夢もなく志貴は昏々と眠り続けた。
 ただ、原油の海のような眠りの闇の中に沈む志貴は、そのまま目を覚ました
くないような心理の底にあった。秋葉が目の前であんな風に死ぬだなんて――
信じられない。
 ならば、いっそこのまま目覚めない方が……だが、心の中ではそんな消極的
で自堕落な欲望に対して抵抗の意志がある。

 ――翡翠に会わなくてはいけない。

「……志貴さま?」

 薄目を開けた志貴の視界の中に、不安のあまりに引きつった翡翠の顔を認め、
志貴は薄く瞬きした。ベッドの上の志貴に被さるようにして容態を確かめてい
る翡翠の恰好は、白を基調とした外出着であった。セーターの編み目をなんと
なく眺めてから、志貴は翡翠の顔に目を戻す。

 翡翠の横顔に外の日差しが差すのを見て、志貴はゆっくり口を開く

「……おはよう、翡翠……ここは、何処だ?」

 志貴が確認したのは慣れない枕と自分の上に被せられた掛布団、コンクリの
壁に塗られたクリーム色のペンキ、無愛想なアルミサッシとグリーンのカーテ
ン。それらを見とめてから、志貴は翡翠にゆっくりと尋ねる。
 翡翠は目を覚ました志貴に、ほっとした様子だった。胸に手を当ててほんの
少し目を閉じて胸を撫でると、いつものように背筋を伸ばして畏まって答える。

「こちらは、南杜総合病院の個室です。志貴さまは、昨晩こちらに運ばれました」

 道理で、と呟いて体を起こしかけた志貴であったが、改めて辺りの様子を眺
めて愕然とする。翡翠はふらつく志貴の身体を支えながら、硬く緊張した口調
で説明をはじめる。

「志貴さまは、県境の事故現場で倒れられていた所を保護されて、こちらで診
察と治療を……志貴さまが事故に巻き込まれたかと思い、心配いたしました」

 志貴はおそるおそる自分の身体を撫でてみると、胸の古傷以外に新しい傷は
感じ取れなかった。翡翠から眼鏡を受け取ると、鈍る頭で何とか言葉を紡ぎ出
そうとする。

「俺は無傷みたいだ……翡翠、わざわざ俺のために病院まで来てくれたのか」
「……はい。家の方は姉さんの任せてあります。姉さんが、私に志貴さまのお
世話をするようにと……」

 それは済まない、と口にして志貴は、ふつりと黙り込んだ。
 翡翠の言葉からすると、あの炎上する車の事故現場があったのは事実であるよ
うだ。志貴の意識の片隅では、あれは雪に迷った状態での幻覚だと信じたい所も
あったが、そのような逃げ口は用意されていないようだった。
 それは自動的に、あの車の中で――秋葉の命が失われていたことを意味している。

 己の手から奪われてしまった秋葉の存在に、志貴は呆然とする思いであった。
 あの、時には小煩くもあったが自分を慕ってくれた妹が、いなくなるとは――

「……志貴さま」

 翡翠の掛ける声も弱々しい。翡翠は俯いて凍った様な暗い顔をする志貴に話し
かけようとしたが、びくん、と身を震わせて言い止まる。翡翠がベッドの傍らに
立ち、志貴が身を起こしたまま黙り込んだまま、お互い何もできない時間が過ぎる。
 重い気鬱な空気の中を、志貴の声が低く響く。

「……すまない、翡翠。秋葉を連れて戻って来られなくて」
「いえ、志貴さま。志貴さまがご自分を責めることはございません」

 そう翡翠は言ってから、続く言葉がないことを知って口を閉ざしてしまう。
会話は続かず、志貴も翡翠も沈黙のままで病室の中で何とも言えない湿った思
いの中で沈むばかりであった。

 やがて、扉が外からノックされ、それに向かって翡翠が応対のために歩いて
いく。戸口で翡翠と誰かがしばし話し合っていたが、志貴はその話の内容に耳
を傾けようともしなかった。

 翡翠は医師の来訪を告げたが、志貴は黙って頷くばかりであった。やがて、
中年の男性医師が看護婦を従えて来て、志貴の傍らの椅子に座って調子を尋ね、
問診してくる。
 志貴はそれを上の空で応えながら、答えのない疑問の袋小路の中で意識は迷っ
ていた。悲痛な困惑の中で、志貴はただ考える。

 ――秋葉がいなくなって、俺はどうやって過ごせば良いんだ。

 己にとっての生涯の伴侶は、翡翠ではあった。だが、妹である秋葉もそれと
同じぐらい欠くことのできない存在であり、それが失われたとなると――あの
小言ですら言いようが無く懐かしい。

 志貴や翡翠は琥珀を失ったが、むしろ琥珀は琥珀で失われた方が幸せな苦痛
の記憶であった。その代わりに、今はあの七夜がいる……それが心の慰めであった。
 しかし、秋葉は――ぽっかりと穴を残していなくなってしまった。

 医師は志貴の様子を確かめていたが、ショックから抜け出せない様子を見て
慎重な面もちで頷いた。そして、しばらくその言葉を言い淀んでいたようであっ
たが、意を決したように話しかける。

「遠野くん。外に警察の方がいらっしゃっている……もし調子が優れないので
あればその旨を伝えるが、どう……」
「申し訳ございませんが、志貴さまはただいま……」
「……いや、いい、翡翠。通して欲しい」

 志貴は医師の言葉に反応して、口を開いた。警察であれば、秋葉の最期のこ
とを知っているだろう。いずれ逃げていてもそれを知らされるのであれば、今
のうちに知って置いた方がまだ耐えられるかも――いや、それでむしろ心も狂っ
てしまった方が楽だ。

 医師は、志貴の顔色を確かめる。蒼白で元気はないが、青い瞳に宿る意志が
明確であることを見ると、椅子から立ち上がり、入れ替わりで外に待つ刑事を
呼ぶように看護婦に伝える。
 看護婦が戸口に向かうのに遅れて、医師が立ち上がって志貴に無理はしない
ように、と告げて立ち上がる。

 翡翠はそれに一礼をし、志貴も頷く。

「志貴さま……私もお外しした方がよろしいのであれば……」
「……そうしてほしい、翡翠。もし何かあったらすぐに……」

 志貴はそこで言葉を止め、翡翠に頷き掛ける。

「ナイフですが、私がお預かりしておきます。当局の方がすでに見付けられた
のかも知れませんが……それでは失礼いたします」

 翡翠がそう一礼して立ち去ると、戸口で入れ替わりになってまだ若い、スー
ツ姿の男がやってくる。戸口で翡翠は彼に黙礼をし、彼は僅かに驚いたように
礼を返す。
 志貴は、その男の姿を確かめる。年は三十より前で、顔立ちは目のあたりに
かすかに頼りないような所があるが、それ以外は勤務中の警察官らしい緊張感
が漂っている。

「……うちの使用人が、ご迷惑をお掛けしましたか?」

 志貴の言葉に、刑事は驚いたようにいやいや、と答えを返す。
 志貴は、なんとか正気に戻ろうと努力しながら刑事の動きを目で追う。刑事
は自分を交通課の倉橋と名乗り、背広の胸のポケットから身分証明書を取り出
そうとするが、それを志貴は押しとどめた。

「刑事さん、その……秋葉は」

 そこまで口を開くのが、志貴の限界であった。あきは、の言葉が口から漏れ
た瞬間に、身体が冷たくなり、胸が締め付けられるように苦しみ、その後にど
のようにして死んだかを問うことはできなかった。
 死を間近に感じる体質なのに、秋葉の死に心の中で触れることができない――
苦く悲しくその皮肉に感じる志貴であった。

 倉橋は鞄から書類の入ったファイルを取り出しながら、その言葉を聞いてい
た。志貴の傍らの椅子に腰を下ろし、ファイルを開いてから――静かに告げる。

「遠野秋葉さんは……行方不明です」

(To Be Continued....)