志貴が意識を取り戻した……というより、志貴の意識が記憶の中で明確なシー
クエンスを構成し始めたのは、深夜の志貴の寝室だった。
志貴は目を覚ましたままであったが、半ば朦朧としたままの状態であった。志
貴自身貧血になる事が多く、自分は貧血の状態でもうすぐ倒れる――と思いなが
ら、そのままの状態でだらだらと時間が経っていった。
目の前にシエルや翡翠、琥珀が目まぐるしく入れ替わるが、何が起こっている
のかがさっぱり分からない。やがて、自分の腕を見て包帯と点滴が刺さっている
のを確認したところで、ようやく何が起こっているのかがはっきりする。
「志貴さま、こんなに傷だらけで……」
目の前で甲斐甲斐しく看病しながら、七夜がそう志貴に話しかけるのを感じて、
志貴はようやく明瞭な意識を取り戻し、部屋の中に視線を彷徨わせる。
部屋の中に、ランダムな線が走るのを見て、ようやく志貴は今眼鏡を外してい
るのに気が付き、まだ動く腕を上げて眼鏡を取ろうとする。
「志貴さま、ご気分は……」
傍らに立っていた翡翠が、持ち上がった指にそっと志貴の眼鏡を渡す。志貴は、
目を閉じて眼鏡を着けると、ゆっくりと目を開いて傍らの翡翠の顔を見つめる。
翡翠の、今にも泣き崩れそうな顔で志貴を見つめていた。志貴は、何とか手を
上げて翡翠の頭を撫でようとするが、そこで今の自分がようやく、上半身裸で包
帯が巻かれている事に気が付く。
翡翠の柔らかい髪の感触を確かめながら、志貴はそっと呟く。
「秋葉が……見つかった」
だが、それに続く志貴の言葉はない。あの、ネロ・カオスとの戦いの中で見せ
つけられた衝撃的で、異様な光景を思い出してしまったからである。
ネロ・カオスの中に生えた秋葉の上半身。目を閉ざしたままの秋葉の貌。
秋葉が見つかった。だが、それ以上にどうしようもないこの現状――
志貴が唇を噛むの傍らで、翡翠と七夜が志貴の言葉に息をのむ。
「秋葉さまはどちらに……ご無事なのですか?」
七夜が夜風が志貴の体力を奪わないように、肩にガウンを掛ける手を止めて
尋ねる。志貴は、その問いに対して曖昧に呻くような答えるのみであった。
秋葉は、まだ死んでいない――あのネロの中にありながらも命脈を保ってい
る。そう、志貴には感じられていたが、あの異様なネロの中にあるのであれば、
まさに明日をも知れぬ命であるといっても過言ではないことも知る。
それに、志貴にはネロのことを二人に説明する気にはなれなかった。秋葉の
ことは大切だが、それ以上に二人を不安がらせたくはなかったのだから。
志貴は、自分の中でこの問題を抱え込んでしまおうとしていた。だが、既に
警察の人間がネロの犠牲となったのだから、事は大事になるだろう。それに、
志貴は覚えていた。
「……シエル先輩はどうしてるの?」
ネロとの戦いの間に割って入り、そして自分を遠野家まで連れ戻してくれた
シエル。
だが、そのシエルは志貴が知っている学校の先輩としてのものではなかった。
キリスト教の教会で見かけるような黒い修道衣と編み上げのブーツ、それに物
騒な黒い剣を、まるでお手玉でも投げるかのように易々と扱う、志貴には見た
こともないシエルの姿だった。
七夜はちら、と翡翠の顔を見ると、すこし姿勢を正して志貴に答える。
「シエルさまはお戻りになられました……夜分遅くに長居するのは礼を失する、
とおっしゃって……びっくりしました、血だらけの志貴さまをシエルさまを抱
えていらっしゃったんですから」
でも、シエルさまって力持ちですねー、あんなにひょいって志貴さまを持ち
上げるんですから。と七夜が感心したように続けて言う。志貴は、その言葉を
聞いてひどく失望する思いがある半面、何となく心の中で安堵も覚える。
あの、見慣れぬ姿と風情のシエルに会っても、今の志貴はどう接すればいい
のかが分からないのだから。
「ですが、シエルさまよりご伝言を預かっておりますが……」
「……先輩は、なんて?」
「えーっと、最近はいろいろ夜道も危ないので外出を控えるように、と。それ
に、志貴さまのお体のことですが……外傷は骨に達するものはないので安心し
て欲しい、と。
あ、これは私も確認しましたので……」
七夜がそう言うのを聞き、ふぅ、と志貴は溜息をつく。
――出歩くなと言われても、秋葉があんな事になっているのだから
傍らの翡翠はそんな志貴の思い詰めた表情を察していたが、声を掛けるをつ
い控えてしまう。翡翠にも、志貴の決心の程は分かるが、だからといってこの
ように傷ついて戻ってくるのは何よりも辛いことであった。
不安に翳る翡翠の横で、少し悪戯そうな顔の七夜が寄ってきて志貴の耳元に
口を寄せる。志貴が不思議に思って耳を傾けると……
「それと、志貴さまの傷は……翡翠ちゃんと《共感》すればすぐ治る、と……
それに、最後にシエルさまからの伝言で……」
不意に、志貴のプライベートの秘密に立ち入ってきたことを囁かれ、志貴は
心臓が飛び出る思いであった。翡翠との共感は、とりもなおさず二人の間の性
交渉を意味しており、まさかそこまでシエルに知られていたとは思わない志貴
は、文字通り仰天する。
七夜はにっこりと微笑んで、一言
「……遠野くんのえっち、と」
ネロに負った傷ではなく、心の打撃から志貴は声にならない呻きを漏らして
ベッドに倒れ込み、訳が分からないながらも何となくその発言の意は分かる翡
翠は、見る見るうちに真っ赤になって俯く。
一人、面白そうにはしゃぐ七夜が、うふふふふー、と意味ありげな笑いを漏
らしてお辞儀をした。
「あ、私は今日は失礼しますねー、志貴さまも翡翠ちゃんも、ごゆっくり」
今夜はお楽しみですねー、という言葉を残して、七夜はドアの向こうに止め
る間もなく去っていった。そうして、残される妙に気恥ずかしい志貴と翡翠の
二人。
お互い、目線を会わせよう魯擦るが、お互いの目を見る度につい顔を背けて
しまう。そして、どちらから言い出しだすともなく――
「翡翠、その――」
「志貴さま――」
そして、声が合わさった瞬間にまた黙り込んでしまう。
お互いに会話や公道のきっかけが掴めない志貴と翡翠であったが、勇気を出
して動き出したのは志貴の方であった。
志貴はゆっくり手を伸ばし、翡翠の白い手を握る。そっと志貴の指が触れた
瞬間に、翡翠の指はためらったが、すぐにその指を握り返す。
「今夜は――」
それ以上、志貴から漏れる言葉は無かった。傷負いの身体にも関わらず、志
貴は翡翠を抱き寄せる。翡翠は、志貴の胸の内に抱き寄せられ、消毒液の薫り
のする志貴の胸板にそっと手を添えた。二人はやっとのことで視線を合わせる
と――
そして、翌日。
あれだけあった傷が完治した志貴を眺めながらにやにや笑っている七夜を前
に、翡翠は真っ赤になって黙っているしかなかった事は言うまでもない。
七夜に笑われ翡翠に心配がられならも、志貴にはしなくてはいけないことが
あった。もちろんそれはある人間を訪ねることであり、それは言うまでもなく
――あの夜の謎の役柄を演じた、シエルである。
(To Be Continued....)
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