あれから蒼香先輩に見つかった私は、そのまま寮に引っ張られてお風呂に放りこまれ、泥水に濡れた制服を洗濯機に押しこむ等の作業をさせられた。本当はそれどころではなかったのだが、蒼香先輩は『びしょ濡れのままでうろつかれては困る。』と強引だったので、それにすっかり気圧されてしまった。
 そして、いつの間にか時刻は夜。
 私は、管理人室の窓口にある、この寮唯一の電話ボックスの前に来ていた。
「今度こそ・・・」
 財布を探って十円玉を取り出し、受話器をとる。電話番号は頭に入っているのでメモを見る必要はない。
 プルルルルプルルルルル・・・という、ありふれた電話の呼び出し音が単調に耳朶を打つ。
 一回、二回、三回・・・
 もどかしい。遠野先輩の家には使用人さんがいるそうだから、出てくれてもいいようなものなのに・・・
 十秒、二十秒、三十秒・・・
 遅い。
 ゾクリ、と背筋に悪寒が走る。喉が渇く。
不安が鎌首をもたげた。
ひょっとしたらあの未来はもう・・・
また思い出してしまう。
 胸に大きな穴を開け、夥しい鮮血を流しながら死んでいく遠野・・・
―――違う!!
 自分の想像を必死で否定する。が、思いとは裏腹に思考は悪い方向にばかり傾いていく。
 電話に出ないのも、既に全てが終わってしまったことの証明ではないかとさえ思えてしまう。  
 受話器を握る手に力が篭る。
―――お願い・・・出て!!
「はい。遠野ですが・・・」
「!」
 声が聞こえた。
 女の人の声だが、遠野先輩の声じゃない。多分、使用人さんだと思う。
「もしもし・・・?」
「あっ、はい。私、遠野秋葉先輩の後輩の瀬尾晶といいます!あの、秋葉先輩はいらっしゃいますか?」
「はい。秋葉様ですね。しばらくお待ちください。」
 コトリ、と机か何かに受話器を置く音がした後、声の主の女の人が『秋葉様〜〜秋葉様の後輩と仰る瀬尾晶様からお電話ですよ〜〜』と説明臭い声が微かに聞こえてきた。
 程なくして、遠野先輩がやって来た。
「瀬尾・・・何のよう?」
 遠野先輩の声はすごく疲れて、僅かに苛立ちを含んでいるようだった。ここ数日間の先輩はひどくぐったりとしていたが、今まで以上に辛そうな気がする。
「瀬尾、悪いけど今取り込んでるのよ。用件があるなら手短にお願い。」
 苛々とした口調。元々厳しい感じの声が一層きつく、ちょっとたじろいだ。
 けど、ここで尻込みをしてはいけない。
 伝えなければ、伝えなければ・・・
「あのですね、先輩。」
「何?」
「あの・・・」
 言葉が詰まった。
 あの・・・の後、私はどう言えばいいのだろう。
 今頃になって、とんでもないことに気づいてしまった。
 馬鹿だ。本当に馬鹿だ。
 伝えることばかり考えて、どうやったら遠野先輩に信じてもらえるのか、全然考えていなかった。 
「瀬尾、どうしたの?」
「あの・・・」
 言葉が詰まる。
 分からない。
 信じてもらう方法が分からない。
「どうしたの!?ハッキリしなさい!!」
 怖い。怒ってる。遠野先輩は分からないことや曖昧なことが大嫌いだ。
「あの・・・」
「何よ。さっきからあの・・・ばっかりじゃない・・・」
 付き合いきれないわ・・・と呟く声がした。
「あのですね・・・先輩。学校はですね・・・」
「ええ。学校がどうしたの・・・?」
「学校は・・・学校は・・・その、夜の学校は・・・危なくて・・・」
 馬鹿。何を言ってるんだ私は。
 こんなこと言っても分かるわけがない。全然意味不明!!
「ですから・・・夜の学校には行っちゃいけなくて、行ったらあの、危険で、死んじゃうかもしれなくて・・・」
 焦って頭が混乱している。出てくるのは言葉の断片ばかりで何が何だか私自身も分からなくなってきた。
「兎に角学校は―――」
「瀬尾。」
 くだらないと、切って捨てるような口調で遠野先輩は言った。
「言いたいことはもっと考えてから言いなさい。」
 その次の瞬間、ガチャンと叩きつけるような音がして電話を切られてしまった。
「待ってください!!」
 咄嗟に新しい十円玉を取り出し、電話番号を押す。
 諦めるわけにはいかなかった。今を逃したらもうチャンスは無い。
 それはつまり・・・
 何が何でも、伝えなければいけない。
 今度はかけてすぐに出た。
 だが・・・
「瀬尾!!いい加減にしなさい!!」  
 返ってきたのは怒気を含んだ声。
 そして、電話を切られてしまった。
 後に残ったのはプーー、プーー、という、機械音だけ。
 私は呆然とした。
 手から受話器が滑り落ちる。
 受話器は床に向かって落ちていくが、コードの長さが足りず、床のギリギリのところで軽く空中でバウンドした後、フラフラと宙ぶらりんになった。
 駄目だ。
 遠野先輩に伝えられない。
 このままじゃ危ないと分かっているけど、私がどれだけ言っても遠野先輩は信じてくれない。
 いや、それどころか耳を貸してくれさえしない。
 どうすればいいのだろう・・・?
 何も思いつかない。
 受話器から微かに聞えてくる機会音が、まるで私に敗北を宣告しているような気さえした。
 フラフラと、夢遊病者のように私はその場を後にした。
 どうしようもない絶望と、無力感を抱えたまま・・・


 翌日、校門で遠野先輩を待ってみたが、いつもの車でやってくる時間になっても来ず、朝礼の始まる時間になっても来なかった。
 授業になっても、私は昨日と同じく、遠野先輩のことで頭が一杯だった。
 今日に限って遠野先輩は時間通りに学校に来なかった。遅刻かも知れないが、休みかもしれない。
―――休み・・・
 ゾクリ、と背筋に冷たいものが走る。
 休みということは、学校に来ていないということ・・・
 それはつまり・・・
―――違う!!
 ともすればあの未来視の光景が蘇る。
 否定すればするほど、より鮮明に、より現実味を伴って、私に纏わりつく。
 違う・・・違う・・・
 何度も何度もそれが脳裏を過ぎる度に、私の意志は少しずつだけど、それがもう現実になっているのではないかという思いに侵食されていく気がした。
 どうにかしたい。どうにかしたいけどどうすれば良いのか分からない。
 あの未来視に出た学校を探したいが、問題の学校がどこにあるのか分からない。情報量が少なすぎる。
 私は何も出来ない。そんなことを証明するような事実だけが冷静に頭に浮かんできて腹が立つ。
 気がつくと、学校は終わり、夕焼けが教室を赤く染めていた。
 まるで昨日をそのままコピーしてきたかのよう・・・
 唯一違うのは校門を見ても遠野先輩の姿がないところ。
 寮に戻り、駄目もとでもう一度電話をかけた。
 誰も出ない。
 一旦受話器を置き、出てきた十円玉をもう一度入れてかけなおすが、結果は同じ。
何度繰り返しても誰も出てくれなかった。
 二十回か三十回くらいやったところで、受話器を電話に叩きつけた。
幾らやっても無駄と気付いてしまったからだ。
 そして、私に何もできないということを否応無しに分からされた気がした。 
―――どうして・・・どうして・・・
 上手くいかないのだろう。
 自分の眼が呪わしい。
 どうしてこんなに中途半端にしか視えないのか。
 もっと視えれば、もしかしたら・・・
 なのに、なのに、たったあれだけしか見えないんじゃ、何も出来ない・・・
 脱力する。
 辛い。どうしようもなく辛い。
 本当にこの眼は役に立たない。


 気がつくと、私は自分の部屋のベッドの中で眼を覚ました。
 どうやらあの後いつのまにか部屋に戻っていたらしいが、詳しくはまるで思い出せない。
 ルームメイトが心配そうな顔をしていたが、曖昧に対応して校舎に向かった。
 遠野先輩は今日も来なかった。生徒会に足を運ぶと、二日連続の遠野先輩の無断欠席が話題に上がっていた。
 そして、その次の日のことだった。
 突然の全校集会。
 訳も分からず呼び出された生徒達は好奇半分、不安半分で体育館に集まっていく。
 私は不安に胸を潰されそうな思いで生徒達の波に流されていった。
 生徒全員が集まったのを確認し、校長先生がゆっくりと壇上に上った。
 校長先生は、酷く辛そうな顔をしていた。
 血の気が引いた。
 校長先生が何を言い出すのか、分かってしまった。
 耳を塞ぐ。これから話す内容を聞きたくないから・・・
 だけど、完全に音をシャットアウトするなんて出来っこない。
「皆さんを呼んだのはこれから非常に悲しく、痛ましいことを伝えねばならないからです。」
 校長先生が口を開く。
 やめて!
「本当に悲しいことです。皆さんの多くも良く知り、お世話になった方もきっといらっしゃるでしょう・・・」
 ハンカチで涙を拭きながら喋る校長先生。
 これ以上、喋らないで欲しい。
 でも、私の思いとは裏腹に校長先生は言葉をやめない。
「彼女は我が校にとって誇りとも言うべき、生徒だった。清廉潔白で、文武に長け、非の打ち所もなく・・・」
 いつまでも本題に入らないに生徒達は口々に何を言っているんだろうというような話をし始める。
 そんな中で私だけが怯えていた。
 事実を告げられるのも怖いが、こうやっていつまでも事実を告げられないのもゆっくりと首を絞められていくような息苦しさを感じる。
 校長先生はその後も何分にも渡ってダラダラと喋り続けたが、そこでようやくネタが尽きたのか、意を決して言った。
 それを言わせたくなかった。
 聞いてしまえば嫌でも思い知らされるから・・・
 未来が訪れたこと。
 私は何も出来なかったこと。
 でも、校長先生は、とうとう、私が最も聞きたくなかったその事実を口にした。
「高等部一年、遠野秋葉さんが二日前、お亡くなりになりました。」


(To Be Continued....)