「……っ!!」

 衝撃に向かって身を固くする。





 次の衝撃は来なかった。

「……ん?」

 頭を上げると、周りの景色が止まっていた。
 あれほどうるさかったエンジン音が収まっている。
 どうやら最後のカッターが功を奏したようだ。

「いてて……はは、止まってる」

 あれほどすさまじい反発力を示したエアバッグも、ゆっくりと押さえると難
なく萎んでいく。

「……よっと」

 挟まれた体をようやくにして解放する。
 座席のリクライニングを落とし、胸に抱きかかえた女の子をその上に横たえる。
 呼吸、心音を確かめる。
 外傷がないか確かめる。
 女の子の体に走る黒い線からは出来るだけ意識を逸らした。
 ……手足の骨折、その他素人が肉眼で確認できる範囲の傷は見つけられない。

「よし」

 女の子をそのままに、ぐったりしている運転席の男の様子を伺う。
 姿勢を支えるために握ったハンドルが何故かひどく頼りない。
 持つ手に力を加えると、ハンドルは工具箱をかき回したような音と共にあら
ぬ方向へ曲がった。

 「あ……やばい、さっきのか」

 プラスチックの外側に隠されてはいるものの、おそらくその中はグシャグシャだ。
 内心冷や汗を掻きながらハンドルからそっと手を離すと、とりあえず男のシー
トベルトを外してリクライニングを傾けた。
 黒シャツの顔面、両腕には無数の小さな切り傷があり、そこからまんべんなく
血を流しているので見た目はかなり凄惨なものがある。
 吹き飛んだフロントガラスの破片によるものだろう。
 ただ、よく見れば傷はどれも浅いものばかりでこちらも大したことはない。
 落石が直接当たれば唯では済まなかっただろうが、それらしき打撲傷も見当
たらない。
 皮肉にもしっかりと締められたシートベルトのお陰か。
 ふと見ると、ワイパーの付け根に落石の跡が大きく穿たれていた。
 ボンネットに当たればこんな事にはならなかっただろうし、フロントガラス
に当たれば痛いと思う間もなくお陀仏だ。

「……運が良かったのか悪かったのか」

 足元を見ると、右足は未だアクセルを踏んだまま固定されている。
 落石が直撃して黒シャツが気絶した後もベンツが止まらなかったのはこのせいだ。

「ふう、……全く手間かけさせやがって。ま、自業自得だな」

 しばらくすれば騒ぎを聞きつけたこの子の親が上から降りてくるだろう。
 それまでほっておいてもこいつが自力で起きることはなさそうだ。
 ひとまず一段落と言ったところだろうか。

「……はあ」

 体を起こすと、助手席をまたいでそろそろと車の外へと這い出した。
 ベンツは砂山の上に乗り上げていた。

 ふと、自分の身体チェックをしていないことに気づいて苦笑する。
 そこかしこに打撲傷や擦過傷があるが大したことはない。
 今回やらかしたことを思えば無傷のようなものだった。
 ほっとして大きく息をついた。

「はぁ〜あ。……つっ!」

 例の頭痛が走る。
 先生の眼鏡を掛けていないせいだ。
 停まった車の傍らに座り込んで目を瞑った。
 アルクェイドが来るまでこうしていよう。

「はぁ…………はぁ……」

 荒れた呼吸を整えていく。
 実際に動いたのはほんの僅かな間なのに呼吸を乱している自分がおかしかった。

「もっと……体力が…はぁ…んっ……あればいいんだけどな」

 冗談言うな、という声がどこからか聞こえる。
 確かに、あの場面で体が思い通りに動いてくれただけでも見つけものだった。


 坂下から砂を蹴る音が聞こえてきた。

「……ん」

 目を開ける。
 アルクェイドの姿が見えた。
 駆け寄ってくる姿があいつのイメージに合わない。

「……そんなに急がなくてもいいのに」

 いつものアイツにはスキップくらいが似合っている。
 馬鹿なことを考えている間に俺の目の前まで来たアルクェイドは、坂を一息
に上ってきたせいか珍しく息を切らせていた。

「……志貴!」
「おう」

 険しい顔をしたアルクェイドは俺の返事を待ちかまえている。

「……大丈夫。擦り傷くらいなもんだよ」
「……そう、良かった」

 口調を緩めたアルクェイドが笑みを含ませて聞き返す。

「で、首尾は?」

 アルクェイドから眼鏡を取り返し調子を確かめながら、俺は黙って拳を握り
親指を上げてみせた。

「そう!」

 俺の無言の返事を受け取ると、アルクェイドは笑みを浮かべながら車の後部
座席に目をやった。
 アルクェイドの顔が歓喜に輝く。
 なんだかよく分からない。
 アルクェイドはドアを開けると、後部座席から見覚えのあるバッグを取り出した。

「……あ、それ!」

 すっかり忘れていたアルクェイドのバッグ。
 アルクェイドは黙ってバッグを手に取り、先ほど俺がやったように親指を上
げてみせた。
 悪戯が成功した子供のような満面の笑み。
 俺は耐えきれず、座り込んだまま声を上げて笑った。

「ぷっ、あっはっはっは!……上等!!」



 あの後、女の子の意識が回復するのを待って俺たちは逃げ出した。
 車に駆け寄る際のアルクェイドを女の子が覚えていたことで、状況を伝える
のは比較的うまくいったようだ。

「きれいなおねーさん……お姫様みたい……」

 ……実はアルクェイドに見惚れていただけという話もある。

「えへへー。志貴、綺麗なおねーさんだってさ、どう、どう?」
「あー判った判った。ね、君痛いところとか無いか?」

 にこにこ顔で迫るアルクェイドを適当にあしらって女の子に問いかけた。

「あ、うん大丈夫みたい」

 女の子の親が付くまで待った方が良いのだろうけど、いかにも高そうなベン
ツも落石にやられドアは無く廃車寸前だ。
 女の子を助けるためとはいえドアを切り落としたのは間違いなく俺だし、何
よりドアを切り落とした方法について聞かれても説明のしようがない。
 まあ、この辺の責任は車でのびている黒シャツの男にかぶって貰うことにし
て俺たちはその場を後にした。
 眼鏡を掛けて改めて見た女の子の顔は秋葉には余り似ていなかった。



「ん、こんなもんかな」
「どちらにしろ応急処置だしな、人目に晒されなければそれでいい」
「そだね」

 道脇に放置されていた段ボールをグローブボックスの中に残されたガムテー
プで助手席側のドア部分に張り付ける。
 何しろドアをすっぱり切り落としてしまったのでこのままじゃ風通しが良す
ぎるし、警察に見つかれば問答無用で停止させられるのは間違いない。
 このままドライブを続行するのはちょっと無理っぽい。
 どちらにしろいったん宿に戻って、それからということにした。
 何より、二人とももうどこかを回って観光する気分じゃなかった。


「ねー、あの子どーなったと思う?」

 アルクェイドが運転をしながら俺に問いかけた。
 先程の暴走とはうってかわって笑っちゃうような安全運転だ。
 アルクェイドの視線を感じながら、ぼーっと前を見たままおなざりに答える。

「大丈夫だろ」
「何よー。気の無い返事ね。あんなに頑張ったのに終わっちゃったらそんなも
んな訳?」

 アルクェイドは不満げだ。
 自分でも、あれだけ好き勝手やっておきながらこの返答はないと思う。
 ドアの代わりに貼り付けた段ボールを見ると、走行風を受けてぱたぱたとは
ためいている。

「志貴ってば!」

 黙ったままでいたのでじれたアルクェイドが顔ごとこちらを向いた。

「ほら、赤信号。前を見ないと危ないぞ」
「はぐらかさないで。何考えてるのか知らないけどあれからぼーっとしちゃってさ」

 車を停止線にぴったり停めたアルクェイドがむーとこちらを睨む。

「別に大丈夫だろ。万が一黒シャツが起き出しても構わないように運転席へ後
ろ手に縛っておいたし、他の人が取られたバッグも女の子に預けておいたから、
あの子の親御さんも大体の状況は掴めるだろ」
「それは……まぁそうなんだけどさ……」

 まだ物問いたげなアルクェイドがぶつぶついっている。

「それよりも俺たちの方が問題だよ」
「え、なんで?」

 溜息を付きながらこちこつとダッシュボードを叩いてみせる。

「こいつだよ、こいつ」

 アルクェイドがきょとんとした顔で。
 わかってないか、やっぱり。
 がっくりと頭を垂れる。
 さっきのベンツに負けず劣らずこの車もぼろぼろだ。
 落石の直撃はなくとも跳ね返りの破片でそこかしこに傷が付いてるし、何よ
り助手席のドアが決定的だ。
 ただ開けただけじゃ風圧で閉まってしまったあの状況だからこその判断だっ
たんだが。

「懐具合も判断すれば良かった……」

 アルクェイドに聞かれないよう口の中だけで呟く。
 追っかけて走れと言ったのもドアを取ってしまったのも全部俺の責任だ。
 とほほ……幾ら掛かるか……まさか内緒の旅行に出かけておきながら秋葉に
借りるわけには行かないし……戻ったら本気でバイト探さないと。


 出来る限り人目に付かない経路を選んだつもりでレンタカーに辿り着く。
 停車中に歩行者がぎょっとこっちを見ることはあったものの、幸いにも警察
に見つかることは避けられたようだ。
 戻ってきた車を目にした担当者の顔はちょっとした見物だった。

「あ、あの……お客様、これは一体……!」
「いや……その、ちょっと色々ありまして」
「事故に遭われたようではないようですが……保険適用外の自損ですと修理費
用はお客様のご負担となりますよ」
「はい……」

 愛想笑いを崩さない店員の顔にも汗がひとすじ流れている。まあ当然だろう。

「すいませんが、分割ってOKです?」
「いやー、ちょっとこういうのは……」

 ああだこうだ店員と話していると、後ろで黙らせておいたアルクェイドが肩
をつついてきた。

「ねえ、志貴、あの車って幾らなのよ」
「え?」
「新車価格で税込み140万ってところですね」

 俺達の会話をめざとく聞きつけてきた店員が横から割り込む。

「そんなもんなんだ。じゃ、いいや、代金分払っていくからそれで良しにして」
「ちょっと待て、アルクェイド、おまえ、何を……!」

 呆気にとられた俺をアルクェイドが手だけで制する。

「実際には多少減価償却しておりますので若干のお値引きは出来るかと思いますが」

 にこやかな店員の顔は既に俺ではなくアルクェイドに向けられていた。

「そのままで良いわ。その代わり、今の車内緒で潰しといてくれないかな。跡
形もなく」
「承りました。お支払いの方はクレジットカードで?」
「あ、ここ Master って利くのかな。日本って Master 弱いんだよねー」
「結構です。それでは書類の方をご用意いたしますので……」

 俺だけ蚊帳の外のままとんとん拍子で話が進んでいく。
 店員が店の奥に消えるのを確認してアルクェイドに詰め寄った。

「アルクェイド、お前何のつもりだ!」
「証拠隠滅の為よ。あれだけの騒ぎ起こしておいてタダで済む訳無いじゃない。
私けーさつに調べられるのって苦手なの」

 アルクェイドが事も無げに言い放つ。

「何も空想具現化なんか使わなくたって大抵のことはお金で何とかなるものよ。
それとも志貴はその目のことがばれる方が良いって訳?」
「だからって何も140万なんて大金……」
「お金で片がつくんなら話が早いじゃない。それに志貴、忘れてるんじゃない? 
私ブリュンスタッドのお姫様なんだよ? こう見えてもお金持ちなんだから」

 アルクェイドは俺をみて悪戯っぽく肩をそびやかして見せた。

「うぐ……」

 そう言われると反論のしようがない。
 アルクェイドにはそんな気はないだろうが、俺の心情としてはアルクェイド
に140万の借金を作ってしまった気分だ。

「そういう訳で、納得した? 志貴」
「わ、わかった……」


「お客様、如何致しましたでしょうか……?」

 戻ってきた店員が打ちひしがれている俺とVサインを掲げているアルクェイ
ドを見て首を傾げた。

(To Be Continued....)