蒼い光。
揺れている。
ゆらゆらと。
ゆらゆらと。
泡。
水面から差し込む光に、銀色に輝いている。
それが、俺の目の前を踊るように浮き上がって行く。
音。
ごぼごぼと鈍くこもった音。
気泡の弾ける音。
ちょっと待て。
悠長に表現してる場合じゃないぞ?
苦しい。
息が、できない。
『……さてと、さっそく始めましょう』
シエル先輩は、そう言い終わるが早いが、右手を俺の後頭部に伸ばした。
そして、髪を鷲掴みにして、俺の頭を聖水盤に突っ込んだ。
つまり、水の中に。
胸のあたりまで水に浸かるほど。
深く。
苦しい。
こんな酷い洗礼なんて、聞いたこともない。
これでは、まるで拷問だ。
あれから何十秒経ったかわからない。
それでも、まだシエル先輩は俺の頭を水中に押し込み続ける。
肺が焼けるように熱い。
頭もがんがんする。
まさか、先輩は俺を殺す気か?
いや。
本当に殺す気なんじゃないか?
水面から顔を出そうとどんなにどんなにもがいても、俺の髪を掴んだシエル
先輩の手に篭められた力は緩まない。
やっぱり、本当に殺す気みたいだな。うん。
でも、どうしてそんなことをする必要がある?
俺の中に転生したロアはとっくに滅びたのに。
それなのに。なぜこんなことをする?
わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。
わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。
わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。
ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。
目の前が暗くなってきた。
――――――死ぬのかな?俺。
そう思った時、ぐいっと頭を引き上げられた。
「げほっ!げほっ!……こ、殺す気かっ!」
かろうじて、それだけ絶叫した。
「変なこと言わないでください!そんなことするわけないじゃないですか!」
シエル先輩は、あくまでも殺意を否認した。
「ど、どこが洗礼なんだよっ!こっちは本当に死ぬとこだったんだぞっ!」
「あ〜。はいはい。ようするに、目の前が真っ暗になったんですね?」
呑気なセリフに思わず目を丸くしながら、肩越しに先輩を振り返った。
先輩は、笑顔で説明を加える。
「遠野くん、安心してください。あれは酸欠でそうなるんじゃないんですよ。
あれはですね、肺に溜まった炭酸ガスの仕業なんです」
『炭酸ガスの仕業』
この状況では、それは『ヤツら(たぶんグレイ)の仕業だ』と言われたのと
同じくらい非現実的に聞こえた。
「…………あ?」
思わずあんぐり口を開けた俺にシエル先輩は、わかってもらえましたかっ!
とでも言うように、大きくうなずいた。
「これが、わたしたち寄りの洗礼なんです」
そして。
恐ろしいセリフをさらりと口にする。
「はい。もう一度」
「えっ……!」
俺が反応する前に、再び水中に頭を押し込まれていた。
条件は、さっきより悪い。
なにしろ、まだ呼吸も整っていなかったんだから。
すぐに肺が爆発しそうになった。
炭酸ガスの仕業でもヤツら(たぶんグレイ)の仕業でもどっちでもいいけど
とにかく目の前が暗くなってきた。
このままでは、本当に死んでしまう。
――――と、遠野志貴は思った。
この水さえなければ。
そう。
この、水さえなければ……
半ば無意識のうちに、右手が制服のポケットに向かって動いていた。
ナイフを抜き出すと、両手を水の中に突っ込んだ。
左手でメガネを毟り取る。
ずきん。
目が。そして頭の奥が激しく痛んだ。
それでも、聖水盤の『線』を凝視する。
ぼやけた視界の中、『線』だけがくっきりと浮かび上がる。
メガネのフレームを咥え、両手でもがくようにしてナイフの刃を開いた。
ナイフを握った右手を伸ばし、聖水盤の底に走る『線』を狙って――――
斬りつけた。
いや。
斬りつけようとした。
届かなかった。
聖水盤は、思っていたよりもずっと深さがあった。
精一杯腕を伸ばしても、ナイフの刃は虚しく水をかき回すだけだった。
チクショウ!
左手で聖水盤の縁を掴み、思い切り深く、腰のあたりまで水中に潜らせた。
そして、再びナイフを握った右手を伸ばす。
今度こそ、ナイフは聖水盤の底に走る『線』に届いた。
『線』に沿って、分厚い大理石にナイフを通す。
聖水盤の底が抜け、どっと水が溢れ出す。
次の瞬間、水流にぶちのめされて床に転がっていた。
とっさにナイフを放り出し、両手でメガネをかばう。
床に転がった拍子に身体中をぶつけたが、気になんかしていられなかった。
とにかく息をする方が先だ。
ごろんと一回転してうつ伏せになると、必死で酸素を貪る。
「と、遠野くん!なんてことするんですか貴方は!」
シエル先輩が、顔をくっつけんばかりにして叫んだ。
全身ずぶ濡れの俺とは違い、先輩の法衣はほとんど濡れていない。
どうやら、尻餅をついただけで済んだらしい。
「それはこっ……ぐっ!」
怒鳴り返そうとしたとたん、激しくむせ返った。
ひとしきりゲホゲホと咳き込んでから、やっとのことで言い返す。
「それはこっちのセリフだよ!」
「冗談じゃありませんっ!まだ秘儀が済んでないんですよ!このままじゃ…」
シエル先輩のセリフを、冷ややかな声が遮った。
「そのままだと、どうなるっていうのかしらね。シエル」
メガネをかけ直しながら顔を上げた。
いつの間にか大きく開かれていた礼拝堂の扉。
そこに、アルクェイドが腕組みして寄りかかっていた。
ここからでは完全な逆光なのに、険しい光をたたえた赤い瞳が見える。
「……今度は抜け駆けか」
相変わらず扉に寄りかかったまま、アルクェイドが口を開いた。
なんか、ものすごく不機嫌そうだ。
「芸がないというより性根が腐っているみたいね。あなたは」
シエル先輩がゆっくりと身を起こした。
鋭い視線をアルクェイドに向けている。
「貴方のような化け物に他人の性格をどうこう語られるのは不愉快です。
それから、どうなろうと貴方には関係のない話です。
秘儀が完結してしまえば貴方は遠野くんに一切干渉できなくなるんですから
貴方に関係のある話になることは未来永劫ありません」
なんだって?
アルクェイドが俺に一切干渉できなくなる?
シエル先輩がやろうとしたのは、そういう秘儀だったのか?
俺の目を治すのではなく?
「先輩、どういうことだよ、それって?」
「えっ……」
シエル先輩が、ぎく、と固まった。
「先輩の言ってた秘儀って俺の目を治すための物じゃなくて、アルクェイドが
近付けないようにするための物だってことなのか?」
「…………はぁ」
先輩は、肩を落としてため息をついた。
「ばれちゃ仕方ありませんね」
今度は、打って変わってにっこり笑う。
「はい。嘘つきました。
秘儀というのは、遠野くんに祝福を施して例えばそこにいるようなアーパー
吸血鬼が遠野くんに近づこうとしても跳ね返せるようにするためでした」
「無駄よ」
扉から離れつつ、アルクェイドは一言で斬り捨てた。
そして、礼拝堂に入り込んだ鳩をよけながら、こちらに歩き出した。
「忘れたの?志貴はわたしの血を飲んでるのよ。
ようするに、わたしの影響下にあるの。もっといえば、それはわたしのよ。
いくら祝福なんかしても効果はないわよ」
『それはわたしのよ』
それ、イコール、遠野志貴。
あの、アルクェイドさん?
物扱いっすか、俺?
「ふふん。この秘儀はこれまでの物とは違います」
シエル先輩が余裕たっぷりに言い返した。
「これは、死徒が自らに施されるのを恐れて秘匿していた祝福儀礼です。
つまり、貴方の知らない、ね」
だが、それを聞いても、アルクェイドはちっとも動じなかった。
「そう?ルーンやカバラあたりの秘術には抗体耐性が出来てるからわたしには
効かないし、抗体耐性が出来ていないモノ……
わたしがまだ経験したことのない魔術っていえば、この国の古神道か南米の
秘法くらいのものよ?
それで?あなたのいう秘儀とやらは、どこで拾ってきたわけ?」
俺はなんとなくシエル先輩の方を振り返った。
「……『東欧のある国』って言ってたっけ、先輩?」
「……あのねえ」
半ばあきれたようなアルクェイドの声。
「ヴラド・ド・テペシュ、吸血鬼ドラキュラがどこの出身だったか忘れたの?
東欧こそが吸血鬼の神祖を生んだ土地なのよ?
それだけに、東欧で考案された吸血鬼封じの秘術も数多いけど。あいにく、
それはわたしには効かないわよ。
わたしが知らない秘儀じゃなくてあなたたち教会の人間が忘れていた秘儀の
間違いでしょ」
「…………」
シエル先輩は答えなかった。
口惜しそうに唇を噛んでアルクェイドを睨み据えている。
どうやら図星だったようだ。
つかつかと歩いてきたアルクェイドが、俺のすぐ横で足を止めた。
ぱかん。
いきなり後頭部を張り倒された。
「……なにすんだよ。いきなり」
アルクェイドは、むっとした顔で俺を見下ろしている。
「志貴が約束を破ったからよ」
「おまえが約束を破ったからじゃないか」
後頭部を撫でながら、鸚鵡返しに言い返した。
「試験が終わっても現れなかっただろ。だから……」
「ふうん。そういうことなんだ」
アルクェイドが低い声で呟いた。
冷ややかな目をシエル先輩に向ける。
「わたしの部屋のポストに、志貴の名前で『公園で待ってろ』っていうメモが
入れてあったのよ。そこでいつまで待っても志貴がこないから、変だと思って
志貴のにおいを頼りに追ってきたら、ここに着いたってわけ。
つまり、あのメモはあなたの小細工だったのね。シエル」
つまり、アルクェイドが学校に現れなかったのはシエル先輩がそう仕組んだ
からで、それなのに、シエル先輩は素知らぬ顔で俺の前に現れたわけで。
「あの。シエル先輩?……なんで、そんなことを?」
「そんなの決まってるじゃないですかっ。秘儀が済むまでアルクェイドに邪魔
されないためです。化け物相手に手段を選んでなどいられません」
シエル先輩はしれっとした顔で答えた。
「どうあっても遠野くんに洗礼を受けてもらう必要がありましたから」
「必要って……よく考えたら、俺に秘儀を施すのって先輩の一存なんでしょ?
だったら別に洗礼なんかしなくたってよかったはずじゃないか」
そう言ったとたん、シエル先輩がぷんぷん怒り出した。
「ちっともよくありません!
遠野くんに洗礼を受けてもらったのは、秘儀のためだけではないんです。
洗礼を受けてもらったのには、もっと大事な理由があるんですよ。
わからないんですか!」
「……わからないから聞いてるんだけど」
シエル先輩は、俺の目の前にびしっと指をつきつけた。
「いいですか!洗礼はキリスト教徒として認められるための儀式です。
そして、キリスト教徒でないと教会では執り行えない儀式があるんです!」
「……だから、秘儀でしょ?でも、そんなの黙っとけばわからないのに……」
「――――ぎろり」
シエル先輩に物凄い目で睨まれて、慌てて口をつぐんだ。
埋葬機関の機密保持は、そんな甘い物ではないらしい。
恐る恐る確認する。
「……そういう問題じゃ、ないん、です、ね?」
シエル先輩は、はぁ、と気が抜けたような声を漏らした。
「もういいです。遠野くんにもわかるように説明してあげます。
つまりですね、遠野くんにもキリスト教徒になってもらわないと教会で式が
挙げられないんです。そのための洗礼でもあったんです。わかりましたか?」
「式って……え?」
「ああもう!なんでそんなこともわからないんですかこの唐変木はー!」
シエル先輩は、むっきー、とか叫びながら両手で髪をかきむしった。
「結婚式ですっ!結婚式っ!」
思わず、ぽかんと口を開けて突っ立っていた。
我ながら間抜けな顔をしていたと思う。
アルクェイドが、やれやれ、といった表情を浮かべた。
「あきれた。そんな形式で志貴を縛ろうだなんて。
あなたよっぽど自分に自信がないのね」
「い、いけませんかっ!遠野くんはわたしとは、その、恋人同士なんですよ。
それなのに、結婚を考えちゃいけませんか。
そんな決まりはないでしょうっ!」
耳まで真っ赤にして叫び返すシエル先輩。
そうまでして恋人同士と力説してもらうと、こっちもちょっと照れる。
「そうね。確かにそんな決まりはないわね」
トウトツに、首にアルクェイドの腕が巻きついた。
「でも、これはわたしのよ。誰にも渡さないんだから」
ぐいっと引き寄せられる。
顔に押しつけられるアルクェイドの大きな胸の感触が気持ちい……
じゃなくて。
いい香りがする……
でもなくて。
えーと、やっぱり物扱いっすか、俺?
がちゃり。
硬質な金属音が、俺を現実に引き戻した。
アルクェイドの胸越しに――――
感情のない目でこちらを見ているシエル先輩の姿。
きん、と微かな音がして、その手に何本もの長い釘のような剣が現れる。
「遠野くんを放しなさい。さもないと……」
「さもないと、どうするっていうの」
にやりと挑発的に笑うと、アルクェイドは俺を、ぎう、と抱き寄せた。
ぱふっと胸の谷間に顔が埋まる。
はう。ふかふかする……
いや待て。今はそれどころじゃない!
慌ててアルクェイドの胸から顔を上げた。
「ちょ、ちょっと待て」
「志貴は黙ってて」
「遠野くんは黙っててください」
全く同時に、ぴしゃりと叩きつけるような返事があった。
そっと、アルクェイドが俺を突き放した。
「下がってて、志貴」
言いながらも、視線はシエル先輩に据えたままだ。
「あなたがその気なら、いいわよ。殺してあげる。
同じ人間を二度も殺すなんて滅多にあることじゃないし」
愉しそうに笑うアルクェイドに対し、シエル先輩は能面のような表情だ。
睨み合う二人の周囲に、凄まじい殺気が満ちる。
瞬間。
まるで電気にでも撃たれたかのように、開けっぱなしの扉から礼拝堂の中に
入り込んでいた鳩の群れが一斉に飛び立った。
しかし。
二人とも、逃げ場を求めてぱたぱた飛び回る鳩には目もくれようとしない。
アルクェイドがじりじりと間合いを詰めにかかる。
シエル先輩はその場を動かず、右手の剣を低く構えている。
すぐにも、殺し合いが始まる。
「やめろ!ふたりとも……!」
怒鳴りながら二人の間に割って入った。
その瞬間。
その場に凍りついていた。
覗き込んでしまったせいだ。
金色に輝く瞳を。
アルクェイドの、魅了の魔眼を。
「や……やめ……ア、ア………」
声が出ない。
息ができない。
動けない。
まるで脳髄を引き抜かれるような痛み。
全身から、どっと冷や汗が噴き出す。
どくんどくんと脈拍が速くなるのがわかる。
「邪魔よ。志貴」
アルクェイドの声。
耳からだけでなく、頭の中にまでがんがん響きわたる。
「志貴があくまでシエルの肩を持つというのなら――――
わたしの邪魔をするのなら、あなたまで殺さなければならなくなる。
でも、そんなことはしたくない」
最後の部分だけ、アルクェイドの声のトーンが変わった。
だが、それもほんのわずかな差だった。
「邪魔です。遠野くん。そこにいられると、貴方まで殺すしかなくなります」
反対側から、シエル先輩の声。
こちらは、見事に感情という物が欠落していた。
「シ…エル……」
ぎりぎりと首をひねって、先輩の方を向いた。
先輩は、俺の方など見ていなかった。
感情のない目でアルクェイドを見ていた。
『メガネをしてないな』
どういうわけか、頭に浮かんだのはそんなくだらないことだった。
どういうわけか、それがどうしても許せないことのように感じた。
そして、馴染みのない、どす黒い衝動が、湧き上がってきた。
「……な、なんだ?」
「……ちょっと、志貴?どうかしたの?」
《つづく》
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