欲しい。
 力が欲しい。
 この男を奪い尽くし、滅ぼし尽くす力が――


 このままでは私は兄さんと共に倒れてしまう。兄さんだけを死なせるわけに
はいかない、力が欲しい、今なら――今なら遠野の力を私は許せる。
 でも、私は私だけの命しかない。兄さんに分け与えた命――そして兄さんも
半分の命だけ。

「――――――――――――――――――――」

 その時、私の中に何かが閃いた。
 それは、私たちの数奇な生い立ち。
 そうだ、私も兄さんも半分の魂しかない――だから七夜に適わなかった。も
し一つの完全な命であれば、私は私を――私の力と世界を取り戻せるかもしれ
ない。
 そう、そのためには――私の忌まわしいこの本能、今こそ天の残した一縷の
望みになる。

 私は兄さんの首筋を、最後の力で抱きしめた。

「兄さん……許してください。あの男と戦うには――こうするしかないんです」
「…………」

 嗚咽混じりの私の声に、兄さんは答えなかった。
 私は兄さんの首筋に顔を埋める。それは、囁き声を兄さんの耳元に伝える――
為だけではない。
 兄さんは答えなかった。ただのろのろと手を伸ばすと、私の頭を撫でる。

 血と汗と草に汚れた兄さんに掌は決して心地よくはなかった。ただ、そこに
は兄さんがどんな言葉で答えてくれるよりも確実なメッセージを私は感じる。
 兄さんの掌は、こう語っていた――

 ――秋葉の思うとおりにすればいい、と。

 私は瞳を閉じる。これは乾坤一擲の勝負だった。
 失敗すれば何もかもを失う。でも、何もしなければ元の木阿弥だ。
 私は怯えと迷いを心から追い払う。

 


 そして私は。

 


 兄さんの首筋に

 


 牙を立てた。

 


「――――――――――――――――――」
 
 微かな汗の味と、濃厚な血の味が、私の口の中に溢れる。
 それはどくりどくりと舌の上に絡み、表現しがたい苦く熱い味がする、だが、
これは兄さんの血であり、私の命であり、これを一縷の望みに――

 兄さんは私の頭を撫で続けてくれた。
 喉に兄さんの熱い血が下っていく。それが抜け殻のように力を失った私の中
を、干天の慈雨の如く潤していく。兄さんの血が私に溶け合い、心臓がもう一
つ増えたような激しい鼓動が私の中を脈打ち出す。

 閉じた目の中の視界が真っ赤に染まる。
 そう、赤だ。七夜に斬られて消えてしまったはずの私の力は蘇り始めていた。
 それは鼓動の中に脈打ち、世界がその脈動に震える。私が触れる大地が赤く
脈打ち、吹き上がる力の波濤に乗るような、そんな……

「……ああ、秋葉……頼んだ……頼りない兄で……ごめん……」

 何も謝ることはないんです、兄さん。
 私は虚ろに口ずさむ兄さんの言葉を耳にしていた。そして兄さんの手に力が
抜け、やがてなで続けてくれた手が止まると――

 私は、血を嚥下した。
 赤い力が指先にまで満ちる。髪の先端まで痺れるような、力の波動がある。
 今や私はこの力を怖れてはいなかった。我と我が身を滅ぼす力であっても、
その力を振り下ろす先が邪であれば強大であることは喜ぶべきだ。

 私には滅ぼさなければいけない相手がいる。
 それは私と兄さんを苦しめる、忌むべき殺人鬼であった――

「……そう来るか。まったくお前たち兄妹は楽しませてくれる」

 そんな不快な呟きを耳にしながら、私はゆっくりと瞳を開く。
 私の髪が力に舞うのが分かる。今は兄さんの身体を腕の中に横たえると、そ
の瞳を彼に向けた。

 森の中、月を背負った七夜志貴。
 ヤツは私を見つめていた――その目元に浮かぶのは、尽きせぬ闘いへの期待
と全ての生に対する憎悪。それだけに身も心も焦がす修羅。

 私は兄さんを優しく草の中に横たえる。
 青い髪のレンが兄さんに縋り付いていた――この夢魔は兄さんを大事に思っ
ているのだろう。それは私も同じだ。

 だからこそ、この七夜志貴を討たねばならない。

 私は立ち上がり、拳の関節を鳴らせる。品が良い仕草ではないが、ぽきぽき
と小気味の良い音がする。そして、夕焼けよりも赤い髪がこの漆黒の森の中に
輝いているのが分かる。
 私は軽く深呼吸をすると、七夜を再び強く凝視する。今の私の瞳には、奪わ
れた力が甦っていた。

「……さてさて。これで振り出しに戻ったということか。まだるっこしい限り
だが――こうも手を変え品を変えて私に挑む、お前の意志には敬意を表そう」

 七夜はそういうと、もったいぶって腕を下げて頭を下がる仕草をする。
 だが、それは気障たらしく真意ではないことは明白であった。七夜は顔を上
げると、私を馬鹿にしてた冷たい笑いを顔に貼り付けたままで、恫喝する。

「だが、お前は死ぬ。私に殺される。それは変わりがない――今宵の星相はお
前の死を告げている。天の星の声に地の人は逆らえはすまい」

 そうかしら?あなたが見ているのは偽りの星よ?
 だが私はその言葉を口にはしなかった。
 もはや言葉でこの男に語るのは無駄だった。言葉を浪費するよりも、すべき
ことがある。そうだ、私は今までの私ではない――これは兄さんの夢であり、
同じ魂の私の夢だ。

 ならば、私は私の世界の支配者。
 何を怖じることがあるか――

 ――燃えよ、と私は命じる。

 紅い雨が天から注ぐ。
 
 赤い炎が木々の枝に点る。天から星が火の粉となって舞い降り、乾ききった
木々の枝に落ちるやたちまち燃え上がるように。ただ、火事と違うのは――こ
の炎が熱を持たないことであった。
 赤い炎は冷たく燃え、木々は焼け焦げ灰になるのではなく 萎れるように枯
れていく。一本また一本と木々は燃え上がり、そして恐ろしい速度で燃え移る。

 七夜志貴は燃える木々を驚愕を隠しきれない瞳で眺めていた。赤い炎の中で
彼は辺りを見回し、そして私に呪詛の瞳を向ける。
 それは青く底光りし、視線が突き刺さるような鋭い瞳。

 だが私はそれに怯えを感じなかった。

「ほう……この夢の世界すらも略奪するか――素晴らしい、素晴らしすぎて厭
わしいくらいだ――お前は全くの魔だよ、遠野秋葉。故に魔を断つ我が刃がある」

 この男の長広舌を耳にしても、私には感慨を呼び起こさない。
 ただ、疎ましいだけだ。

「貴方は刃ではない。七夜志貴」

 私はそう、断言した。
 私の掌の中には、世界から奪い尽くした力が宿っていた。それは掌の上で渦
を巻き、氷よりも冷たく脈打っている。私の周りは炎に取り囲まれ、森の木々
は立ち尽くす薪と篝火となり燃え狂う。
 だけども、吹く風は真冬のように冷たい。
 私はその風に髪を遊ばせ、七夜志貴を凝視する。その身体、形、刃、瞳を瞳
と脳裏に焼き付ける。そう、この男は刃ではない。

 私の口が、言葉を紡ぐ。不思議と口にしたこともない口調だった。
 それは命名であり、そして命令であった。

「汝は妾が迷妄、妾が兄が心慮、共に見る夢の影。
 ならば妾の命に従い――疾く消え去れ」

 七夜は答えはしなかった。

 ただ、真っ赤な森を背負ったこの男は、怪鳥のように腕を掲げ、悪鬼の如く
飛んだ。
 黒い、巨大にも見えた死の影が羽ばたく。

「――――――………………!」

 私が見たのは、宙に舞い上がる――それもひどくゆっくり、ぬるぬるとした
動きばかりを感じる七夜の姿であった。逆手に振りかぶった刃には青い死が宿る。
 七夜の瞳も青く、いや青白く燃え上がっていた。私を殺し、倒すという一念
に凝り固まり……それ以外の何もない瞳。天の星よりも純粋な、憎しみを通り
越した美しさを奇異に交えて感じるほどの。

 七夜の姿が舞い上がり、天の月に重なる。
 私の瞳に見える月は、真の光に輝き――地上の迷妄をすべて露わにする。
 赤い私の炎から逃れ、月の光に追い込まれた七夜の姿を私は見た。

 それは、七夜の姿をしていなかった。
 黒い逆光の影。その中に実体を保つ、鋼の刃。
 それを見つめ続けるのを苦痛に感じるほどのそれを、私は見つめていた。

「――――――――――!」
「…………………………」

 影は何かを叫び、私は沈黙を守る。
 死の刃が空間を切り裂き、真っ黒な死で全てを満たす前に――
 私は掌を影に叩きつけた。

 燃える。
 焼き尽くされ、奪い尽くされ、赤い劫火の中で人型が燃え尽きる。
 それは腕と胴体と足を焼き千切られ、口が真っ赤な炎に飲み込まれ、青い瞳
が焼け崩れた頭の中から硝子玉の様に落ち、大地に落ちる前に燃え尽きた。

 私は掌を宙に翳し、その光景を見つめていた。
 炎の中で見る見るうちに七夜だった影は姿を小さく変えていく。七夜は炎の
中でもがき、私に向けて最後の力で刃を向けようとする。

 ぶすぶすと音を立てるかのように、七夜は消し炭から灰、そして塵へと消えた。
 それでもこの異形の炎の中で、刃だけは形を変えなかった。

 ナイフは私に向かって意志でもあるかのようにゆっくりと進む。それは荒れ
狂う疾風の中を逆行する人の姿に似ていた、のろのろと、炎の中で煽られなが
ら私に向かって進んでくる。
 もはや七夜の姿は消え去っていた。ただ、刃が私に近づき、ゆっくりと私の
喉元に――

「――――ふっ」

 達する前に、私はその柄を握る。
 略奪の劫火はその役目を終え、火の粉を旋風に舞わせながら散る。七夜の身
体は一片たりと残っては居なかった――兄さんはこの森に七夜が眠るのを情け
としたが、私は彼を大地に帰すことを許さなかった。

 ただ、私の手にはナイフがある。
 それは鋼と硬木を組み合わせて出来た、工芸品であった。手の中でずっしり
と重く沈むナイフを手に、私は振り返る。

 赤く燃える森を背に、兄さんが静かに横たわっている。
 その横にはレンがしゃがみこみ、私を不思議そうに見つめていた。
 私は片手にナイフを持ち、兄さんの方に帰っていく。そして赤々と照らし出
される兄さんの静かな顔を見つめると、レンと並んで腰を下ろす。

 兄さんは――ナイフを握っていなかった。いつの間にか兄さんの手からは消
え失せて、ただ胸の上に組まれている。私には手にしたナイフの刃をゆっくり
と仕舞うと、兄さんの手の内に取らせた。

 兄さんは、ぴくりとも動かない。
 私は兄さんの傍らに座り――そして、身体を屈めて兄さんに被さり、抱きし
めた。

「……あの男は倒しました。これも兄さんの力のお陰です。だから――」

 兄さんは私の声を聞いているのだろうか?きっと聞いているに違いない。
 ただ答えはしない兄さんの顔に頬を合わすと、かすかな体温を感じる。極弱
い魂の残滓しか兄さんには残っていない――いや、もしかすると夢魔レンの力
によって生きながらえているのかもしれない。

 だけども、もうそれも終わりだ。
 私は兄さんの顔をじっと見る。それは静かな寝顔であった。
 そう、寝顔。そしてこれは夢。

「兄さんの力、お返しします――お休みなさい」

 私は兄さんの唇に――口吻ようとしたが、躊躇う。
 その代わりに前髪をかき分け、兄さんの額にキスをした。

 これで、悪夢は終わった。

 私は眼を閉じた。
 夢の中で眠るのはおかしな話だ。 
 私の意識の中には、薄くぼんやりと月の姿が浮かび上がって――


(To Be Continued....)