その瞬間をどう喩えればいいのだろうか?
 そう、それはまるで真っ暗な袖を腕引かれ、突然スポットライトを当てられ
た舞台の上に連れ出されたような、足下の世界、自分を取り囲む空気、その全
てが一瞬にして変貌してしまい自分を押しつぶしてくるような、そんな強烈な
世界の変貌。

 足下に踏んだ地面も感覚が無く、自分の面していた方向も忘れ去ってしまっ
た。

「………ここは……」

 私は四方を見渡す。私が歩いていたのは公園の門を潜り、信号の青く灯った
交差点の真ん中の筈だった。だが、そんな町中のあるべき光景とは似ても似つ
かない、異様かつ現実離れした風景が広がっている。

 ……ここは、ココハ

 書キ割リノ町ニ、舞台ノ大地。
 私ヲ取リ囲ム町ノ影ハ、切リ抜イタ紙デ作ラレタ黒イ影。びるノ作ル長方形
ノ不揃イナしるえっとニ、ナゼカ回転木馬ノチラツク影ト人ノナイ木馬ノ影ガ
混ジル。私タチノ周リヲグルリト取リ囲ム、切リ紙細工ノ影。
 イヤ、切リ紙デハナイ――ソノ切リ紙細工ニ幻灯ヲ浴ビセタ影ダ。ダケドモ
コノ影ハ暗ク濃ク、私ガ手ニ触レバソノ影ノザラリトシタ手触リヲ感ジルカト
思エルホドノ。

 ソシテ私ガ踏ンデイルノモ、あすふぁるとニ見エルガ舞台ノ床ダ。
 足ノ下デ朽チルハズノナイ大地ガ、アリエザル悲鳴ノヨウナ軋ミヲ立テルノ
ガ聞コエル。私ガ一歩歩クタビニぎしぎしきぃきぃト――気障リナ音ヲ立テル。
 コノ音ハ聞イタコトガアル。古イ講堂ノ床板ノ立テル軋ミ音ダ。軋ミガ耐エ
カネソノ底ガ抜ケ、暗渠ノ中ニ落チテイク――ソシテコレガ私タチヲ暗闇ノ上
ニ浮カベル唯一ノ足ガカリ、モシ落チレバ、モウ浮キ上ガレハシナイ。

 書キ割リノ町ニ、舞台ノ大地。
 ソシテ私タチヲ照ラス照明ハ、天カラ吊サレタ白イ月。
 月ハ嘘ノヨウニ白クテ――何故ソコニアルノカガ分カラナイ。空ニ星ハナク、
ノッペリトシタ平タイ夜空ニ、釣リ糸デ吊サレタヨウナ月。
 アア、マッタク――コノ世界ハ偽リニ満チテイル。私タチヲ取リ囲ムノハニ
セモノノ世界、観客ノナイ舞台、俳優ノ居ナイ舞台、ソレナノニ――


 ソレナノニ、それなのに、それなのにわたし達が……

「……ぐっ………」

 リフレインされる悪夢、脳に差し込まれる硬く険しい記憶の痛み。
 私はこめかみを押さえてうずくまる。おかしい、こんなことはあり得るはず
がない、なぜ、なぜあの夢が私を繰り返し苛むのだ。

 私は身体をゆっくり起こし、目を覆う手を外そうとする――だけども、震え
る手は容易にそれを外れない。いや、外してしまうと何が起こるのかを察して
か、このまま闇の中に己の眼を隠していれば無事でいられる、とでも言いたげ
に。
 だが、そのような――枕の下に頭を隠せば、雷が去ってくれるというような
子供のような甘い逃避はないのだ。

 この手を外せば、そこには――
 私はゆっくりと手を下げ、閉じようとする瞼を上げ、影絵の闇の中に浮かび
上がる影を見る。

 誰もいなければ、それはそれで厭なものであったらだろう。
 だが、案の定というか、予告された題目の通りというか――そこに、彼がいた。

「……遅かったな、遠野秋葉」

 それは低く、揶揄するような口振り。
 私の視界の中に、憎たらしいほどすっくりと背筋を伸ばして立つ姿。
 それはズボンのポケットに手を入れたまま、不遜な――それでいて歓喜の色
を隠さない瞳を細く絞り、王者然とこの世界の中で佇立している。

 ――まるで、この狂気の舞台の主役を以て自認するような。

 私は笑いかける膝を押さえ、この男の前でせめても醜態を晒さぬようにと身
体を起こした。

「……遅いですって?私は貴方と待ち合わせした覚えはありません」

 そう、毅然と言い放ったつもりであった。だが、自分でも不覚なことに……
声がわずかに揺れている。感情を声に出してしまうというのは愚かげなこと、
それもこの男の前では――

 そんな私の内心を見透かしたかのように、目の前の男は――七夜志貴は嘲笑う。

「ふん、俺との邂逅を望まぬと?ならば問おう、なぜお前は夜の街を彷徨って
いた?」
「それは兄さんを捜して……」
「ほう、それは好都合、俺はお前の兄でもあるのだからな。遠野秋葉」

 小馬鹿にしたように口元を歪めて笑う七夜。眼鏡をしていない兄さんの顔が
あんな風な醜い笑いを浮かべるかと思うと、反吐が出る想いだ。
 こんな顔を見るのは、自分の中の大事なものに唾を吐かれ冒涜されるような
――そんな心地もする。

「おめでとう。今やその目的を達したわけだ――」

 七夜志貴はぱんぱん、と掌を叩き合わせる。その拍手の音は軽薄で、あから
さまな嘲りに充ち満ちていた。おめでとう、という言葉の中に潜む悪意。
 それに我慢し続けなくてはいけないという法はどこにあるのだろうか?いや
ない――

「嘘も大概にしなさい!貴方が兄さんではあり得ません!」
「嘘は良くないな。俺も私が遠野志貴でもあることを悟っているのだろう?故
にお前は俺を捜した、俺もそんな求めに応えるべくこの舞台に降り立った――」

 七夜は首を上げると、ぐるりと辺りを睥睨する。
 その先にあるのは、ぐるくると同じパターンを繰り返す影絵の街の黒いコン
トラストと、白い月。私が歩いていたはずの街でも公園でもない、不可思議な
空間の中。

 どこかの誰かに見られている舞台のようで、その観客席には誰もいない。
 無人の舞台に上がり込んだような、耐え難い虚無の空虚さ。
 この手を触れれば崩れそうでいて、それでも私を閉じこめる広すぎる檻のよ
うな、そんなこの世界。だけど、この世界をリアルなものにする為には流され
なければいけないものがある。

 私は奥歯を噛みしめ、腕組みする。
 私が何かを云うよりも、この主役を気取る七夜に喋らせておく方が何かが分
かるかもしれない。いや、そんなこともない、私もここが何をするための空間
であるのか気が付いているのだから。

 七夜志貴は全身でこの舞台の空気を味わうような仕草をしたかと思うと、私
をまるで気の利かない大道具の一つを見るような瞳で見つめてくる。
 ぞわり、と肌に粟を生じるような視線だった。

「………臆したか?遠野秋葉」
「誰が……兎に角私は貴方に用など在りません。さっさとこの舞台ごと退場し
なさい、そして二度と私の前に顔を現さぬことです」
「せねば、どうする?」

 七夜志貴が、右手を抜いた。
 その手に握られた、木の柄。親指が動くのが分かる。
 シャキン――と、発条が鳴る音とともに、鋼の刃が現れる。鋼は青く輝き、
影絵の黒の中にまるでそれ自身が意志を持ち光を発しているような、そんな錯
覚を覚える。

 七夜志貴は、傲慢に笑う。
 この笑いが気に入らない――もっと兄さんはのほほんと笑うのに、頭蓋骨に
張り付いたような厭らしい笑いを浮かべるのを見るのが我慢できない。
 怒りが心の底で、ごつりと――何かの硬い蓋を動かす。それは噴火口を塞い
だ岩戸。
 その下には冷たく燃える私の中の赤がある。

「力づくで俺を追い払う?いや、違うだろう?お前がすることは俺を殺すことだ」
「……………」
「そして、俺もお前を殺す。そうだ、前のお前との殺し合いが終わってない…
…ふ、く、くくくくく……」

 私が見ている中で、七夜志貴が肩を振るわせ、発作のような震える笑いに身
をよじる。
 汚らわしくもおぞましい笑い。森羅万象を呪い、憎み、嘲り、そして破壊せ
んとする衝動に身を委ねた醜い蠕動。

 唾棄したくなるこの笑いに喉を引きつらせ、七夜は闇の天蓋に咆哮した。

「良かったぞ?本当のお前のその力、その殺意、全てを奪い尽くし食らいつく
す破壊の波濤、まさにお前は魔だ、遠野秋葉、忌まわしい遠野の血を紛う方無
くその身に現している。すばらしい――」

 素晴らしくなどあるものか――こんな笑いをされて侮蔑と感じぬほうがおか
しい

「そしてこの俺は魔を討つ者、全身全霊を、いやむしろお前に敬意すら抱き、
お前を狩ろう、お前を殺そう、そうだ、それが宿命なのだよ。七夜と遠野、光
と闇、人と魔、幾度の戦いと幾度の死、すばらしい――」

 七夜志貴は謳っていた。青白い鋼の刃を天に翳し、陶然と戦いの色に酔いし
れながら。
 彼の姿はまるで、長い刃の生む悪夢の影のようだった。そこにあるのが兄さ
んの肉体ではなく、ただ殺すという意思が蟠って一つの姿を為したような、そ
んな不吉な影。

 この七夜志貴を奪い、貪り尽くしても――私の血は冷めたままだろう。
 そしてこの男が望むのは、私との殺し合いだという。

 私は左右を見回すが、誰もいない。
 聞こえる音は私の鼓動の音と七夜の哄笑、そして軽くつま先に重心を移すと
軋む地面の音、それ以外はしぃんと静まりかえっている。

 ――本当に、気の利かない舞台だ、ここは

「………さて、遠野秋葉。お前にはこの素晴らしい殺し合いを満腔から味わう
準備は出来ているのかね?」


(To Be Continued....)