鋭い刃音が空中で鳴り響く。交差する銀の光と、散った火花が闇の中に輝いた。
それは森の夜の空気を切り裂いた様に――
「はぁっ!」
「――甘いわ!」
兄さんの第二撃が空中で繰り出され、受け止める七夜は滑らかに反撃の拳を
繰り出す。二人とも地面に落ちながらも空中で目まぐるしく手を交わす。
私が見守る中で兄さんが前屈みに着地しそのままつんのめる様に突っ込んで
いった。あ、と私が声を上げる前に七夜は斜めに身構え、兄さんに無造作に刃
を振るう。
「――!!」
ぱっ、と紅いものが散り、モノトーンの視界の中で零れたインキに染められ
たように。
二カ所から血飛沫が待っていた。一つは兄さんの肩口、もう一つは七夜の脇
腹。
すれ違った二人はシンクロするようにお互いの傷口を撫で、指を濡らすそれ
を見つめる。兄さんは深刻な瞳で、七夜は何かを小馬鹿にするような瞳で。
「――遠野志貴。死を斬らずに我が肉を切るとは温いな」
「そういうお前だって随分と荒っぽい……ふぅん」
兄さんはぺろり、と血の付いた親指を舐めた。兄さんの舌に広がった鉄の味
が、私にもなぜか伝わってくる。その理由は知るよしもない――ただ、兄さん
の学生服の切り裂かれた肩を見ると、それに手を伸ばして触りたいという欲求
を覚える。
なぜか――触って癒したいというのだろうか?癒せる自信はない、ただの希
求――
ぎゅっと、私の肩を触るレンの指が力が籠もる。
振り返ると私を振り返るレンは、その瞳に――読み取りづらい焦慮の色があ
った。
私もこんな眼で兄さんたちを眺めているのだろう、きっと。
七夜は掌を染める紅い血を見つめていたが、それを面倒そうに指先を振り払
う。
殺人鬼である自分の身体に、こんな液体が流れていることが不愉快だ――と
でも言いたそうな。
「ふむ……まずは小手調べというところか。では今度は此方から往くぞ」
「はっ……こっちはそんな余裕ないっちゅーの……くぅあ!」
ずかずかと七夜は無遠慮に草を蹴分けて進む。ばさばさと足の下で鳴る下生
え。
そして構えた兄さんの身体に向かって、眼の醒めるような鋭い刺突を放つ―
―!
「これで――死ぬかね?」
「けぇりゃぁぁ!」
私の瞳からまたしても七夜の腕先が消滅する。
なんて疾い――そして容赦のない一撃。いや、それは一撃だけじゃない、目
まぐるしく切っ先は閃き、まるで幾百もの刃が闇を兄さんごと切り裂こうとす
る様に。
駄目だ、兄さんが――私が叫び、身体を起こそうとする。
だけども兄さんをなすがままにさせなかった。同じように構え、私の目から
消えるような恐ろしく高速の刃を操る。それは七夜の刃を全て追っていて。
信じられない、あんな高速の刃をどこで察して防いでいるのか――
まるでピアノの最高音のキーを連打し、そのまま金属線の弦を切り裂きそう
な、悲鳴の如き金属音。兄さんと七夜の間に鋼の旋風が荒れ狂う。
兄さんの必死の表情に対して、七夜は薄ら笑いすら浮かべている。
兄さんは私を救うために闘っている。
それなのに、七夜はなんでもいい――理由なんか無い、ただ闘いたいから闘
っているのだろう。今は七夜の虚無にも似た闘志が悔しいけども兄さんを上回
っていた。
まずい――私は唇を噛む。でも、兄さんを助けるために私は何も出来ない。
今の私は七夜に殺されてしまって、小娘ほどの力しかない。
ただ私の出来ることは、レンに支えられて兄さんのこの苦闘を祈るような気
持ちで見つめているしかない。
「ははは……いいぞ?そうだな、もっと早くしてみるか、着いてこい遠野志貴
――来られねばお前は切り裂かれて死ぬ、それだけだ」
「ぐっ……くそったれ!」
七夜の宣言通り、まるでモーターの回転数が上がるように、七夜の操る刃の
速度が増す。
なぜ人間があんな速度を出せるのか分からない、でもそんな回転するミキサー
のような七夜の斬撃を兄さんは受け止めていた。
でも、どれほどに保つのか――危うい。
「兄さん……」
「させるか……よ!」
一撃を強く受け流し、兄さんの足が地面を薙ぐ。
ばさっと草が蹴られて波打ち、七夜は後ろに跳んでそれを避ける。兄さんも
後ろに下がり、間合いが開くが……肩で息をしている兄さんと、平然としてい
る七夜。
七夜は刃を月に翳し、不敵な歪んだ笑いを浮かべる。
「……どうした?まだ序の口だというのにその様は」
「なぁに……久しぶりなもんでね、お前みたいに殺人のためだけに在るわけじ
ゃないからな……さて」
憎まれ口を叩く兄さんが、膝の埃を払う。
そんな余裕が兄さんにあるんだろうか――メガネをしていない兄さんの表情
は厳しい。肩の傷にくわえ、兄さんの服も何カ所か切り裂かれていた。
七夜も無傷ではないが、傷の数は兄さんの方が多い。いけない、このままだ
と兄さんは……勝てない、せっかく私を助けに来てくれたのに兄さんが七夜の
凶刃の前に倒れるだなんて言うことになったら――これは私の夢であり、兄さ
んの夢だという。でも私も兄さんもこの七夜の前に倒れたら、私たちはどうな
ってしまうのか?
考えたくもない、だけどもこのままだと私も兄さんも……
「……いいな、お前たち二人はいい顔をしている。兄妹二人重ねて血の海に沈
めてやろう――二人並んで逝けるのであれば本望だろう?」
嘲笑う七夜。彼の姿は月の逆光のなかで影になるが、その中でも煌々とあの
男のケモノの瞳が鈍く輝いている。この男の中には殺意が黒々と蟠ってそれが
兄さんの皮をかぶったような、そんな厭わしい存在。
兄さんにこいつを倒して欲しいけども――兄さんは必死だった、だけども……。
私の身体に戦慄が走る。再び七夜が殺意の矛先を向けるのが分かったから。
「……ふざけるな……」
「戯れにこのようなことは言わぬよ――!」
またしても七夜が攻める。今度は速く、駆け込んできての攻撃――苛烈な斬
撃が兄さんを襲う。何度も刃が宙を舞い、紅い血飛沫がぱっと散る。
兄さんも必死の形相で防ぎ、七夜に一矢報いようとする。だけども七夜は冷
たい興奮に眼を見開きながら叫んでいた。
それは死をもたらす凶鳥のまがまがしいのような。
「どうした――お前の本当の力を見せてみろ!妹と良い兄といい、ここまでだ
らしない奴らに遠野の名を名乗らせていたのか?わが七夜を滅ぼしたその名を
辱めるか!」
「知るわけないだろうそんなこと……くっ!」
「そら……どうした、手を読め、思考の先を回れ、意外の手を出せ、そして殺
せ、お前が欲するままに――お前はいつも感じていたはずだ、世界がお前の柵
となり、お前の本当の才能と欲望を邪魔していたのだと!」
七夜と兄さんは円を描くように反対側に回り込みながら、凄絶な死闘を繰り
広げる。
兄さんもやられっぱなしではないが、手数と手傷で七夜に負けている。お互
いに浅く切り裂かれた頬から血を流し、二人は闘い、そして叫んでいた。
それを聞く私の心胆を寒からしめる、殺人者の叫び――
「お前と俺を一緒くたにするな!」
「違うな、私はお前だよ、志貴なんだ――お前は歓喜した、あの吸血姫を、異
端審問官を、死徒の獣を、無限の蛇を、そしてお前の兄と妹すらも切り刻むこ
とを許されたその殺しの空間の到来を!偽りの生の世界の瓦解を!そこではお
前は酔っていた、この私のように……殺の美酒を」
七夜の動きが一変した。
速い、だが異質な――ぬるりと滑るような動き。直線的な鋭さから曲線的な
素早さに、ナイフを振る軌道すらも不規則な弧を描く。
兄さんの肩口からぱっと血が舞う。私の悲鳴が喉から洩れる。
七夜はくるりと兄さんに背を向けた――謎の動き。
だがそれが後ろ回し蹴りであると知ったのは、私に向かって兄さんが吹き飛
んできたからあった。
「ぐふぁ!」
いけない、このままでは――兄さんは勝てない。
私には力が奪われている。ほしい、今にあの力が欲しい――紅く燃えたぎる
遠野の力、私の中にあった、私を狂わせる力――あれは私の身を焼く罪の炎で
あった。
だけども、今はその炎を欲している。我が身を灼く炎は、敵をも燃やし尽く
す劫火となるであろうから。
兄さんが私の前に倒れる。
見るのも痛々しい兄さんの傷つきようであった。何カ所も身体を切り裂かれ、
服の下には赤い血が滴っていて――兄さんは歯を食いしばり、苦悶していた。
私の手が届く所まで飛んできた兄さんは、よろめくように身体を起こす。そ
して、私たちの前には……手傷を負ってはいるものの傲然と立つ、七夜の姿が
あった。
あたかもこの森の、闇の森の中の魔王が現出したかのような。
私は憎しみの瞳を注ぐ、兄さんをここまで痛めつけるヤツを許せない――だ
けども、この瞳には奪い尽くす力がない。
「……そんなお前が斯くの如く貧弱なのをみるとな、情けなくなるよ。さて、
どうやらお前も妹と同じく大言の実が伴わぬようだ――失望したよ。直死には
至らぬものの、そのままでは弱り醜い死に沈むな」
七夜は私たちに向かって一歩一歩、ゆっくり歩を進める。
その手に握る血塗られた刃を指で、血糊を払いながら。
兄さんは身体を起こして私を庇おうとする。だけども、足が立たないような
……長くはない闘いだったけども、こんなに消耗しているのは痛々しいほどで。
私は、這うように兄さんに近づいていった。
レンは私を抱き留めようとするけども、構わない。今兄さんに近づかなくて
どうするのだ――兄さんは私を振り返った。頬の傷から血が垂れ、メガネのな
い兄さんの顔は――笑っていた。
どうしてこんな場で笑えるのか?私はその笑顔をみると、心の中が痛むよう
な――涙が湧き出るのを止められなかった。
「泣くなよ……秋葉。こんなヤツ、すぐに倒せるから……」
「兄さん……兄さんをこんなことに……私が……私が弱いから……」
「そんなことは――ないさ。つぅ……」
私は兄さんの所までたどり着くと、震える手を弱々しく差し伸べる。兄さん
はその手を避けなかった――私は兄さんの首筋に、後ろから抱きつく。
むっと血と汗の混じり合った、兄さんの薫りがする。私は兄さんの髪に顔を
埋め、むせび泣きながら囁いた。いや、囁くようにしか私はしゃべれない。
「……ごめんなさい、兄さん……兄さんをこんなことに巻き込んでしまって」
「……いいさ。秋葉……手を離してくれ。そして、レンと一緒に逃げてくれ…
…闘わなきゃいけない、お前を守るために」
それが兄さんの願いだった。
だけども、私は兄さんに回す手を離さなかった。もう兄さんは闘える身体じ
ゃない――それは腕の中にある兄さんの身体も弱っていることが分かるのだから。
私は頭を振りる。
「……兄さんも、もう……もう、闘えない……」
兄さんが弱々しく笑うのを、私は感じ取った。
「…………秋葉には隠し事は出来ないな、でも、俺はまだ闘わないと――」
「さて、それくらいで兄妹ともに末期の旅の心構えは出来たかね?」
嘲笑う七夜の声が振ってくる。
この男は私たちを見下ろし、勝利者の余裕に顔を歪め、死の刃を持ち――嗤
っていた。
欲しい。
力が欲しい。
この男を奪い尽くし、滅ぼし尽くす力が――
(To Be Continued....)
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