私は睫越しに、白い月を感じていた。
 身体の下には硬い感触がある。何か木材の上に寝そべっているらしい。
 頭の下にも枕みたいなものを感じるけども、それが何かは分からなかった。
ただ、屋外で私は仰向けになって眠っているようだった。
 そうでなければ、月など見えるはずがない。

「ん……」

 私は眼をこすると、ゆっくりと身体を起こした。
 夜風の中で眠ってしまったらしく、身体は冷え切っていて筋肉が硬く強張り、
血圧も低く元気ではない。ここはどこか――と辺りを見回す。

 木立と切りそろえられた茂み、点々と並ぶ街路灯、曲線を描いて伸びる遊歩道。
 そして私が眠っていたのは長いベンチの上であった。真夜中にベンチの上で
眠っているというのは、我ながらどうにかしてしまったに違いない。

 いったいどうして――と振り返ったそこには。
 首をかっくりと垂らして眠る、兄さんの姿があった。

「…………――――!!」

 そうだ、兄さんは私を助けに私の夢の世界の中にやってきてくれたのだった。
 あの七夜志貴との死闘が頭の中にまざまざと甦る。忘れたくても忘れられる
記憶ではない――それはいわゆる夢という不確定な脳のフラグメントではなく、
長く鮮明な身体の記憶だった。

 私は兄さんの身体に縋り付き、肩を揺すった。
 メガネをしていない兄さんの頭は振るたびに揺れて――もしこのまま崩れ落
ちたらどうすればいいのだろうか?私が言いしれぬ不安に怯えていると……

 兄さんの頭が上がり、私を向く。
 うすぼんやりした顔で兄さんは私の顔を見つめ、そして左右を二三度探って
から再び私の顔をもう一度眺めてくる。
 兄さんが上着の内ポケットからメガネを取り出すの見て、私は安堵のあまり
がっくりと頭を垂れる。よかった、兄さんも無事だった……そう思うと身体か
らくたくたと残っていた力が漏れだしてしまいそうなほどの感覚。

「……ああ、無事だったのか。よかった――秋葉」
「兄さんこそ……目を覚まさないんじゃないのかって不安で……もう……」

 私の声は震えていた。緊張が解けてどっと感情が吹き出し、嬉しいのと哀し
いのが入り交じった、ただ振幅の多い感情の波濤に私は内側から震え出す。
 兄さんの目の前で私は、肩をぎゅっと握りしめて――何か言おうとしても嗚
咽に変わる喉を振るわせて、せめて言いたいことの一部でも伝えようと。

「兄さんが……七夜を……私が……目を覚まさなかったら……でも……」

 私らしくなく、喋る言葉が完結せず、つぎつぎに何かを言おうとし、そして
押し寄せる感情の波にそれは幾重にも打ち寄せられ、重ねられていく。
 私は顔を伏せ、流れる涙を堪えようとした。兄さんも私も無事だった、泣く
ことなんか何もないのに――でも、身体が泣くことを欲しているようなそんな
感触。

「……よし、秋葉……よしよし」

 兄さんが私の頭をそっと撫でてくれた。
 それが、その掌の暖かさが私を堪えなくさせる。涙の淵で揺れていた私はそ
のまま兄さんの胸元に身体を投げ出して――

 泣いた。
 嬉しくて、その嬉しいことが私の感情のバロメーターを越えてしまって泣く
しかなかった。あの七夜を倒し、兄さんと共に帰って来られた。それが何より
も嬉しくて。
 私は兄さんに優しく抱かれながら、ただ――泣いた。

「……秋葉、よくがんばった。よく……」

 兄さんは優しく私を慰めてくれた。
 涙は私の中を埋め尽くし、様々な思考を洗い流す。ただ私は涙の流れるまま、
声を上げて泣き続けた――この涙が七夜との戦いの傷をいやしてくれればいい、
そんな風に思えるほどに。

 どれくらい泣き続けたのか。
 やがて私の中は泣くことによってすっきりと清められ、兄さんの服に涙で染
みを作ってしまったことに気が付くようになると、私はようやく泣きやみ、顔
を起こす。

 きっと泣き崩れてひどい顔になっているだろう。
 でも、そんな私に兄さんは優しく微笑んでくれていた――

「七夜は秋葉が倒したのか――やれやれ、俺が出て来ても役立たずだったな」
「そんなことはないです。兄さんがいなければ……私は……」
「そうだ、それなら……この娘も褒めてくれよ?」

 兄さんがそう、首をずらして告げる。
 それは私の背後にいるようだった。兄さんから身体を離して後ろを振り向く
と――

 そこには、黒猫がお座りをしてこっちを見ていた。
 黒い大きなリボンを着けた黒猫が闇の中に現れていて――ただ、この猫とい
う生き物が私を見ているかと思うと内心感じる怖じを禁じることが出来ない。

「ね……猫じゃないですか、兄さん」
「ああ、あれがレン……俺をお前の夢の中に連れていってくれた。レン?」

 兄さんが呼ぶと黒猫は、首を上げる。
 そしてゆっくりとした足取りで私の方にやってくる。これがあの青い髪の少
女だったレン――と言うのはにわかに信じられない。たしかにレンは命の恩人
だ。
 でも、猫であるというのがどうにも我慢できない。生理的にどうしても受け
入れないその動きを見て、私は猫の進路から飛び退く。

「秋葉……はぁ、そうだったな」

 兄さんはビックリして私を見ていたが、私の猫嫌いをようやく思い出したら
しい。
 でも兄さんはおもしろがるような瞳で私を見ながら、レンを抱き上げる。黒
猫は私を見て笑った……と思うのは気のせいだろうか、でも兄さんの腕の中で
悠々と身体を横たえる。

 兄さんは恋しいが、その上に猫がいるとなると――
 私はじり、と兄さんと対峙する。せっかく良い気分だったのに、猫に邪魔さ
れることになるだなんて――

「秋葉?レンになにか言うことは?」
「ま……まぁ……」

 普段ならそんなことを言ってくる兄さんを叱りつけているはずだった。
 ただ、今日はこのレンに借りがあることは確実だった。私は鼻の頭を掻くと
ぼそぼそと歯切れ悪く答える。何となく兄さんの顔に目を向けづらくて――

「……今日のこともあるので、我が家にその猫がいること、兄さんが飼うこと
は大目に見ます」
「可愛くないねぇ……まぁ、いいか。秋葉らしく調子が戻ってきたようだしね」

 兄さんは黒猫の背を撫でながら苦笑していた。猫は兄さんの手にさも気持ち
よさげに喉を鳴らしていた――そんなに猫ばかり可愛がらなくても良いのに、
と妬けるくらいに。
 ふと兄さんは空を見上げる。私もそれにを釣られて空を見上げると――

「月……綺麗ですね、兄さん……」
「ああ……そうだな」

 白銀の月は、汚れなく空に輝く。
 そう、夢の中でもあの月に見守られて私は戦ったのだった。
 私たちはそれ以上に言葉は無かった。ただ私の中にも、きっと兄さんの中に
も言葉に余る万感の想いがあるのだから――

「……帰りましょう?兄さん。我が家に――」
「そうだな……しかし、俺も秋葉と二人で門限破りだな。さて、琥珀さんにど
う言い訳するか」

 ……言われてみればそうだった。私も兄さんも、夜中に屋敷を抜け出して来
てしまったのだ。私はあのときに無我夢中でそんなことを気にはしなかったし、
兄さんはきっと頭の片隅にそれを押しやって私を捜しに来てくれたのだろう。
 七夜という大敵が居なくなった今、我が家の規則が一番の問題になるとは…
…何ともおかしい。

 私はくすりと笑うと、兄さんの傍らに寄り添った。そして腕を絡めると――

「兄さん?ご心配には及びません。だって私がいますもの」
「はは、それは心強いな。じゃぁ、行こうか――」

                                          《fin》 

 

 

 

【あとがき】

 どうも、阿羅本です。皆様、長いSSでしたがおつき合い頂き有難うございます。
 今回の200万ヒット記念と云うことでこちらのSSをアップしましたが、100万の時には
遠野家コスプレHものだったので、なかなかの進歩……なのかなぁ、とか考えております。

 このSSですが、書くきっかけになったのはMoongazerに寄稿頂いた狂人(クルートー)
さんの諸作品に触発されて、というのがあります。特に七夜志貴を巡る話などのクールで
秀逸な文章を目にして、ああ、こういうのが書きたいなぁ……と思ってこのSSを書き始め
たのでございました。それでも遥かに及ばずなんというのか……でも、シリアスなバトル
を書いたので久々に自分がどうなっているのかを確認も出来ました。

 志貴が出て来た割に不甲斐なかったりするのですが、そこが……まぁ、秋葉が主役
ですので(笑)。お話の仕組みとして秋葉と志貴の夢が繋がっている、というギミックを
使っていますが、これは秋葉と七夜だと容赦ないだろうなぁ、とメルブラをやりながら思っ
ていたのですが、本当に容赦がないのはワルクェイドv.s.七夜でしょうなぁ(笑)
 で、色々とやったあげくにこんな話ですが、なんというのか……何なんでしょうねぇ、
七夜、自分で書くと「くさっ!青くさっ!」とか思って秋葉に偽芸術家とか思わず叫ばせて
しまいました(笑)

 いやぁ、でもこれくらい書くと結構爽快です、それにハッピーエンド&和姦主義者である
阿羅本の面目躍如と云いましょうか(笑)。こういうものも書いていきたいですね。

 でも、えろ&ばかえろの世界が私を呼ぶー、とか台無しのことを呟いてみたり(笑)

 それでは皆様、これからもよろしくお願い致します。

 でわでわ!!

                                    2003/07/30 阿羅本