メガネをしてない先輩なんて先輩じゃないっ

                                      からたろー

 チャイムが鳴った。

 かちゃかちゃと鉛筆を置く音が教室のそこここから響きだす。
 教壇の上から、先生が試験の終了を告げる。

「……やめ」
 
 後ろの席から答案用紙が送られて来る。
 そこに自分の答案を重ね、前に送る。

 期末試験が、終わった。

 それまで静まり返っていた教室に活気が戻ってくる。
 それはそうだろう。期末試験が終わったわけで。
 もうすぐ冬休みに突入するんだから。
 だが……
 
「はあぁぁぁ……」

 思わず、長いため息が漏れた。
 そのとたん。
 騒がしい教室の中で、とりわけ騒がしい友人がやってきた。

「わははは!どうした遠野!そんなにできが悪かったのか!」

 有彦が、げらげら笑いながら俺の肩をばしばし叩いた。

「違うって」
「なんだ。違うのか」

 有彦は思い切りつまらなそうな表情になった。

 冬休みに入れば、ずっと家にいることになる。
 ただでさえアルクェイドとシエル先輩が今にも殺し合いを始めかねないのに、
秋葉はこの2人と破滅的なまでに反りが合わない。
 これまでなら、学校という逃げ場があったのに、冬休みではそれすらない。
 放っておけば、なにが起こるかわからない……いや。大体見当がつく。
 そうならないよう、間に入った遠野志貴が仲裁の労を取る必要がある。
 つまり、この俺が。

「あのな遠野、可愛い女の子と可愛い先輩と可愛い妹がだぞ、おまえを巡って
争ってるというのにちっとも嬉しそうじゃないな。そんなことではダメだぞ」

 まるでこっちの考えを読んだかのように、有彦が言った。
 はあぁぁぁ、と、再び長いため息が漏れた。

「……争うとかそういうレベルじゃないんだよ。あの3人は……」

 適当な言葉を求めて、視線を宙に彷徨わせる。

「【三大怪獣大決戦】ほとんどそういう感じなんだよ。嬉しいか?それが?」

 言い終わるか言い終わらないかという絶妙のタイミングで、背後からかつ、
と聞き覚えのある靴音が響いた。
 そして、聞き覚えのある声が。

「……遠野くん。だれが怪獣なんですか」

 椅子に座ったまま、ぎぎぎ、とぎこちなく首を回して振り向く。

「――――――ぎろり」

 シエル先輩が、仇を見るような目で俺を睨んでいた。
「それどころか遠野ときたら、さっきまでもっと凄いことを……」
 ぷぷぷと笑いつつ、有彦があることないことシエル先輩に吹き込み始めた。

「――――ええっ!そうなんですかっ!」

 シエル先輩は律儀に顔を赤らめて驚いている。
 こういうところが年上と思えないほど可愛いんだが、俺についての嘘八百を
いちいち鵜呑みにされてはたまらない。

 とりあえず、話題を変えることにした。

「ところでシエル先輩、今日はどうしたんですか?」

 シエル先輩が、これまでとは打って変わって笑顔になった。

「はい。今日は遠野くんとお出かけしようと思いまして」
「え…………」

 今日はまずい。

 期末試験が終わったら、まずアルクェイドと遊ぶと約束させられている。
 約束を破ったら……
 あいつのことだ。
 俺の首を引っこ抜いてやる、くらいのことは言うに違いない。
 いや。言うだけならともかく、本当に実行しかねない。
 首を引っこ抜かれるのは、きっと物凄く痛い。

「あの、先輩……」

 言いかけて、思わず言葉を呑み込んだ。
 にこにこ笑いながら、笑っていない目で、シエル先輩が俺を見ていた。

 忘れていた。いや。忘れてはいなかったが、改めて思い知った。
 この人も、実は怖い人だった。

「遠野くん、まさか、わたしとお出かけするのが嫌なんですか?」

 泣きそうな顔で、シエル先輩が詰め寄ってきた。
 慌てて手を振って、首もぶんぶん振って否定する。

「そうじゃなくて!先輩が誘いに来てくれたのは嬉しいんだけどさ……
 でも、今日は、ア……」
「ア、なんですか?」

 とっさに口をつぐんだ俺に、シエル先輩がにこやかに聞き返してくる。
 もちろん、目だけは笑っていない。
 仕方ない。素直に白状しよう。

「今日は、その、アルクェイドと遊びに行くって約束しちゃったんですよ。
 だから……先輩には悪いんだけど……」
「なんだ。そうだったんですか」

 先輩が、あっさりとうなずいた。 あれ?てっきり怒ると思ったんだけど。
 アルクェイドが相手なのに、シエル先輩がこんなにあっさり引き下がる?
 珍しいこともあるもんだ。
 普段はアルクェイドに対抗意識を剥き出しにするのに。
 それをアルクェイドにからかわれて、むっきー、とか言ってるのに。
 そう思ったとたん、シエル先輩は不思議そうな表情で左右を見回した。

「でも、問題のアーパー吸血鬼の姿がどこにも見当たりませんけど?」

 確かに。
 アルクェイドのことだ、普通なら試験の終わりのチャイムが鳴る前に中庭に
やってきて、試験中だろうとお構いなしに、にこにこ笑いながらこっちに手を
振っているはずだ。そして、こっちが手を振り返すまでやめないだろう。
 試験中だからって無視でもしたら、あとで嫌味のひとつも言われるはずだ。
 それなのに、試験が終わっても現れないなんて、変だ。

 シエル先輩が肩をすくめて、ふっと脱力したように笑う。

「あのアーパー吸血鬼のことですから、遠野くんと約束したこともすーっかり
忘れて、どこかをほっつき歩いているんじゃないですかー?」

 あり得る。
 あいつは猫みたいなところがあるから。
 試験が終わったらどこかに遊びに連れて行けと言ったのも、単なる気まぐれ
だったのかもしれない。
 でなければ――――
 ふらっとひとりでどこかに遊びに行っちまったのかもしれない。

「……すっぽかされちゃったみたいですね」

 シエル先輩が気の毒そうに結論を述べた。
 すかさず、有彦がシエル先輩の横に肩を並べながら声をかける。

「先輩先輩。だったら俺と遊びに行こうよ」

 有彦は、これ以上はないってくらい人の悪い笑顔を俺に向けた。

「わはははは。気の毒にな遠野。俺は先輩と遊びに行くから、おまえはそこで
忠犬ハチ公のようにいつまでも待っていたまえ」
「はあぁぁぁぁ……」

 思わず、大きなため息が出た。
 念のためアルクェイドを待ってみようかとも思ったがハチ公呼ばわりされて
気が変わった。
 ゆらり、と立ち上がる。

「……俺も帰る」
「あ。そうですか?」

 シエル先輩が、ぱっと明るい顔になって、両手をぽんと打った。

「だったら遠野くん、わたしにつきあって下さい」

 先輩はくるりと横を向き、有彦の顔を見る。

「実はわたし、遠野くんに用があったんですよ。ですから遠野くんがこられる
ということであれば乾くんとは遊びに行けないんですよ。ごめんなさいね」
「いいんですよ先輩。俺のことなんか気にしなくて」

 有彦はニヒルに笑いながら余裕たっぷりに応じた。
 次の瞬間、物凄くひがみっぽい顔でこっちを見る。

「恨むぞ遠野。何でおまえばっかり……せめて秋葉ちゃんに紹介しろよな」
「それだけは断る。おまえを弟と呼ぶ気はない」

 有彦の目をみつめながら、きっぱりと答えた。

「友達甲斐のないやつめ。とっとと行ってしまえ」

 有彦がしっしっと追い払うように手を振った。

 有彦の恨めしげな視線に送られて、俺は先輩と教室を後にした。


 校門のところまできた。

 普段なら、ここでシエル先輩とはお別れだ。
 なにしろ、帰る方向が正反対なんだから仕方がない。

「遠野くん、こっちですよ」

 シエル先輩が俺の腕を取りながら言った。

「ところで、どこに行くんですか?」
「はい。教会です」

 シエル先輩はにっこり笑って答えると、俺の手を引いて歩き出した。
 心なしか、弾むような足取りだ。

「それで、先輩の用って、なんです?」
「歩きながら説明しますね」

 シエル先輩は、真顔に戻って答えた。


「用というのは、遠野くんの目のことなんですよ」

 シエル先輩は、前を向いたまま話し始めた。
「俺の……?」
「はい」

 話が見えない。

「……それが、なにか?」
「遠野くん、身体弱いですよね」

 シエル先輩は、相変わらず前を向いたままだ。
 一方、話の内容は、相変わらずあさっての方向を向いたままだ。

「……確かに身体は弱いけどさ。それとこれがなんの関係があるのさ?」

 言ってしまってから気が付いた。確かに、関係があった。
 まるで心を読んだみたいに、シエル先輩が切り返す。

「本当は、遠野くんもわかっているんでしょう?」
「う……」
「あらゆる物の『死』を見てしまうことに、普通の人間は耐えられません。
 人間は、そういうことをするようにはできていません。
 神経がおかしくなっちゃいます。
 それに引っ張られて、身体まで変になっちゃいます」

 シエル先輩は言葉を切ると、くるりと首を回してこっちを見た。

「そうですよね?」

 それは、質問ではなかった。
 単なる確認だ。

「……うん。だから、この眼鏡で『線』が見えないようにしてる」

 眼鏡のレンズを指先でつつきながら答えた。

「だから、大丈夫だよ。俺」
「嘘です」

 言い終わる前に、シエル先輩に言い返された。

「…………」

 シエル先輩は、じっと俺の顔を睨んでいる。
 仕方ない。

「……あんまり大丈夫じゃないのかもしれないけど、もう慣れたよ」

 正直なところを答えた。

「遠野くんのことだから、そう言うだろうと思いました」

 シエル先輩はあきれた様子で肩をすくめた。

「……それで、用っていうのは?」

 改めて聞き直した。

「ですから、遠野くんの目を治すことです」

 シエル先輩は、こともなげに答えた。

「正確には、封印する、と言うべきでしょうが」
「ええっ!」
「きゃっ!」

 思わず、俺はシエル先輩の両肩を掴んでこちらを向かせていた。
 先輩の悲鳴で、はっと我に返り、慌てて手を離す。

「……ごめん。びっくりしたから、つい」
「わ、わたしもびっくりしましたっ!」

 シエル先輩の顔は真っ赤だ。

「……気持ちはわかりますけど、落ち着いて聞いてくださいね」
「ごめん……」

 落ち着け。
 冷静になれ。

 その時、ふと、ある記憶が蘇ってきた。

「……あれ?」

 変だぞ?
 以前、そのことを法王庁まで調べに行ったシエル先輩は……
 そんな方法はないとわかったからと、すぐに戻ってきたはずだ。
 ひょっとして、俺をからかっているのか?

 慎重に訊ねてみる。

「先輩さ、前に、そんな方法はないって……言ってたよね?」
「はい。あの時は、そうでした」

 シエル先輩はあっさりとうなずいた。

「あの時は?」
「はい」

 もう一度うなずくと、先輩が説明を始めた。

「確かに、あの時はどうすることもできませんでした。
 でも、つい先日、埋葬機関が東欧のある国で死徒を封印した時、彼の城から
多数の古文書が出てきたんです。
 その中に、遠野くんそっくりな力を持つ子供に関する記述があったんです。
 ありとあらゆる物を、なまくらな剣で斬ってしまう子供のことです」

 どくん。

 一瞬。
 心臓が停まった。

 直死の魔眼。
 こんな不条理な目をした人間が、俺以外にもいたなんて。

「そ、それで……」

 かろうじて声を絞り出して、先を促した。

「その子供ですか?遠野くんと同じように、何度も死にかけたそうです。
 その子がただの子供ならそれで終わりだったはずですが、たまたまその子は
領主の世継ぎでした。
 そのため、なんとかその子を生き永らえさせる必要があったわけですね」

 先輩は、ふうと息をつくと、いきなり結末を言う。

「そこで、高名な修道士が呼ばれ、秘儀によって彼の能力を封じました」
「ど、どうやって!」
「もちろん、秘密ですよ」

 シエル先輩は、ふっと薄く笑いながら両手を広げてみせた。

「な……っ!」
「誰にも話せないから、秘儀って言うんですよ?
 もっともあんまり秘密にしたせいで、問題の秘儀がどんな物だったのかまで
忘れられちゃったわけですけどねー」
 
 あははは。
 シエル先輩は、明るく笑い出した。
 あいにく、こっちには笑う余裕はなかった。
 シエル先輩の両肩を掴んで、がくがく揺さぶりながら訊ねる。

「そそそ、それで?」
「落ち着いてください。遠野くん。物事には順番があるんですよ」

 そう言って、シエル先輩はそっと俺の手を引き剥がした。

「いいですか」

 先輩が、険しい表情になって俺を見た。

「教会に伝わる秘儀は、もちろん門外不出です。
 本来なら、遠野くんに話すことだって禁忌に触れるんです。なにしろ、遠野
くんは異教徒なんですから。
 もし今ここに監視役がいて話を聞いていたら、わたしの立場もまずいことに
なりますけど、遠野くんなんかもっと危ないんですよ?」
 
 異教徒に人権なんかない、ということだ。
 つまり、秘密を知ったと知れたら、消されるってこと。

「そういう話は、前にも聞いた覚えがあるけど」
「ですから、まず遠野くんには洗礼を受けてもらう必要があるんです」

 シエル先輩が歩き始めた。

「そうすれば、異教徒ではない、という扱いになりますから、秘儀を施しても
わたしが法王庁の偉い人から文句を言われないで済むわけです」
「ちょっと待ってよ!」

 慌てて先輩を呼び止めた。

「前に、この街には秘儀を行える聖堂はないって言ってたよね?
 先輩たち寄りの洗礼のできる聖堂もないって……」
「今はありません。でも、何年か前まではあったんです。そこへ行きます」
「え?」
「街外れに、古い教会があります。
 司祭殿は何年も前に本国に帰国されたので、もう誰もいませんが……
 建物は残っているんです。
 今回のことはわたしの一存ですから、建物さえ使えれば大丈夫なんです。
 古文書にあった秘儀の手順は諳んじてます。大丈夫。わたしにもできます」

 シエル先輩は、それだけ言うと歩調を速めた。


 狭い道を、シエル先輩はずんずん歩いて行く。
 行き交う人もなく、道の左右も原っぱか雑木林ばかり。
 この街にこんなところがあったのか、という感じだ。


 やがて、古ぼけた教会の前で、先輩が立ち止まった。
 傾いた鉄の門を押し開けながら、こっちを振り返る。

「ここです」
「…………」

 庭は、いや。教会全体が、荒れ放題だった。
 もちろん、庭に人の気配はない。鳩の群れがくるくると鳴きながら土を嘴で
つついているだけ。
 礼拝堂の壁は薄汚れ、扉のペンキはあちこち剥げちょろけている。
 横手の司祭館のガラスは埃で白く曇り、大きなヒビまで入っている。
 もう何年も使われていないというのは、どうやら本当のようだ。
 こんなところで、先輩は一体どうやって俺の目を治す気なんだろう?

「……先輩?」
「はい。なんでしょう?」

 生真面目な表情で訊き返すシエル先輩を見ると、冗談とも思えなかった。

「……いや。なんでもない」
「そうですか?」

 シエル先輩は、小首をかしげて応じると、司祭館を指差した。

「ちょっと着替えてきますね。遠野くんは、礼拝堂で待っててください」

 小走りに司祭館に入って行くシエル先輩の背中を見送ってから礼拝堂の扉に
手をかけた。

 ぐぎいぃぃぃぃ……ごごごご……ごん

 蝶番が苦しげに軋み、重い扉がゆっくりと開く。
 扉を半開きにしたまま、ほの暗い礼拝堂に踏み込んだ。
 ステンドグラスから差し込む日の光が、空中に何本もの筋を描いている。

 目が薄暗さに慣れるのを待って、あたりを見回してみる。
 庭の荒れ方を考えれば意外なことに、礼拝堂の中はちゃんとしていた。
 十字架も、祭壇も、説教壇も、ベンチも、オルガンも壊れていないどころか
埃すらかぶっていなかった。
 先輩が今日のために掃除しておいたに違いない。

 何年分もの埃がもうもうと立ちこめる礼拝堂をチョロQみたいに走り回って
掃除するシエル先輩のイメージが浮かんできた。
『わたし、こんなに汚いのには我慢ができないんですっ!』ぷんぷん。
 そんな声まで聞こえてきそうな気がして、思わず苦笑する。

 礼拝堂の中で、ひときわ綺麗な物が目についた。
 大理石の大きな聖水盤。
 それが、ステンドグラスからの光を照り返して、つやつや輝いていた。
 シエル先輩が徹底的に磨き上げたに違いない。
 そしてもうひとつ。
 聖水盤の縁に、繊細な彫刻に覆われた小ぶりな木箱が置いてある。
 芸術の素養のない俺の目にも、かなりの年代物だということはわかる。
 おそらく、あの箱に遠野志貴の洗礼式に使う道具が収めてあるのだろう。

 開けっぱなしの扉から風が吹き込んでくる。
 水面に微かな波が立ち、そこに反射した蒼い光が、壁で揺らめいた。

 ゆっくりと歩いて行き、聖水盤の前で立ち止まる。
 間近からだと、聖水盤は子供用プールほどの大きさだとわかった。
 ただし、子供用プールよりも、ずっと深い。
 覗き込むと、いかにも冷たそうな、澄んだ水で満たされている。
 お約束通り、手を突っ込んでみる。
 思った通り、水は手が切れそうなほど冷たかった。

 背後で、ゴン、と扉の閉まる音が響いた。
 そして、シエル先輩の声。

「お待たせしました」

 カツ、カツと編み上げブーツの靴音を響かせながら、シエル先輩がこちらに
歩いてくる。
 扉から光が入らなくなったので礼拝堂の中はさっきよりも暗くなり、法衣の
白い襟ばかりが目立った。

 すぐ傍まできて立ち止まったシエル先輩が、怪訝そうに俺の顔を見た。

「遠野くん?どうかしたんですか?」
「いや……メガネをしてないなって」

 残念そうな声になったのか、先輩はそれを聞いてくすっと笑った。

「遠野くん、前にも言ってませんでしたか?それ」
「そうだっけ?」

 思わず視線をそらすと、シエル先輩はもう一度くすっと笑った。

「……さてと。さっそく始めましょう」

                                         《つづく》