時は聖夜を控えた夕べ。
三咲町の繁華街は、クリスマスを祝う人々に溢れていたが、丘の上の遠野家
の邸宅はひっそりと静まり返っていた。
夕暮れの長い影を刺す光に照らされた庭には、ぽつんと一本クリスマスツリー
が立っている。七夜が立てたものらしいが、あまりツリーらしいデコレーショ
ンはされていない。ただ、ツリーはツリーでも、作り物ではなく本物の樅の木
であったが。
三咲町は聖夜の賑やかな雰囲気に包まれていたが、この遠野家がその中で重苦
しい雰囲気を漂わせていたのには理由があった。
誰からともなく囁き出された噂が、遠野家にまつわるものであったのだから。
曰く、連続殺人事件の犯人とおぼしき白い女性が、遠野家の周囲に出没すると。
それは他愛のない噂であったが、だが徐々に町の中に染み通っていく。そし
て、さらに目端が効く者は別の事実も探り当てていった。
警察が動いている――何度も警察が遠野家を尋ねていった事と、遠野家の当
主が行方不明であること。そして遠野家の周りで警官が失踪していると言うこ
と。それに、病院から死体が消え去ったなどいう不吉な噂も重なっていた。
それらは、ピースの足りないパズルのような物であったが、残されたピース
の空白こそが人々の噂を駆り立てる、不正確と不確かさというエキスであった。
だが、この噂を暗示を使って流しているのは、シエルその人であった。
「……とまぁ、噂をいろいろ流しておきました。これで、ネロはここに引きつ
けられるはずですね、昼間から使い魔を放っているぐらいですから」
シエルは、そう言いながら志貴の服を脱がし、傍らの翡翠に渡す。
上半身剥き出しになった志貴は一瞬戸惑うが、やがて渋々とシエルに身体を
見せる。
シエルが化粧品の入ったポーチの中から、やけに不似合いなごつい容器のペ
イント顔料を取り出すのを志貴は不安げに見守りながら聞く。
「でも、実際にアルクェイドは居ないのに……」
「居なくても良いんです。向こうはそんなこと知ってます……これで挑発され
ている、ということには気が付くはずですし、矜持の高いネロ・カオスなら乗っ
てくるはずです」
シエルの指の間に筆が現れると、ペイントの顔料をつけて志貴の身体をなぞ
り出す。
筆先の冷たくくすぐったい感触におもわず身を捩って逃げたくなる志貴では
あったが、じっと我慢してシエルに書かせるに任せていた。
「なるほど……で、今夜来るというのは?」
「……今日から、庭に結界を張らせてもらいました。向こうは常にこちらを監
視している筈ですから、この変化に気が付くでしょう。もっとも、賭ですけど
も……」
ギリシア文字と図形の入り交じった模様をシエルは素早く書き付けてゆく。
志貴は、相変わらずも筆のくすぐったさに耐えながらもその様子を眺めていた。
志貴に背中を向かせ、同じ様に背中にも書き付けてながらシエルは続ける。
「なんと言っても、今夜はクリスマスイブですからね。聖節ゆえに決戦にはお
誂え向きでしょう」
「そういうものなんですか、先輩……」
そうです、と背中から頷く声を聞くと、志貴は黙ってシエルのしたいがまま
に任せていた。こうやって身体に書き付けている模様は、魔術的な文様であり
決戦に備えての呪的な防護だと言うシエルの話だった。
本当は入れ墨をする物であり、本業のエクソシストはびっしり細かい紋様を
刻むと言うが、さすがに志貴にそうするわけには行かないので、これは暫定的
な物であるという。
――しかし、先輩も物好きな……
背中に書かれる軽い筆遣いと、賛美歌のフレーズを鼻歌交じりに口ずさむ妙
に楽しげなシエルに志貴が感じているのは、そんな感情であった。戦いに関し
てシエルには消極的な所はなく、むしろ好戦的とも言えた。
七夜志貴が顕在化すれば、シエル先輩と相性いいだろうなぁ……などと適当
に考える志貴ではあった。
「じゃぁ遠野くん、ズボン脱いでください」
「えええっ!」
筆を止めたシエルにそう言われて、志貴は仰天して素っ頓狂な叫び声を上げる。
「だって、足にも書かないといけないんですから……あ、下まで全部脱がなく
てもいいですからね、そこまで脱がれちゃうと困っちゃいますから」
きゃー、と頬に手を当てて戯れるように恥ずかしがってみせるシエルを前に、
志貴はうろたえ傍らに控えている翡翠につい、目を走らせて助けを求める。
だが、翡翠はその視線を感じるや、深々と丁重に頭を下げて答えた。
「……志貴さま、私が御邪魔なようでしたら席を外しますが……」
「そ、そうじゃなくって……もう、先輩ったら強引なんだから……」
翡翠が当てにならないことを知ると、志貴は渋々といった風情でズボンを脱
ぎ、それを翡翠に手渡す。トランクス一枚の姿で、上半身はすでに模様だらけ
の不可思議な格好の志貴ではあったが、それにまた模様を書き付けていくシエ
ルがぼそっと呟く。
「……遠野くん、いい躯してますねー」
「先輩、そーいう言い方やめて……なんか、変な商売のシトみたい……」
志貴の妙な感想に、あはははー、と他愛なく笑って返すシエルと、何とも言
えない不明確な表情を浮かべる翡翠。翡翠と志貴が見守る中で、たちまち志貴
の躯はトランクスの下以外は模様だらけになる。
志貴は腕を掲げ、その模様に見入る。何が書いてあるのかを読める志貴では
ないが曰くありげな語句と模様を目で追う。
「……先輩、これ、落ちるの?」
模様を見ながらもっともな疑問を志貴は口にする。もし、油性マジックか何
かで書かれたようにしばらく落ちないのであれば、模様付きで人前に出るわけ
にも行かないので、外出も控えなくてはいけないのであろうから。
「お風呂に入れば落ちますよ。もっとも、ちゃんと洗わないと残りますけどね……
よし、これで完成」
シエルは筆を置き、満足そうにそう宣言する。
西洋版の耳無し芳一、と言った風情の志貴は、トランクス一枚で部屋の中に
立っているためにそろそろ寒さに震えはじめており、その宣告はありがたくも
あった。だが、しばらく乾かしてください――というシエルの注意に思わず暗
然となる。
志貴が手足を振って風に晒している間に、シエルは用意してあった麻袋から、
物騒な物を取り出して志貴に示してみせる。長細い棒状のもの。
「これ、遠野くんの得物ですね……ナイフだけじゃ心細いでしょうから、これ
を取り寄せました」
それは古式ゆかしい金象眼を施した金具のある、革の鞘と簡素な形状の護指
環と鍔のサーベルであった。シエルは柄を握るとすらり、と鞘を払う。
志貴は、部屋の中に現れ出た重い光沢を保つ刀身に思わず目を吸い寄せられ
る。鋼の肌にIC XC NIKAという刻印が彫り込んであるのを、志貴の目は見る。
「造りは古風ですけども、刀身は特殊ステンレス鋼ATS−34の削り出しで
す。さらに熱加工と聖別してあるので十分にこれで戦えるでしょう……」
「先輩、その……俺、サーベルなんか初めて使うんだけど」
「……大丈夫です、遠野くんなら本能的に使えるはずです」
どうにも根拠がない太鼓判を押すシエルに、志貴ははぁ、と頷いて鞘に収まっ
たサーベルを受け取る。ナイフなら持ったことがある志貴ではあったが、それと
比較にならない刀身を持つサーベルの重さを感じていた。その重さには、これか
ら迫る戦いへの心理的な圧迫も加わっている。
「じゃぁ、遠野くん……私もそろそろ準備してきます。あ、覗かないでくださいね」
そう朗らかに言うと、シエルは志貴と翡翠を残して部屋から出ていった。
志貴は、自分の目の前にいるのが翡翠だけになると、頭を振って自分の心か
ら不安を追い払おうとし、ふと翡翠に目を合わせる。
翡翠は無言であった。
志貴は、翡翠から服を受け取りながらそっと囁く。
「……変な事ばかり、巻き込んで済まない」
翡翠は、何も言わなかった。そもそも、この遠野邸を決戦の舞台に選んだと
きから翡翠と七夜には迷惑の掛けっぱなしであった。おまけに、シエルまで準
備のために遠野家に出入りしている。
さらに、シエルは物騒なモノを持ち込み、準備に余念がない。だが病院から
棺桶のようなものまで持ち出すのには、流石にどうかと思う志貴ではあった。
翡翠には、ほとんど顔を合わせているたびに何かしらの謝りの言葉を口にし
ている志貴であったが、謝らずにはいられないのがその心情であった。志貴に
服を渡しながら、翡翠は無言で志貴を見守る。
志貴は口を開けばまた謝りの言葉ばかりが出てくるような気がし、口を噤ん
で黙々と服を着込む。そして翡翠の用意してた革のジャンパーに袖を通し、着
心地を確かめると、眉に皺を寄せてなんと翡翠に言ったらいいのかをしばし思
い悩む。
そして、最後に諦めたように頭を振った。全ては、秋葉が帰ってきた後に、
ちゃんと言うことにしよう、と。
「志貴さま。是非ともご無事で……秋葉さまを……」
着替えの間にベッドの上に置かれたサーベルを差し出しながら、翡翠はそう
言い出して言葉に詰まる。唇を引き締め、目の端を緊張と不安のの為に細くす
る翡翠に、志貴はそっと手を伸ばした。
志貴の手が翡翠の頬に触れる。志貴は無言で顔を翡翠に寄せると――
志貴は唇を翡翠に合わせる。柔らかい翡翠の唇の、下に宿る血の熱さを感じ
ながら志貴は祈るような心地であった。
――もう一度、愛しい人の感触を俺は感じられるように、と
(To Be Continued....)
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