無言のまま風呂場の前でアルクェイドと別れた。
 とりあえず風呂にでも入れば気分も一新するだろう。
 「男湯」の暖簾をくぐるとそのまま脱衣所を通り抜け、露天風呂の様子を伺った。

 女将さん、仲居さんと揃って自慢するだけあって、露天風呂は流石のロケー
ションだった。
 山腹に建てられた旅館のすぐ下に設えた露天風呂は道路からの視線を隠し、
眼下に黒い森を従えている。
 さらにその下、地平線と森の中程あたりに夕闇にちらほらと輝く街の光。
 まだ暮れきっていないせいか地上に星を散りばめたとまではいかないけれど、
旅情を満喫するには十分だった。

 時間が中途半端なせいか、十人程度は悠々と入れる風呂に人影は見えなかった。
 胸の傷跡を人に気遣う手間が省けたので丁度良い。
 脱衣場に戻り手早く服を脱ぎ捨てると、洗い場で体をさっと流してごつごつし
た岩の風呂に滑り込む。
 湯から伝わる熱に思わず溜息が漏れた。顔を撫でていく湯気がかすかに硫黄臭い。

「……なんか、柄にもなくしんみりしちゃうな」

 途中どたばたしたせいか、お湯に浸かってようやく旅をしているんだなあと
言う気分になった。
 ちなみに眼鏡は掛けたままだ。せっかくいい気分で居るのに余分なものは見
たくない。普通はモノをよく見るための眼鏡なんだがと思うと妙な気分だった。
 男風呂と女風呂は隣り合っているが竹の塀で区切られ、無論姿は見えない。
 ただ声はよく通るので一緒に上がるときなんかは便利だ。
 こういうシチュエーションだと混浴はついて回りそうなものだが、ここの旅
館に
混浴は無かった。この点は正直いってありがたかった。
 その、何というか、意識中に残念だと思う部分は確かにあるが、照れくさい
という感がそれを上回る。
 身体まで交わしておきながら何を今更とも思うけれど、いざ風呂の中でアイ
ツと出くわした日にはその近さに狼狽える自分が容易に想像できる。
 先ほどの二客並べられた布団を思い出す。

「まったく……二人きりで旅行まで来ておいて何やってんのかね、俺……」

 お約束の頭に乗っけた手ぬぐいを取り、眼鏡を外して汗ばんだ顔を拭う。
 少し硫黄臭いタオルは顔と同時に火照った気分まで拭い去ってくれたよう
だった。
 谷から吹き上げる風が湯船から出た顔を緩やかになぶっていく。

 今回、少々無理を押してでもアルクェイドとの旅行に踏み切ったのは、アイ
ツの希望もさることながら、俺自身へのけじめをつけるため。秋葉や他のみん
なの居ないところでアルクェイドと二人きりで過ごすことで、今俺の胸の中に
あるもやもやがどんな形を取るのかはっきりさせる為。

 次第に暗くなっていく外の景色を見ながら、ふと、先ほどの『おなか減っちゃった』
というアルクェイドの台詞を思い出した。
 「食べる行為は好き」というアルクェイドは俺達のように必要に迫られて食
事を摂る訳じゃない。
 あくまでアルクェイドが食事をするのは俺に付き合ってのことだ。
 アルクェイドは大した意味を持たせることなく口にした台詞かも知れないが、
俺にとっては少々複雑だ。
 食事を引き合いにするまでもなくアルクェイドは人と違う。
 俺と一緒に過ごすことは、アルクェイドに何かしら譲歩を強いてるんじゃな
いだろうか。
 たとえ些細なことでも知らず無理をさせてるんじゃないだろうか。
 こうやっているのは遠野志貴の単なる自己満足でアイツのためには他にもっ
といい方法があるんじゃないだろうか。
 俺はアルクェイドのために何かしてやれてるだろうか。
 立ち上る湯気の向こうにアルクェイドのふにゃっと笑う顔が浮かぶ。
 直ぐ隣の女湯にいるはずなのに何故かそれはとても遠いものに思えた。


 風呂から上がり、廊下で上せ気味の頭をうちわで扇いでいると、女湯の暖簾
をくぐってアルクェイドが現れた。
 旅館の方で用意してくれた浴衣もあったけど後で面倒になりそうで止めさせた。
 今アルクェイドが来ているのは浅葱色のあっさりした柄のTシャツと短めの麻
のスカート。見た目にも涼しげだ。

「あ、志貴。待っててくれたんだ」
「いいや、俺も今出たとこ」
「そーなの。あ、志貴、そっちのお風呂どうだった? 私あーやって外でお風
呂入るのって初めてだからすっごく良かったよ!」
 ほかっと笑うアルクェイド。

 こっちは風呂場までの気まずい雰囲気を見事に洗い流してきたらしい。
 
 湯上がりのせいか頬に血が差して桜色に染まっている。
 その顔を見ていると、俺の中でつかえていた胸のわだかまりがすっと溶けて
いくような気がした。
 代わりに何か暖かいものが流れ込んでくる。

「そっか、良かったな」
「お風呂に入ってるのに風が吹き込んで来るってのがまた良いわね。志貴んち
だったらあーいうの造れるんじゃない?」
「そりゃ造れるかも知れないけどさ、洋館に露天風呂は似合わないよ」
「えー、いいじゃない。きっとみんな喜ぶよ」
「はいはい了解しました、それよりそろそろ部屋に戻るぞ」
「えー何よー、もうちょっと考えてくれても良いんじゃない? 志貴のけちー」
「ケチってことあるか」

 口を開けば途端にいつもの調子。
 文句を言いながら横を歩くアルクェイドの様子も元通りだ。
 違うのは、金髪の洗い髪から漂ってくる蜜柑の花に似た香り。
 タオル一つ携えていったきりだから同じ備え付けのシャンプーを使ったはず
なのに、どうしてかそれは自分のより優しい香りがした。
 少し、胸が高鳴る。



 部屋へ戻ると先ほどの仲居さんが既に食事の支度を整えていてくれた。

「おー、豪華絢爛……」
「うわー、可愛いお皿がたっくさん……」

 分厚い木の一枚板の座卓の上には数々の料理が所狭しと並べられていた。
 毎日頑張ってくれる琥珀さんも流石にいつもこんな品数を作るわけにはいか
ないから、料理だけでも旅をしているという気分にさせられる。

「そうでした、お酒の方は如何致しましょうか? 二本ほどお付けいたしますか?」

 準備のあらかた終わった仲居さんがこちらを振り返る。
 どうやら外見からは微妙な俺の年齢については不問にしてくれるようだ。
 俺もそう飲める訳じゃないけどアルクェイドはこれでいける口だし、今日く
らいはあっても良いだろう。

「あ、じゃそれでお願いします」
「はい、じゃただいまお持ちしますね」

 ここはいちいち仲居さんが応対をしてくれるらしく、料理を運び終わった後
も横についてお椀のふたを取ったり小皿に盛ったりしてくれる。
 正式な和食にとまどうアルクェイドには格好の手助けだ。
 こういうサービスは話に聞いたことがあっても実際に受けるのはこれが初め
てだ。
 ほんとにすごいところに来ちゃったんだな……。


 先ほどから応対してくれている仲居さんの名前は菊江さんと言うらしい。
 三十を少し越えたばかりでバツイチ、今は独り身だそうだ。
 なんでこんな事を知っているかというと、俺達のことを聞かれぬよう外にネ
タを振り、仲居さんのことも話に上ったせいだ。落ち着いた美人だけど、決し
て他意があった訳じゃない事を言い添えておく。
 話の流れで菊江さんにも呑んでもらい(本当はお客と呑んではいけないらし
い)アルクェイドも調子に乗って何本か追加注文したんでかなりいい感じでま
わってきた。
 初めは慇懃に対応していた菊江さんもどうやら元は気さくな人のようで、俺
達につられて次第に口が軽くなってきた。
 俺の前では屋敷の人間くらいしか話すのを見たことがないアルクェイドも、
菊江さんとの世間話に花を咲かせている。
 最近のファッション関係の話で盛り上がっている二人に適当に相づちを打ち
つつ、俺は折角の料理を堪能していた。
 琥珀さんの料理はもちろん満足だけど、たまに他の人の作ったものを食べる
と味が変わって新鮮だ。


 話題に一区切り付いたのか、菊江さんがちらっと俺の方を見てお酌してくれた。

「お一つ如何ですか?」
「あ、ども、すいません」
「すいませんね、せっかくお二人でいらっしゃったのに長居しまして。邪魔者は
早々に引っ込みますから」
「いや、そんな事無いですよ。こいつも楽しんでるみたいだしどんどんやっちゃっ
てください」
「そうよ菊江。志貴なんかほっといて良いんだから。この旅行だってはじめは行
くとか行かないとか揉めたのよ。女から誘ってるってのにちょっとひどいと思わ
ない?」

 商店街での件を根に持ってるらしい。アルクェイドがジト目で俺を睨む。

「お前それを言うか? 俺がどんな思いをしてここまでこぎ着けたか」
「はいはいお二人とも。さ、アルクェイドさんもどうぞ」
「ありがと」

 菊江さんの取りなしにさっさと引き下がるアルクェイド。こういうところは
素直で可愛い。

「あのー、月並みなんですけど、お二人の馴れ初めって一体どんなきっかけだっ
たんです?」

 俺達を交互に見た菊江さんがそんなことを聞いてくる。
 まあ今までの応対を見ればそれなりの関係と察してはいても、普通の高校生
に金髪の美女の取り合わせとくれば好奇心も湧くだろう。

「え? 私と志貴の? えへへー」

 頬を指で押さえながらアルクェイドが言いよどむ。
 ひょっとしてアレは照れている仕草なんだろうか。
 もしかしたらこいつも酔っぱらってるのかも知れない。
 そーいえばこいつと初めて出会ったのってどんなんだったかな……って!!
 酔いが吹っ飛ぶ。

「志貴ってば街で見かけた見ず知らずの私の部屋まで押し掛けてきてね、ドア
を開くなりいきなり」

 すぱーん!

 物も言わずにアルクェイドの後頭部をひっぱたいた。
 呆気にとられる菊江さん。

「い、いったーい! 何すんの志貴! それにそのスリッパ一体どこから出し
たのよ」
「(ええいうるさい、おまえその先一体なんて言うつもりだった!)」

 確かに手には何故か便所スリッパがあったがそんなのはどうでも良い。
 スリッパをぺいっと捨てると、不満そうなアルクェイドに近づいて耳元でぼ
しょぼしょ話す。

「(えー、志貴に殺されたって言うつもりだったけど)」
「(阿呆かおまえわ。何処の世界に殺されたことを嬉々として話す人間がいる)」
「(そ、そりゃあそうだけど、私人間じゃないし)」

 なおも言い募るアルクェイドに深々とため息をついた。

「(そーだろう。そーだろーとも。そいでおまえ自分が吸血鬼だって言いふら
すつもりか?)」
「(あ。……そ、そだね)」

 口をぽかんと開けて答えるアルクェイド。
 こいつホントに何も考えてなかったな、全く。
 ちょっと目眩がしてきた。

「あらー、そ、その、部屋まで押し掛けてきて何かあったんでしょうね?」

 おそるおそる聞いてくる菊江さん。

「え、いやー、その何されたって言うか、ナニかしらね、あはは」

 頭を掻きながら適当に誤魔化しを掛けるアルクェイド、
 オイ、その言い回しはちょっとマズイ。

「えっ、な、ナニって、そんな、会っていきなりですか!?」

 のけぞる菊江さん。

「うーんと、でも志貴ったらすごく素早かったから本当にあっという間のこと
だったんだけどね」
「ええっ! 志貴さん会っていきなりで、あまつさえあっという間だったんですか!?
「うん。もうその早ワザと来たら美術館に飾っておける位って……志貴何で泣いてるの?」
「……いや。何でもない。あの……お銚子十本ほど追加してもらえます?」



(To Be Continued....)