけではない。ただ、道から道へと
ふらふらと漂っているに過ぎない。

 志貴は降りしきる雪の中、秋葉を――いや、秋葉に繋がる何かを見あたらな
いかと歩き回っていた。どれくらい歩いたか志貴は憶えてもいないし、腕時計
で時間を確かめることもしなかった。ただ、焦りを歩くことで疲れに変え、そ
れで発散させるかのような徘徊。

 以前にも、志貴は夢で己が徘徊する事があったことを思い出して何とも嫌な
感じになる。どうも、俺が街を彷徨い出すと碌な事がない、と志貴が思い始め
た矢先のことであった。

 空気が、重い。
 言いしれぬ空気の違和感がある。一歩一歩足を進める毎に、息苦しさがつき
まとう。まるで、自分が足を向ける方向が、自分を遠ざけようとする抵抗の様
な物を志貴は感じていた。足を一歩先に踏み入れる毎に、重いプレッシャーが
掛かる。

 そろそろ戻らないと、翡翠を心配させる。そう思った志貴が傘を上げて周囲
の光景を眺め、そして――絶句した。

 志貴が歩いていたのは、雪の平原であった。

 なだらかな丘が辺りに広がり、遠くの山並みが夜のスクリーンの中に浮かび
上がっている。背後を振り返ると、志貴の足跡だけがぽつぽつと後ろに二列の
跡を残している。そして、背後には三咲町の灯りは無かった。

 いや、この平原には人家の光は一つすらない。
 凍てついた真冬の平原。逆巻く風が雪を舞い上げる。

 狼狽する志貴は傘を取り落とし、辺りを眺める。このような場所が三咲町に
ある筈は無かった。いや、ここがこの世にある現実の世界であるかも定かでは
ない。顔に降りかかる雪は、重く湿った雪ではなく、山奥で降り積もる様な軽
い雪に変じている。

 そして――雪降る夜にも関わらず、月が昇っている。
 青く冷たく光る月。あたかも、この世にあらざる世界の門であるかのような、
神々しく、また不気味な天に浮かぶ光輝の球体。

 ――俺は、何処に迷い込んだ。

 髪と肩に積もる雪はそのままに、志貴は声にならないうめき声を上げる。
秋葉を探していたはずが、自分もいずこかに迷い込んでしまった。そして、
自分は何処に迷い込んでしまったのか――それすらもわかりはしない。

 志貴は傘を拾い上げ、雪に埋もれて行く足跡に背を向け、歩き始めた。
 重い空気は当たりに立ちこめている。ならば、この空気の先に何かがある――
志貴の本能がそう告げていた。

 ざく、ざくと雪を踏む。雪は深く、臑の中程まで降り積もっている。
 目が痛んでくる。魔眼を封じる眼鏡をしているにも関わらず、頭の痛みがじ
んじんと静かにし始めていた。志貴は足を止めると、眼鏡に付いた雪を払うべ
く眼鏡を外し、コートの袖で払いながら何気なく、辺りを見る。

 そこには、万物に宿る筈の死の線が――何処にもなかった。

 志貴は手元の眼鏡を見、さらに風景をおそるおそる眺める。木々や草、石や
土、大地にすら走ることもある死の線が、まったくない。この世界は、志貴が
知っている世界ではない。眼鏡を外したことで、否応なく志貴は悟った。

 眼鏡をしていない目で辺りをぐるっと見回す。眼鏡をしていないにも関わら
ず、死の線は見えない。だが、頭痛だけはし始める――未知の事態に志貴は困
惑しながらも、なんとか自分が居る周りの、そして秋葉の手がかりを見付けよ
うとする。

 そんな志貴の視界の片隅で、煙が上がっていた。
 黒い、油が燃えるような強い煙。この不可思議な世界の中での異なるもの。

 志貴は眼鏡をコートの中に仕舞うと、そちらの方に駆けだした。死の線が見
えなくて良いので、眼鏡は要らないだろうと、そしてあの煙の元に何かがある――
志貴はそう考え、雪を蹴立てて走り出す。

 その煙の方向には、今までよりさらに重く息苦しい空気が張りつめている。
志貴は雪に喘ぎ、風に喘ぎ、空気に喘ぎながらそちらに向かって走る。煙はど
んどん大きくなっていき、そしてその煙の元が、なだらかな丘を走り越えた志
貴の目の中に入る。

 何か、大きな物が燃えていた。
 紅蓮の炎が、ごうごうと千変万別の形を取って踊り狂う。
 炎の上には黒い煙。その上には蒼い月。

 炎を背に、白い人影が立っていた。

 ――あれは、美しく
 ――そして危険だ。

(To Be Continued....)