唇を舐め、唾を飲み込む。
傍らのカッターを握り、刃渡りを確かめる。
ちきちきという音が風鳴りの中やけに耳に響いた。
カッターの刃をぴぃんと弾く。
やって、やれないことも、なさそうだ。
「……人がやるって言ったら止めるけどね」
「志貴! 貴方何するつもり!」
俺の様子を見たアルクェイドが顔色を変える。
俺は黙って先生から貰った眼鏡を外し、ハンドルを握るアルクェイドの胸ポ
ケットに滑り込ませる。
多分ここが世界で一番安全だろうから。
「貴方……まさか……」
「アルクェイド、もう一度だ。頼む」
知らず、口調が穏やかなものに変わっている。
覆いを外されたように感覚が研ぎ澄まされていく。
横のアルクェイド、唸りをあげるエンジン、前のベンツ、その他全てのもの
が動く様をまるで手に取るように感じる錯覚。
思わず零れる笑いを噛み殺す。
錯覚に決まってる。
このエンジン音と風が吹き荒れる中、アルクェイドの鼓動を感じるなんて。
いきなり変わってしまった俺の様子に声を呑むアルクェイド。
俺は静かにアルクェイドを見つめる。
「頼むよ」
三度目の懇願。
「……分かったわ。だけど無茶だけはしないで」
アルクェイドの顔が悲痛に歪む。
そりゃあそうだ、今からやることを考えたら無茶も無茶、無茶の二乗だ。
だけど、こいつはこうなった俺を止めることが出来ないと分かってる。
俺は返事を返す代わりに口元をにっと歪めた。
それを合図と床まで踏み抜かれるアクセル。
仰け反るような加速にみるみる大きくなるベンツの姿。
向かうベンツは左ハンドルだから助手席は右側。
切れるようなハンドル捌きでベンツに横付けするアルクェイド。
横に並ぶベンツとの幅はおよそ2m程。
とりあえず横のドアが邪魔だ。仮にドアを開いても風圧で閉じるのは歴然。
横に下がるシートベルトを脇へ押しやると、手前のドアに視線を凝らした。
途端に頭痛が走り、ドアを区切る黒い線が浮き上がっていく。
「……く!」
刃を出したカッターを線に沿って無造作に振るった。
ガラスの割れる音も金属の軋む音も響かせることなく崩れ去るドア。
途端に殴りつけるような強風が車内に吹き荒れ、道路に落ちた破片が次々に
金属音の悲鳴を上げて後方に跳ね飛んでいく。
ぽっかりとドアの空間が開いた。
「限界まで寄せてくれ!」
「分かってるわよ!」
車のホイール同士をこすらんばかりに寄せるアルクェイド。
手を伸ばせばもうベンツのドアに届く距離だ。
目の前のドアに再び目を凝らす。
割れるような頭痛と引き替えにベンツのドアに黒い線が走る。
「……そうこっちの都合通りに走ってくれないなあ」
ドアに太く走った黒い線は蝶番の部分を巧妙に避け、何度か切らなければ大
きく切り落とせそうにない。
試しにドアに手を伸ばし、開くかどうか確かめる。
ドアには予想通りきっちりとロックが掛けられていた。
ガラスの部分を割って入ろうにも殴りつけて割るには異様に堅く、線をなぞっ
て切ろうにも適当な線が見つからない。
どうせ線をなぞるならばガラスの部分も金属の部分もそう変わりはない。
「……やっぱドアを落とすか」
足下からわずか50センチほど下は、アスファルトが高速で回転する砥石の
ように削られる対象物を待ちかまえている。
身を守ってくれるドアは自分で切り落としてしまった。
窓枠を握って身体を支える左手に否が応でも力が入る。
右手にはカッター。
ベンツに走る黒い線に溶けたバターへ差し込むように刃先を入れ、そろそろ
となぞりにかかった。
ことん、という鈍い感触。
一つ目の線を切り終えた。
腕と身体で揺れる車体とのギャップを殺しながら二つ目の線に取りかかる。
「志貴!!」
アルクェイドからの鋭い警告。
反射的に身を固くして変化を待ち受ける。
身体を突き上げる衝撃。
タイヤを石にでも乗り上げたか。
カッターを落とさぬよう持つ手に力が入る。
刃を差し込んだ接合点と俺の手の間に捻るような力が加わる。
刃の折れる鋭い音。
「切れたの!?」
「いや、まだだ。後3カ所は切らないと」
残りの刃先は……持って後2回程。
いや、2回なんて悠長なことを言っていられない。
残された時間は1分を切るはず。
次で確実に切り落とす。
カッターの刃を限界まで延ばし、そこで固定する。
大きく息を吸う。吐く。
呼吸を止める。
差し込む。
瞬間、俺の手は意志を離れてドアの黒い線をトレースし始めた。
直線曲線関係なく、まるでガイドでも付いているかのように一定の速度でト
レースしていく。
あれほどうるさかった風切り音が聞こえない。
一分割二分割三分割……やらなくても良いところまで黒い線をなぞっていく。
残された線は僅か。
俺の右腕は最後まで躊躇うことなくものを分かつ死の線をなぞりきった。
今までドアとして機能していたものが、何かを喪う。
ドアがドアの形を崩していく。
まるで杏仁豆腐のように切られたドアの最初の破片がアスファルトに触れた。
途端、耳を塞ぎたくなるような金属性の擦過音が後ろに流れ、俺の聴覚は回復した。
「さっすがぁ!」
アルクェイドが俺の後ろで歓声を上げる。
視界を遮っていたベンツのドアはものの見事にその姿を消し、座席下に横た
わる女の子の姿が露わになる。
座席下に潜り込んでしまったのか功を奏したのか、運転席の血塗れの男のよ
うな目立った怪我は見当たらない。
思っていたよりも無事な姿に思わず安堵の息が漏れる。
だが、もう時間がない。
仰ぎ見ると、坂を上る緊急避難路は既にスキーのジャンプ台のように大きく
立ちはだかっていた。
本線と避難路の分岐点まで、後10秒程。
「アルクェイド、いち、にで行くぞ!」
「分かったわ! いち、にの、」
声を合わせる。
「さん!!」
足下からベンツまでの距離は約50cm。
僅か一歩に満たないその距離をまるで幅跳びのように踏み切る。
「……っ!!」
ドアを取り去られたベンツの助手席に転がり込んだ。
冷や汗がどっと吹き出たが、気を失っている女の子を躊躇なく片手で座席へ
引っ張り上げる。
そのまま足を踏ん張ると、意識のない男をそのままにハンドルを思い切り左
へ切った。
外へ投げ出されそうな横Gがかかる。
無くなったドア側へ流れていく女の子を慌てて胸に抱え込む。
急ブレーキを踏む音にはっと頭を上げると、無くなったドアから先程まで自
分の乗っていた車のタイヤから白煙が上がっているのが見えた。
その場に留まろうとするアルクェイドの努力も空しく、すぐに視野から消える。
その姿を確認する間もなく、急に体が床へ押しつけられた。
エレベータで上るときにも似た感覚が何十倍となって押し寄せる。
坂下へ下っていた車がいきなり坂を上ろうとすることによる加重だ。
ベンツはなおも前進し、スピードを物量で殺すために積まれた砂山が目の前
に立ちはだかる。
シートベルトをしている間はない。
咄嗟に体を返すと、両手を組み合わせて助手席の上部を抱え込んだ。
助手席と俺の間に女の子を押し込み、女の子を固定する。
直後、重いものを突き破るような衝撃。
瞬時にエアバッグが作動する。
「がっ……ぶっ!!」
ダッシュボードに体を叩きつけられるかと予想していた俺は間抜けにもエア
バッグに押されて助手席の頭部クッションへ頭を叩き付けられる羽目になった。
抱え込んだ女の子の体は慣性に従って俺の腹部へめり込んでくる。
「ぐお……!」
驚くほどの荷重だ。
後ろのエアバッグに押される形でかろうじて支えている格好になっているが、
腕の力だけでとても支えきれるもんじゃない。
助手席とエアバッグに挟まれて身動きがとれなくなってしまった。
そうこうしている間にもベンツは幾重にも重ねられた砂山へと突進していく。
エンジンが唸りを上げている。
エンジンだ。
エンジンを切れば。
エアバッグを除けるように力任せに手を伸ばし、見えないキーボックスに向
かって手探りでキーを探す。
手をすり抜ける虚しい感触。
「ない!?」
盗む際に直結でもしたのだろうか。あるはずの部分にキーの手応えは無かった。
舌打ちをする間もなく何度めかの砂山に突っ込む。
衝撃。
こつんと足下に触れる感触に向かって咄嗟に手を伸ばす。
先ほど女の子を引っ張り上げる際に放り投げたカッターナイフだ。
再度衝撃。
「がっ!?」
今度こそグローブボックスに頭を打ち付けた。
一瞬意識が飛んだ。
はっと手をやると胸元に暖かい感触。
それが女の子の背中だと気づく前に、またも衝撃。
今度は乗り切った。
助手席とエアバッグに挟み込まれたまま後ろを振り返る。
残された砂山は僅か。
それを過ぎれば後は立木に正面衝突するだけだ。
「くそ……!」
もう、他に為す術がない。
駄目元で再び助手席を抱え込んで女の子をその間に固定する。
そのまま無理矢理首をねじると木製のハンドルの基部に向かって目を凝らした。
視線の中心から世界は色を失い、見る間に黒い線が広がっていく。
無数に走る黒い線の中、微かに映った黒い点に向かってカッターを持った手
を伸ばした。
「いいからそろそろ止まっとけよ!!」
最後に残ったカッターの小さな刃先は滑り込むように“それ”の中心を突いた。
「……っ!!」
衝撃に向かって身を固くする。
(To Be Continued....)
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