Prologue
生徒会室の椅子は素っ気ないものであり、その上に座る遠野秋葉はクッショ
ンの位置を僅かに直すと、そのまま腰掛け続けて机の上の生徒会報の原稿に向
かっていた。
全寮制のお嬢様学校の浅上女学院でも、生徒会室の備品は実用本位で簡素な
物ばかりであった。だが、それはそれでいい、と思う秋葉である。
遠野家の様なアンティーク家具ばかりが全てではない。全ては全ての然るべ
き選択があり、この生徒会室には肘掛けもないオフィス用の椅子とパイプ机が
然るべきものであるのだ。秋葉は、原稿にボールペンを走らせていたが、やが
て文末に至りペンを置くとその文章を読み返す。
中等部の生徒会所属であった秋葉は、そのまま高等部の生徒会にも書記に選
出されていた。来年の高等部生徒会長は確実とも言われているが、秋葉はそれ
を気にしていなかった。彼女を悩ませるのは、もっぱら学業ではなく同姓だが
血の繋がらない兄のことであったのだから――
秋葉は原稿をまとめると封筒に入れ、書類箱の中に置く。生徒会室には他に
人影はなく、自分が戸締まりをする必要を知り、秋葉は鞄を持って立ち上がる。
今は後期試験が終わり、年末を控えてのしばしの試験休みに入った夕方であ
り、生徒会室に溜まる者もない。秋葉は軽く伸びをすると、戸口の鍵を取って
部屋を出て、鞄片手に錠を下ろす。
生徒会室から鍵を返しに職員室に向かう間、行き交う人の姿も稀である。秋
葉は窓の外を眺めると、そこには見慣れた校舎と、暗い雲の垂れた空が目に映った。
冬の空は重苦しく、闇の中に灰色の雲が低く広がる。
――これは、帰り道に雪が降るかも
秋葉はそんなことを考えながら職員室に鍵を預けて部屋を出る。職員室の教
員達に如才なく別れの挨拶を交わし、たまにすれ違う同級生にも涼やかに挨拶
をする。見事なまでの優等生ぶりであり、これが学校での秋葉の姿であった。
もっとも、それ以上の秋葉の深い部分を知るのは元ルームメートであった蒼
香ぐらいしかいないのだが、彼女も秋葉に勝るとも劣らない優等生であり、冬
の女王とも言われる秋葉に輪を掛けたクールビューティである。
秋葉は腕時計で時間を確認すると、待たせている車に向かう。今日は特に習
い事や用事の類もなく、このまままっすぐ家に戻る予定であった。そんな秋葉
が中等部の前を通り過ぎると――
「あ、遠野先輩……」
聞き慣れた声が秋葉の耳に入り、秋葉はつと顔をそちらに向ける。
ショートカットで目がくりくりとした、小動物系の少女。服装はもちろん女
学院中等部の冬服。秋葉は涼しく微笑み声を掛ける。
「あら、瀬尾」
まったくその気はないのだが、秋葉の温度の低い声は瀬尾晶の背筋をびしっ
と正させる効果があった。見る間に自分の前で緊張する晶の様子に思わず苦笑
しかける秋葉に、あのあのあの、と口ごもる晶が何とか挨拶をしようとしていた。
「と、遠野先輩はお帰りですか?」
「ええ、今日はすぐに戻るつもりよ……貴女もこれから学寮でしょう?」
「はい、そうです。先輩はご自宅から通学されてますよね……うらや―――」
そこで、突然晶の声は途切れる。
異常に気が付いた秋葉が見守る前で、晶の目の焦点が一瞬飛び、目の焦点が
にわかに結ばなくなり遙か彼方を眺めるような眼となる。そして、言いかけた
言葉は口の中で凍り付いたように止まる。
「瀬尾?どうしたの?」
いきなり言葉を途切らせた晶に心配そうに秋葉は呼びかけるが、数秒ほど晶
の意識は飛んでいるように反応がない。秋葉がそんな晶の肩を掴もうかと手を
挙げ掛けたその時、ようやく晶の目の中に光が戻る。
「瀬尾?」
「……すいませんすいません!わたし、ぼーっとしてました!!」
目の前の秋葉の眉をひそめた不審そうな顔を認めた瞬間に、晶はコメツキバッ
タのようにぺこぺこと忙しなく頭を下げる。これが中等部の晶の妙な癖である
ことを秋葉は知っていたので、すぐに上げ掛けた手を下ろす。
この癖であるが、一度自宅を尋ねてきた際に秋葉の兄である志貴にはなにか
感じ入るものがあったらしい。晶の癖の事を口にすると、あれには訳がある……
と口にする志貴ではあったが、秋葉は一言言わずにいられなかった
「……瀬尾。その癖、早く治した方がいいわよ」
「すすす、すいません…わたし……」
「まぁ、私は戻りますので、終業式までごきげんよう」
秋葉がそうさらりと挨拶をして歩き出そうとすると、晶が秋葉を呼び止める。
その顔は――秋葉の後ろに不審な人影を見ているような不安に脅えた、緊張
した顔であった。秋葉はそんな晶に目を向けたが――
「と、遠野先輩……帰りの道に気を付けて下さい……」
そう、つっかえっつっかえ口にする晶に、秋葉はそっと笑う。
「変な娘。大丈夫です、私は車で家まで戻りますから。
それでは、また」
秋葉はくるりと晶に背中を向けると、校門の外に待たせてある黒塗りの大型
車に向かって歩き出す。後部座席を開き、秋葉を待つ運転手の姿が晶にも眼に
入る。
晶は、そんな秋葉に別れの挨拶をするのも忘れ、ただ黙って見守るだけであっ
た。やがて、車は秋葉を乗せて低い排気音を残して校門の彼方に走り去る。
それを黙って不安そうに見守るだけの晶であった。やがて、ひとひらの雪が
夜の闇を湛えた曇天の空から舞い降りる。
――ああ、遠野先輩……
晶は秋葉に言いたいことを伝えることが出来ずに、悔しいような悲しいよう
な心地のままで空しくその場で立ち尽くすのみであった。
なぜなら、彼女が見たのは――或る未来の光景であったのだから。
(To Be Continued....)
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