「――――――――――!!」

 私は天にある筈の月を見ていた。
 だけれどそこには何もなく、緞子のような黒く厚い夜の帳が降りているだけ
だった。
 何故私は月を探したのだか――分からない。

 私は檻髪を繰り、七夜志貴を奪い尽くそうとした。だが一瞬の差で七夜を取
り逃して姿を見失う。どこに――それを探し、奪う筈の瞳は空を向いていた。
 
 なぜか、私は七夜ではない何かを探していた。
 なぜか――

 私の身体が揺らぎ、後ろに向かって倒れそうになる。
 そのままだと尻餅をついてしまいそうになり、態勢を立て直そうとする。だ
けれども身体が言うことを聞かない。今度は前のめりに崩れ落ちそうになった。
 いったい何が――それを判断する暇もなく、私はぐらりと前に傾く。そのま
ま頭からぶつかりそうだったけども、片手がなんとかそれを防げるかと……
 
 私は無様にも、うつぶせに倒れ込んでいた。
 アスファルトの地面に倒れ込むようでありながらも、このニセモノの大地は
私の身体を軋み弾んで受け止める。ただ私は地面に着いた自分の腕と、それに
絡む黒い髪を見つめる。

 闇に染めた絹糸のように黒い髪。

 なぜ、私は紅に転じた筈なのに――そうだ、こうやって意識を保っているの
もおかしな話だ。そうなると、私はいったいどうしてしまったのか。

 俯せに倒れながら、私は戸惑う。唇を噛みしめる顎にも満足な力が入らない。

「……許したのは一刀のみか。たかが、というか流石、というか迷うところだな」

 どこかで声がする。倒れ込んでしまった私はそれが、背中の方で――ちょう
ど七夜志貴と面していた180度向こうの辺りであったと推測することが出来
た。だけども、身体は動かない。地面についた頬を起こして、身体の下に敷か
れ、手にまとわりついた長い髪を見つめる。指に絡まる黒髪をゆっくりと握る。

「やられた……わね」

 私はそう囁くのが精一杯であった。身体の中の力が根こそぎ奪われていって
しまったかのような、そんな虚脱感。口を開けて言葉を吐くのにも、全身の力
を振るわないといけない。
 そうだ、七夜志貴は私を斬ったのだ……すれ違いざまに、何度刃を繰り出し
たのか、それを何度私は本能で止めたのか、覚えては居ない。

 だけども、この男が言う様に、私は確かに斬られた。
 身体に痛みはなく、喉元に迫り上がる血潮の苦しさも無い。それでも斬られ
たのは確実だった。

「わざわざ、私の中の……だけを殺すだなんて……」
「それがお前の中で剥き出しで一番無防備だったからな、斬らせて貰ったよ―
―」

 そうだ、七夜志貴は私の中に現れた、遠野の紅い力だけを斬ったのだ。
 そんな器用な真似が出来るだなんて言うのは信じられないが――直死の魔眼
の力は、余人である私には推測も着かない。それゆえにこの七夜志貴という男
は、不可解なほどのこのチカラをかくも巧妙に操ることが出来るのか、と。

 その結果、私は車輪の片方を外された車のように、倒れ伏すばかり。
 忌まわしい遠野のチカラがなくなって良い――というものではない。それと
て私を生かしておく力なのだから、これが無くなればこんな醜態を晒すことに
なる。

 ギシギシと床を踏む音が聞こえる。
 それは私に近づいてくる足音だった。首をゆっくりと動かすと、髪の向こう
に私を睥睨する七夜志貴の黒い姿が見える。
 彼は笑っていた――それは蟻を踏みつぶし、水を浴びせかけ、死にゆく姿を
喜々として眺める子供のような、無邪気とも見える邪悪な笑い。手に輝く刃を
下げ、鼻歌も歌わずに私の元まで来る。

 彼は一瞬にして私の背後まで駆け抜けた――のか。
 なるほど、この男の戦いの力は並はずれている。私の檻髪の結界を切り裂き、
胴抜きにすれ違っていったのだから……

「……」

 私は髪によって霞む向こうの、七夜の顔を見上げる。
 彼は私を蔑むような瞳で見つめていた。そして、足が上がる――私が見える
のは、七夜のスニーカーの裏の模様と――

「ぐうっ!」

 ぐわん!と蹴りつけられる激しい痛み。
 ナイフで切られたときには痛みはないのに、頭を蹴りつけられる痛みの方が
遥かに響く。七夜は私を蹴った、というよりも踏みつけていた。
 側頭部にぎしぎしと靴底がめり込む。私の視界を塞ぐその黒い屈辱と苦痛の
影。

「ぐ……ああぁ……ぐっ、げほっ、あが……」
「これが高い?これが高貴なお前の命だと――笑わせる。今のお前は地虫のよ
うに哀れに地面に這い蹲るばかり、こうして俺に踏みつけにされてもお前は何
も出来はしない」
「あっ、ああぁ……うぁ……」

 ぐりぐりと、私の頭に押しつけられる靴。それは力を込めて私の頭蓋を踏み
砕こうとする、容赦のない踏み込みであった。
 内側から弾けそうな私の頭を庇おうと腕を伸ばすが、七夜の慈悲のない足か
ら今の私は逃れることは出来ない。そして、私に浴びせかけられる七夜の面罵。

「高言の挙げ句にこの様か――無様だ、失望させてくれるわ、遠野秋葉」
「貴方をなぜ、満足させてやらなくちゃいけないのよ……」

 私はそう、憎たらしげに言ってみせる。
 その言葉に七夜は反応していた――足を掛けられている格好なのに、この男
の身体から殺気が吹き出るのを感じる。
 私は死を覚悟は……しなかった。この男のことだ、殺すつもりならもう殺し
ている。

 だけど――

「ふぐあっ!」

 痛い。
 痛い痛い――
 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……!

 私はお腹を抱えてうずくまった。頭から離れた七夜の足は、私の脾腹を蹴り
抜いていた。こうして志向がま止まっているのが奇跡のような、息が詰まり、
内臓が割れ、口から血を吹きそうな程の鈍痛――

「あっ、あぐぁっ、はぁ……ふぐぅ……」
「無様だ、無様だ遠野秋葉。高言を弄し屈辱にまみれ、斯くの如く醜い死に沈
むのが俺を満足させたくないからだと?巫山戯るのもいい加減にしろ――死と
戦いを冒涜した以上、たやすくその死の腕に抱かれると思うな……お前は死よ
りも苦痛のなかに沈め、狂わせてやってもいいのだぞ」
「はぁっ……はぁー、はぁー、はぁー」

 ようやく呼吸が整う。内臓と骨がやられたような苦痛。もう立ち上がり抗う
力は私にはない。七夜志貴は私に言いたいことを言った後で腕が伸びてくる。
それは私の襟首を掴んで引き上げて――

 目の前に、七夜志貴の苛立つ顔がやってくる。眼を細めて口を吊り上げた、
冷たい悪鬼の如き形相。これが兄さんと同じ骨相で成り立っているというのが
厭でたまらない。
 七夜志貴は私の顔を至近距離で睨んだ。

 私と七夜志貴の間に、蒼銀色の刃が差し込まれる。
 刀紋が生き物のようにくねる刀身が、暗く輝く。触ると全ての熱を吸い上げ
そうな刃がぴたり、と私の鼻の下に宛われる。

「……せめて最後を汚さず美しく死にたいと思うのなら、答えろ」
「…………」
「なぜ、あの瞬間に俺から目を離し、闘いの手を抜いた?」

 そうだ。
 私はあの瞬間に七夜を見つけ出していれば、形勢は逆転していまごろ略奪の
炎の中にこの男は息絶えていたのかもしれない。だけども私の目はそれを探し
てしまった。
 空に浮かぶニセモノの月を。なぜ、私がそれを探したんだろうか――

「…………ああ」

 私は七夜の恫喝も、苦痛と死の刃も今の私には関係がなかった。
 私の瞳はそこより先の、この舞台を見ていたのだ――そう、そこで何かが変
わりつつあったのに、私は気が付いていたのだ。

 それは、この男の死の刃よりも重要な意味がある。

 そうだ。今なら分かる。
 何故月を探したのか――それは舞台が変わったのだから。
 ニセモノの銀紙の月は沈んでいた。その代わりに……影絵の裾から姿を現す
本物の月。
 それは青白く、神々しい輝きに満ちていて。

 月の光は、世界の不実があるを認めない。日は青天白日の下に魔を追うが、
月は闇と魔の虚実の一切を剥ぎ取る。
 そう、私はこの月を探していたのだ。

 私が顔を背けている本当の理由を、この男は気が付いてない。
 刃が私の顔の産毛を剃りそうなほどにナイフのエッジが肌を撫でる。横に引
かれれば深い傷が残るだろう。だが、今の私はそれに恐怖も畏怖も感じはしな
かった。

 そうだ、もうすぐ――それが――やってくる――
 こいつは――兄さんなんかじゃない――だって――

「この期に及んで何を言い淀む?遠野秋葉?」

 冷たくなじるような七夜の声に、私は咳き込み答える。

「馬鹿ね――貴方、これに気が付かないだなんて」

 私は七夜に冷笑して見せた。
 私の視界の中で、月が半ば姿を現す。それだけで十分であった。
 高さのちぐはぐな、三角と矩形の重ねて出来た影絵の輪郭が月に震える。そ
れは波紋のように広がり、街影ではない新たな姿を造り始める。

 風が吹いた。

 それは森、深く静かな森の姿。
 影だけが作られている筈なのに、私の鼻に森の水蒸気を含んだひんやりと冷
たい薫りが広がる。この空気は清く、私の身体に染みこみ癒すように広がって
いく。月を中心として扇状に広がっていくこの世界の変貌。足を着く大地もニ
セモノの舞台ではなく、落ち葉の積もった柔らかい土に変化していく。

 空には雲一つ無い。そして、浮かび上がる白銀の月――

(To Be Continued....)