……こうして私が夜の街の中を歩くのは、心配性とも未練ともいうべきだろ
うか?
遠野家を司る主である私が、自ら館を抜け出して無断外出する――いや、琥
珀なり翡翠なりに今夜は出掛けます、と一言言えば彼女たちは逆らいはしない
のだろう。だけども私はそれをしなかった――己の行動に信念が持てない証拠
だった。
なにも、私が夜中に外出することはないのだ。
兄さんのことを知りたければ琥珀に命じて興信所に探偵なり何なりで尾行さ
せれば一週間で立派な兄さんの行動記録書類が出てくるだろう。
だが、それではいけない――この疑問は私が確かめないといけない。
私は上着の襟を立て、帽子を目深に被って歩く。
こうして夜中の街に兄さんを捜す……なぜそれが、あの夢の謎を解くことに
繋がると私は考えたのだろうか?こんな事をするのは妄想に近い――いや、妄
想だろう。
でも妄想の夢である故に、それを押さえるには妄想である衝動に身を委ねる
……不条理なことであった。私の理性はそれを否定したが、私の本能はそれを
是とした。
「……………」
私は立ち止まって辺りを眺める。もうすこし歩けば駅前の通りにたどり着く
だろう。車も人の流れも昼間ほどではなく、夜の闇の中に光がまだらに穴を開
けている。
兄さんはどういう心地でこの夜の街を歩いているんだろう?いや、兄さんは
きっとあのシエルやアルクェイドと一緒にやに下がっているのかもしれない。
それなのに、私は一人寂しい思いをして兄さんを追いかけて――
「全く兄さんときたら……」
私の漏らした声を聞いて、道行くカップルの男が私を振り返った。
だがそれに目もくれない――こんな夜中に男女で腕を絡み合わせて歩いてい
る、ふしだらな組み合わせごときにに私を非難させはしない。
私は舌打ちを口の中で押し殺して、再び歩き始めた。
夜の街は暗く、それでいて明るい。まだ人通りが町中にあるためか、雑踏の
音と照明の光が混じり合い、夜の空気の中で人の世界として息づいている。
遠野屋敷の森に抱かれた、ひんやりとした沈黙とは全く別の世界だった。
それが歩いて二十分もしない駅前まで来るとこんなに違うというのは――自
分だけこの世界の中で取り残されているような気分にすらなる。
足を止めて見回し、兄さんも兄さんにつきまとう女たちも居ないと分かると
また歩き出す。
町中では私の顔をしげしげと覗き込む無遠慮な男たちがいた。中には私に声
を掛けてこようとする無礼きわまりない男まで居て、私をいったい誰だと心得
ている――と怒鳴りつけたくなる。
……だが、そうするわけにいかずに私は苦虫を噛みつぶし、不愉快になりな
がら歩く。
――なんで私はこんなことをしているんだろう?
――なんで私は兄さんを探しているのだろう?
理由となりそうなのはあの夢の七夜志貴と、兄さんがその名前を口にしたと
きに見せた深刻な殺意さえ帯びた表情。兄さんはあの夢に絶対関係があるはず
なのだ。
もうそんなことはない……とは思うけども、もしかして兄さんが街の中の殺
人の快楽に目覚めてしまい、それを私の警告として夢見ている。そんな可能性
を弄ぶ。
流石にそれはない。私の耳にどんな事故や事件も聞こえていないのだから。
そうなると、私はあの影絵の街と舞台の床を探しているのかもしれない。あ
れが現実にある光景だとは思えなかった。でも、全くの私の空想とも思えない。
交差点に、外注の角に、喫茶店の門前に、ビルのエントランスの前に。
私はいろいろな場所に立って兄さんを、そして何かを探し続けた。こんなに
長く歩き回るのならもっと頑丈な靴を履いてくれば良かった、と思うほどの―
―でも、抜け出してきたのだからそんな贅沢は言えない。
そうして思うのは――兄さんは毎晩抜け出して歩き回っているという、その
バイタリティ。体はあまり強くないのは周知の事実なのに、兄さんには私は思
いも寄らない強い力が宿っていると感じることがある。
そんな兄さんも、もっとその力を有効な方向に伸ばしてくれたら……と愚痴
っぽく思う。
「ふぅ……兄さんは何をどうやっても兄さんですからね」
疲れてくると、口にする言葉も愚痴っぽくなるらしい。
私は歩き、町中の公園に向かう。聞いた話によると兄さんはよくここに来る
という――それもあのアルクェイドやシエルと共に。もしかするとばったり居
合わせるかもしれない。
居合わせたときに兄さんがどんな動揺を見せるのかと思うと……ひどくおか
しい。
夜風に頬を撫でさせながら、私は歩く。
髪を纏めて上着の中に隠し込んでいるので風に吹かれる爽快感は少ない。そ
れでもじっとりと空気が地面に張り付き、徐々に腐るような凪の街の不快さに
比べれば幾分かましだ。
私はぽつぽつと青白い街灯が立つ公園にたどり着いた。緑の植え込みは闇の
中で青く照らされ、そこに私は人影を探すが――それとおぼしき人影は居ない。
ベンチに崩れている酔っぱらいとか、気分の悪そうな学生の背中を撫でている
仲間たちとか、腕を絡めて夜の散歩道を歩くカップルだとか……特に最後のは
むかっとするが、兄さんではないのですべてに狂犬のように噛みつくのは止め
ておいた。
ぐるっと公園を一周回ると、あらためて兄さんが居ないことを気が付き――
私は噴水の縁石に腰を下ろす。ざぁぁ、と水が吹き上がる音と空気の中の水滴
が作るイオンの薫りを私は感じながら、軽く唇を噛む。
――ここにも兄さんは居なかった。
いや、そもそも私はなぜここに夜、出歩いているのだろうか?
「……………」
溜まった疲労が私の頭の中を鈍らせ、ほとんど痛いほどに張りつめていた緊
張をほぐしていた。ほぐされたその隙間から漏れ出てきた私の思考は……
ここには至ってこの行動の当然の前提であったはずの事柄、何一つ確かなこ
とはないことをあらためて私は気が付く。そうだ、まず兄さんが今夜で歩いて
いるという確認も取っていないし、それに出歩いていたとしてもあの七夜志貴
と今の兄さんが直接関わりがあるのかどうかも分からない。それに、夜の街に
兄さんを捜してもそれが分かるわけでもないし、この夜の街が影絵の街に繋が
っているという確証もない。
つまり、私は妄想に恐怖して衝動的に夜の街を出歩いているのであると――
「…………なんて、馬鹿らしい」
そう呟いた自分の心が身に染みる。
そうだ、あれは夢の話なのだ――夢の話を兄さんにして、その反応に私が過
剰反応しているだけなのだ。それも心を病んだような妄想に襲われ、まるで心
神を喪失したように駆け回るだなんて……愚かでなんと見苦しい。
「ふん……これなら琥珀の薬でも飲んで、ぐっすり眠った方が良かったわね」
そう独白すると、私は立ち上がった。
少なくともこの街の中に兄さんを捜した……結果を得ることは出来なかった
が、私の心はその過程だけでも随分と満足できたらしい。この悩みと問題はも
う少し、落ち着いて考えると良い……
それに翡翠や琥珀、ひょっとすると兄さんも心配させているのかもしれない。
そうなると本末転倒だ――
私は足早に公園を去ろうとした。帰りの道は短くないが、ここで車を呼ぶわ
けにも行かない。タクシーは捕まえてもよく乗り方が分からないし、こうなる
と歩いて帰るしかない。
公園の門柱を潜り、二三歩歩いた途端に――
――私はどこにいるのかが分からなくなった。
(To Be Continued....)
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