戦士の帰還
阿羅本
しんしんと降る雪を、志貴は窓辺から眺めていた。
広大な遠野邸の廊下で足を止め、ガラスの窓から外の光景を眺める。そこに
は、夜の色合いを帯びた濃緑の木々を覆い隠そうとするように、雪花が白く舞
い降りて行く。
雪は、都会の重く湿ったものだった。このまま雪が降り続けば、きっと真っ
白に庭は覆い隠されるほど降るな――とぼんやり志貴は考えていた。
日は既に落ちた。黒い空から白い雪が風に吹かれて降り続ける。
廊下を流れる空気は湿って冷たい。志貴は、窓枠に手を触れたままぶるり、
と震える。
「あら……志貴さま、いかがなされました」
背後から声を掛けられ、志貴はつい、と振り返った。
そこには、和服と割烹着姿の少女が、心配そうな顔で志貴を見つめていた。
「ああ……七夜さん。晩御飯出来たの?」
志貴は表情を緩ませて少女に応える。七夜、と呼ばれた少女は不安の去らな
い顔でええ、と頷いた。
七夜――古い名前は琥珀という。ただ、彼女はその名前を覚えていないし、
志貴もその名前を触れることはない。他の遠野家の面々も、七夜、と呼ぶこと
に抵抗を覚えなくなりはじめていた。
七夜は志貴と外の雪の光景を眺め、心配そうに吐息を漏らす。あの悲劇の事
件以来、明るく笑うことが多かった七夜にしては珍しい表情であった。志貴は、
心配げな七夜に問いかける。
「どうしたの?七夜さん。俺に何か言いにくいことでも――」
「いえ、そうではないのですけども……思い過ごしならいいんですけどねー」
七夜はふぅ、と一息ついてから志貴に向き直る。琥珀の瞳に浮かぶ憂慮の色
を認め、志貴の黒蒼の瞳がす、と細められる。志貴が怪訝そうな顔になると、
七夜は力弱く手を振って話し始める。
「いえ、その……秋葉さまから連絡がないもので、ちょっと心配になっているんです」
七夜の晴れない表情を見、その話を聞いて――志貴にもその不安が感染しつ
つあった。特に、秋葉の身の上に何かがある……そう思うと、心臓が少しづつ
早く脈打つような感覚に襲われる。
だがしかし――と志貴は思う。秋葉なら――
「秋葉なら、運転手つきで送迎だろ?まさか帰り道で襲われて誘拐とかそんな
ことはない筈だし」
志貴の言葉は、七夜に聞かせるよりもむしろ自分自身に言い聞かせる言葉で
あった。そうだといいんですけど、と言い淀む七夜であったが、しばらく口を
閉ざした後にぽつぽつとしゃべり続ける。
「いえ……今日は、秋葉さまはご予定がないのでお早くお戻りになられる筈な
のですが、もう……運転手さんからは連絡もありませんし、女学院に連絡した
ら、今日はもう下校されていると……それに、こちらからも連絡がつかない状
況なので」
七夜の声を聞きながら、志貴は腕を組む。妹である秋葉はきわめて品行方正
な少女であり、予定などを時間厳守することは志貴もよく知っていた。それに、
何かしら用事が出来たとしても連絡の一つは入れるはずであったから。
「……翡翠に先に連絡が行ってるとか……」
「いえ、翡翠ちゃんも今日は連絡を受けてないって……志貴さま、いかが致し
ましょう?」
秋葉の連絡が途絶えた――その事実は志貴の心臓を強く締め付ける。心の中
では思い過ごしであれば良いものの、と思う半面、その奥底では言いしれぬ不
安が蟠り、身体を不安で浸食していくような気に志貴はさせられていた。
志貴が視界を外に転ずると、そこには雪降る夜の庭がある。
この雪だ、きっと道路が渋滞している――そう思いたくもあったが、思えな
い一面も志貴にはある。不安が疑心を呼び、疑心は不安をかき立てる。
志貴は、知らずに唇を噛み、拳を握って軽く手のひらに押し付けていた。焦
りの浮かぶ顔を、七夜は無言で見つめている。
「七夜さん……ちょっと外に出て探してくる」
志貴の口から漏れたその言葉に、え?と驚きの顔を向ける七夜。
決意を固めた志貴の硬い表情と、外の雪の様子を交互に眺めてから、驚き脅
えるような声で七夜は志貴に尋ねる。
「志貴さま……外は雪ですし、今日はもう……」
「いや、外に出たって何にもならないかも知れないけど……ごめん、七夜さん。
近所を巡ってくるだけだから……見つからなかったら警察に連絡するしかない
けど、とりあえず……探してみないと気が済まないから」
申し訳なさそうな志貴の顔を見て、七夜は決心を固めた様に頷く。
七夜は割烹着の裾をぎゅ、と握りしめていたが、それから手を離す。七夜の
表情は冴えないが、せめて志貴を不安がらせないように無理した笑顔を浮かべた。
「分かりました、翡翠ちゃんに志貴さまの外出のお支度をさせますので……夕
食ですけども、志貴さまが秋葉さまと一緒にお戻りになられましたら支度いた
しますので」
「助かる……ごめん、七夜さん」
志貴と七夜は窓の前から離れ、それぞれ別の方向に向かう。
小走りに駆けていく七夜の背中を見ながら、志貴はゆっくりと二階の自室に
歩いて行く。窓の外の闇と白い雪を眺めながら、今頃秋葉はどうしているのか――
という懸念を抱きながら、明るくない顔で自分の部屋にたどり着く。
がらんとした自分の部屋に戻ると、灯りも点けずに志貴はライティングデス
クに足を向けた。そして、いつも閉まっている二段目の引き出しを開け、その
奥から隠されていた木箱を取り出す。
木箱を握り、志貴はしばし無言であった。年月を経た桐の箱を掌に載せ、じっ
と眺めていたが――意を決したように蓋を開き、その中の黒い金属棒を取り出す。
木箱を机の上に置き、志貴は慣れた手つきで柄を握り、親指でノッチを探る。
ジャキッ!
スプリングの立てる耳障りな軋みと、金属が滑る冷たい音。そして、窓の外
の僅かな光をぎらりと跳ね返す、鋼の暗い輝き。刃に転々と残る錆は、研いで
も落ちない呪わしい血錆であった――あの、シキの忌まわしい血を浴びて腐る
刃の背。
刃を見つめる志貴の目は冷たい。転々と残る錆が、ぬぐい去った過去の過ち
を己に問いかけてくるかのようであった。刃物に魅せられることがある志貴は、
同時にこのナイフの秘める忌まわしい運命の力をも感じ取っていた。
これを再び持つことはないと思っていた志貴であったが、秋葉の不予の不安
から再びこのナイフを持ち出していたのである。志貴は苦く思う。
――こいつをまた持ち歩くことになるとは
暗然と心中で呟く志貴は、ナイフを手の中で軽く動かし、刃先を陰鬱な瞳で
見つめる。どれくらい経ったか、扉が外からノックされると志貴は我に返って
ナイフの刃を仕舞い、ポケットにねじ込む。
「失礼します、志貴さま。コートとブーツを用意して参りました」
片腕にダッフルコート、片手に革のブーツを下げてやってきたのは翡翠であっ
た。薄暗い部屋の中で佇む志貴に一礼すると、部屋の灯りを点してから部屋に
進み入り、用意した衣服をベッドの傍らに揃える。
志貴はそんな翡翠に強いて明るい笑顔を向けると、歩み寄ってその手から受
け取ろうとする。僅かに二人の指先が触れ合い、ぴく、と動きが止まる。
既に身も心も結ばれた二人ではあったが、こうやってふとしたことで触れ合
うと気恥ずかしくもある。つい俯いてしまう翡翠からコートを受け取り、袖を
通しながら志貴は愛しい人の顔を見つめる。
「志貴さま……お出かけになられると姉さんから伺いましたが」
「……うん。心配かけて済まない。これで入れ替わりで秋葉が戻ってきたら、
きっとあいつに怒られるだろうな」
志貴は気を紛らわせようとするかのようにそう言って低く笑ったが、翡翠は
硬い顔を崩さない。志貴はベッドに腰掛けてブーツに足を入れると、踵をとん
とんと打ち合わせて足の履き心地を確かめる。
志貴の、愛しい人を安心させようとする無理のある笑顔に、翡翠はかすかな
心配の宿る瞳を向けた。
「……大丈夫、そこまで見に行くだけだって」
「……はい、畏まりました。志貴さま」
志貴はそのまま踵を返して部屋から出ていこうとしたが、つ、と足を止めて
己を見守る翡翠の姿を見る。メイド服姿のほっそりとした翡翠は、言いしれぬ
不安が志貴からうつったのか、かすかに震えているようにも見える。
――翡翠だけでも安心させないと
そう思う志貴はそんな細い翡翠の首筋に手を回すと、自分の方に引き寄せる。
それに逆らわずに身を寄せる翡翠の前髪を軽く手で払うと、白いその額にそっ
と唇を触れた。
額にキスをされた翡翠が、かぁ、と顔を赤らめと、志貴は手を離して優しく
告げた。それは、己の中の不安を押し殺すように、ゆっくりと。
「じゃぁ、行って来る。すぐに戻ってくるから――」
(To Be Continued....)
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