空には雲一つ無い。そして、浮かび上がる白銀の月――
「何――何が……何故……」
その白い光に照らされ、浮かび上がる驚愕の横顔。
七夜も遅ればせながら気が付いたらしい。
私の襟首を掴む指の力が抜け、私の身体は解放される。思い出したように喉
に締め付けられた痛みが走り、喉をさすって咳き込む。
「何故だ!なぜ我が舞台が変容する!我が殺人劇を邪魔する輩は誰ぞ!」
「……ここを勝手にお前の舞台にするな」
不機嫌な宣告の声が響く。
だが、その声の主の姿は私の目にも、七夜の眼にすらも映らない。生え茂る
森の木々が影の中から浮かび上がり、鬱蒼とした森を作り出していく。そして
枝葉の模様の月影が、私の上に差す。
この声は……この声は聞き間違いがない。今まで似て非なる声を耳にしてい
たが、この声だけは私の魂の中に刻まれた優しい声。抜けた身体の力、締めら
れた喉、その身体の全てを忘れて私は叫んでいた――
「兄さん――!」
「そこかっ!遠野志貴!」
七夜志貴が真上にナイフを切りあげる。
龍の如く舞い上がる鋼の閃光が、宙を薙ぐ銀条と交差する。その二つの刃が
打ち合わされ、火花を飛ばすのを私は見た。そして空中に忽然と現れた、ナイ
フを振るって身体を飛ばす兄さんの姿を。
兄さんは空中で姿勢を変え、斧のように足を振り下ろす。それを両腕で七夜
が受けるが、すぐに二人とも弾かれたように飛ぶ。
そして、私のまえにすっくりと立ち上がる――兄さんの背中。こんなに兄さ
んの背中が大きく、頼もしく見えたことがなかったほどの、手を伸ばして抱き
しめたくなるほどの。
ああ……これが死に逝く私の夢であったとしても、私は悔いまい。
兄さんが私を助けに来てくれたのだから……
「大丈夫か?秋葉」
兄さんは振り向きもしないで尋ねてくるけども、邪険にされている訳ではな
いのは分かる。目の前にいる七夜志貴からわずかでも瞳を逸らす危険を兄さん
は知っているからだ。
兄さんが助けに来てくれた――でも、どうしてここに私が居るとわかったの
だろうか?
見渡せば辺り一面は深い森、私と兄さん、そしてあの七夜志貴が居るのはわ
ずかに開けた木立の隙間であった。この森は私の記憶にはない……遠野の森で
はない、どこかの深い、原始の薫りのする森。
「ええ、私は……兄さんこそどうしてここに?」
「……秋葉、ここがどこだか分かるか?」
兄さんは短く尋ねてくるが、私は知ろう筈がない。
だけども私の答えを待たずに、兄さんは簡潔に応える。
「今まで秋葉が居たのは秋葉の夢、そして今居るのは――俺の夢の中だ」
「そんな……夢?これが?でもなんであんなのを夢を……」
「俺とお前の夢を蝕むヤツかいるからだよ――お前のことだ、七夜」
兄さんは疎ましげに吐き捨てる。
私は兄さんの向こうの、七夜の姿を見つめる。膝まで下草に埋もれさせた兄
さんにあまりにもよく似たその男は、口元を引きつらせてこちらを睨んでいた。
「ほう、我を夢魔というか」
「いや、本物の夢魔がいるのにキサマ如きをそう呼ぶのは失礼だろう。レン!」
兄さんの名前が鋭く呼ぶと、私の後ろでがさがさと草をかき分ける音がした。
木立の間の深い草木をかき分けてやってきたのは青い髪に黒いマントの、幼さ
の顔に残る背の低い少女であった。彼女はどこを見ているのか分かりづらい瞳
を私と、振り返りもしない兄さんに向けている。
見たことがない少女であった。
だけども、レンという名前と――私の家の住み着いた黒猫と同じ黒いリボン。
こんな女の子がどうしてここに、そしてなんで兄さんの知り合いなのか?
「はは……分かったぞ、遠野志貴。お前がこの舞台の呼ばれざる客となった訳
を」
向こうの七夜もレンという少女を見つめていた。彼は冷たい怒りに歪んだ顔
で、手にナイフを弄びながら吐き捨てる。
「そこの夢魔の力で、夢を伝って我が殺人劇の邪魔をしにきた――そういうこ
とか」
「……そもそもお前は俺の悪しき影だ、七夜。それが秋葉の夢の中にまでちょ
っかいを出している――許せるわけは無いだろう」
兄さんは吹き付ける吹雪のような冷たい七夜の殺気を前に、千年の古木の如
く動じない。レンは横たわる私の傍らまで来て、不思議そうに小首を傾げてい
た。この少女が夢魔――なのだと兄さんは言うが、にわかには信じがたい。
レンはしゃがんで、私の肩に手を伸ばして来る。この少女が私に何をしたら
いいのかが戸惑うような、そんな気後れのしている仕草であった。
「そもそも俺と秋葉は命を分け合っている――迂闊だったよ。俺の中の夢であ
った殺人鬼のキサマが魂を伝い、秋葉を苛んでいたとはな」
「だから夢魔の助けを借りて妹の夢の中にまで現れた――そういうことか」
兄さんと七夜は対峙し、二人とも一歩も動かずに言葉を交わしている。
ただ七夜は神経質そうにナイフを握り替えていたが、兄さんは身動きもせず
にだらりと腕を下げて私を七夜の前から隠すように立ちふさがっている。
「秋葉がお前の名前を口にしたからね――おかしいと思ったんだよ。しかし」
兄さんは、私があの朝に言った言葉からここまで察していただなんて――い
つもの昼行灯の兄さんとも思えない。いや、兄さんはこういうことに関しての
直感と嗅覚は私以上なのかもしれない。
「なぜ、お前が俺ではなく秋葉を狙う?」
「……答える義務はない。ああ、さらに言うと答えもない。殺人は我が問いに
して答え、究極の一、お前も知っている当然の理。なれど何故問う?」
七夜の声は嘯くような響きがある。
しかし、信じられない。私と兄さんの夢が繋がっていて、それで――兄さん
の悪夢が私を殺しに来るだなんて。それを兄さんはこの夢魔の力を借りて倒し
に来ている……とは。
私の肩に触れているレンの手がゆさゆさと肩を揺さぶるが、私はされるがま
まに横たわっていたが、やがて背中に回り込んで脇の下に手を入れ、私を助け
起こそうとする。小さな身体なのにレンは私を――
兄さんは七夜の声を前に指先一つ動かしはしない。
私の目から見る兄さんの姿はゆらり――と歪んで見える。目の錯覚か、陽炎
が立ったみたいな。深い森の中は風が木々の葉を揺らし、横から吹き付け兄さ
んと七夜の上着の裾をはためかせる。
「そう――答えるか。そうだな、七夜、キサマとの決着はまだ着いていない」
「妹の代わりに兄が闘うか――殊勝な心がけだな、だが俺にしてみれば望外の
収穫だ。シキであるお前と闘えるのだから――そしてこれがお前が選んだ舞台
か?」
「そう……ここは全てが始まった七夜の森。ならばお前が戻るのもこの森の大
地の下――それがせめてもの情けだ」
兄さんが……笑ったような気がした。
そしてそれに反応したかのようにクク――と七夜も頬を引きつらせて牙を見
せる。二匹の猛獣が睨み合う、そんな危険な空気。
私は上体だけレンに助け起こされていたが、ズキズキと痛むお腹を押さえて
荒く呼吸するのが精一杯。兄さんの助太刀も出来そうにない。
そんな私の心を読んだのか、レンがぎゅっと私の胸を後ろから抱きしめる。
あの闘いに行ってはいけない――と不安がるように。
「兄さん……」
「秋葉はじっとしていて。レン、秋葉のことを頼んだ」
そんな兄さんの言葉にこくりとレンが頷くのが分かった。
兄さんと七夜の間の空気が途端に密度を増し、粘性すら帯びていくのが私に
も感じられる。さっきから兄さんも七夜も一歩たりとも近づいていないのに、
すでに二人の間では幾たびもの刃が交えられたきな臭い闘いの薫りが漂ってい
るような――
七夜志貴は手に持ったナイフと腕を交差するように構える。
一方の兄さんは逆手にナイフを持ったまま、無防備なほどの構え。
でも、兄さんも油断しているわけではない。一手でも七夜が切り込めばすぐ
に反撃をし、なおかつ逆襲に転じることが出来る――満々と水の湛えられた堤
のような重厚さ。
七夜の方も、炉の中で真っ赤に燃える石炭の熾のような――空気を吹きかけ
れば今にも炎を吹き出し燃え狂う予兆を内に秘めて。
「……俺を見くびらないことだ、そこの遠野秋葉の中の狂える力を斬ることが
出来る――それほどに今の俺は極まっているのだからな」
「ほぅ……面白いことを言うね。それは今の俺も同じ、お前は醜い死の筋がく
っきりと浮かんでいる――見えているんでね、俺には」
風が止んだ。
全ての音が死に絶え、耳が痛いほどの沈黙が辺りを支配する。
何か一つ、音が鳴る。それだけでこの沈黙の均衡が崩れ去る。私のこの鼓動
が静寂を乱しはしないか、そう不安になるほどの――
見えないはずの兄さんの唇が動くのが、何故か分かった。
そして、七夜の醜く怒りに歪んだ口元かほどける。
静寂の中に、闘いを告げる鐘が鳴る――それは二人の異口同音の言葉だった。
「「――――死ね!」」
一陣の突風が吹き、兄さんと七夜を奪い去った。
いや、風に吹かれて飛んでいって締まったのではない。
兄さんと七夜は同時に消えるように跳んでいた。それを私の目が追いきれな
かっただけのこと。
ギン!
(To Be Continued....)
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