「秋葉さま、どうぞ」

 琥珀は私に恭しくティーカップを進めてくる。
 私はその香気の漂うカップをゆっくりと手に取る。薄い磁器のカップはほど
よく暖められていて、その中にあるモーニングブレンドの濃くもしっかりした
薫りを減ずることはない。私は一口ミルクと解け合った味わいを舌の上に広げ
ると、軽く頷く。

「それにしても、今朝はいったいどうされたんですか?秋葉さま」

 私が朝食後の紅茶を楽しんでいるその矢先に、琥珀は私に尋ねてくる。
 使用人なのに主人の心中に過度の関心を示すのは感心しない――ということ
で無視しても良かったのであった。が、私の朝の身支度をしているのも琥珀だ、
朝のことは隠したり無視できたりするものではない。
 それに琥珀は私の健康管理も行っているから、無碍には出来ない。

 ただ、すぐに答える事はない。
 私は瞼を下ろしてゆっくりと紅茶を飲み続ける。琥珀もそんな私を傍目に朝
食の用意をしているようだ――そう、まだ兄さんは起きてきていない。
 このまま兄さんがやってきて朝の挨拶の内にこの話題がうやむやになってし
まう、それを期待したけども……兄さんにそこまで良いタイミングを求めるの
は無理と云うもの。

 軽く吐息を漏らすと、私はカップを下ろす。

「……なんでもないわ、ただ悪い夢を見ただけよ」

 私は片目のみ開いて、琥珀を探す。
 琥珀は兄さんのランチマットの上で手際よくセッティングをしていたが、私
の視線に気が付いたのか背を伸ばして私に向き直る。そして小首を傾げて……

「夢ですか?」
「そう、夢よ――くだらない夢だわ、まったくあんな夢を見ているだなんて」

 私はそう吐き捨てる。
 夢などと言うものは睡眠中の意識の再編集作業であり、そのフィルムの切れ
端を繋いで一本の作品にした夢など気にするのも愚かだ。精神科医には夢判断
もつきものだが、そんな心の中を自分の売り物の論理で押し込んでくる輩に世
話になるほど衰えてはいない。

 普通であれば、そんな乱雑なテープは覚醒した意識の炎の中にくべられて、
ちりちりと燃え尽きてしまう。
 でも、この夢だけは違った。
 私が目覚めても、夢は消えなかった。まるで悪意のサンタクロースに渡され
た、悪夢のビデオテープが枕元の靴下の中にあったような……そんなハッキリ
した夢の記憶。

 そのテープが赤く血塗れて手に残されていたら、人はどういう反応を示すだ
ろうか。
 恐怖に震える?いいや、不快になるだけだ。

「はぁ……夢ですか、それでしたら宜しいのですが。もしお加減が宜しくない
のでしたらお薬を調合致しましょうか?最近は良い薬が出来てきていますから」
「いいえ、結構よ……」

 睡眠薬にお世話になるほどのことではない。
 軽く頭を振り、カップを下ろす。琥珀は心配そうな顔で私を見つめているの
で、安心しなさい、とばかりに微笑んでみせる。
 でも、今の私の表情にどれほどの力があるのか――自信はない。こんな弱気
になってしまうほどにあの夢は生々しく、おぞましく、そして――堪えきれな
い欲望に満ちあふれていて。
 今こうして穏やかな朝の食卓にいるのが嘘なのかもしれない……それは妄想だ。

 琥珀も私も言葉を掛けづらく、静かに時間が過ぎる。琥珀はキッチンに戻り、
私は置かれた新聞に軽く目を通す。もうすぐ登校の時間で、兄さんには今朝は
会えないかもしれない。
 もう――兄さんの生活態度の不規律さだけは何とかしたい。何とかしたいけ
ども兄さんは兄さんだから――兄さんであって、七夜ではない。

 こんな夢を見た朝だからこそ、兄さんの顔が見たいのに。

 ため息を吐いて私は新聞を畳むと、立ち上がり琥珀を呼ぼうとする。
 琥珀――と名を呼ぼうとしたその矢先。急ぎ足の足音がした。私は声を止め
て戸口を眺めると、そこに現れたのは――

「おう、おはよう、秋葉」

 やってきたのは兄さんだった。
 学生服姿の兄さんはにこにこと屈託無く笑い、私に挨拶をしてくる。朝から
兄さんの調子はいいみたいで……私はほっと胸をなで下ろす。
 もし、いまここに現れたのがあの忌まわしい七夜であれば――私は逃れるこ
との出来ない悪夢の葛折りの中に巻き込まれてしまったことになるのだ。でも、
兄さんは兄さんで居てくれた。それだけで訳もなく嬉しくて――

「……おはようございます、兄さん」
「いや、翡翠が起こしてくれたんだけどもいろいろとあってねぇ……琥珀さん、
朝ご飯お願い」
「はーい、今参りますねー」

 兄さんはすぐに食卓に着くと、ミルクの入ったコップに手を付ける。私も上
げ掛けた腰を下ろした――まだ時間はある、兄さんと朝の穏やかな時間を過ご
すのは悪くない。
 だから、少しでも心安まる会話をしたいのに……

「お、今日は朝から機嫌が良いな、秋葉。いつもならお小言の一つもあるのに」
「……せっかくのさわやかな朝なのに、何を言い出すんですかまったく」

 なんだって兄さんはこちらにお小言を言わせる会話を振るのだろうか。
 琥珀がくすくす忍び笑いをしながら、兄さんの食卓に最後の品をそろえる。
湯気の立つ朝食を前にして兄さんは背中を伸ばして一礼すると、パンを千切っ
て勢いよく食事を始める。
 流石に兄さんも男性だから、私などより食は太い。そんな兄さんの食事を私
は微かに眉を顰めて見つめている。

 琥珀は笑いながら、兄さんの横でまるで告げ口するように小声で――

「でも、志貴さんのお陰ですよー」
「へ?おれの?」
「先ほど秋葉さまのお機嫌が宜しくなかったのですが、お越しになられると秋
葉さまもあんなに嬉しそうに……」
「琥珀、聞こえているわよ」

 釘を刺すと、琥珀はお盆で口元を隠して悪戯そうに笑う。
 まったく……琥珀には油断も隙もあったものではない。

「もう、秋葉さまったらそんなに意固地になられるとお肌に悪いですよー」
「まだ曲がり角前よ、私は。それよりも、兄さんに妙なことを吹き込むのはお
やめなさい、琥珀。それに兄さんをなにをにやにや笑ってるんですか」
「い、いやぁ?別に?」

 サラダを数口で食べきり、わしわしとかみ砕いている兄さんの答えは何か含
むところがあるような感じがする。私が腕組みして睨んでみるが、兄さんは食
事の手を止めずに私の瞳をおどおどと受け止める。
 ――いけない、私から望んだ長閑な場を崩すような真似をしている。

「……ふぅ、琥珀に笑われるのは納得いきませんが、兄さんに笑われるのであ
れば本望です。ですので笑いたければご存分に」
「そ、そうなのか……まぁ、秋葉も機嫌も体調も良いみたいだからよかったよ」
 
 みるみるうちに兄さんは朝食を口に送り込み、最後の果物に手を着けようと
している。
 兄さんのそんなのほほんとした声に、私は安堵を覚えて――時計を見やる。
 そろそろ時間のようだった。もっと長居したけども、そろそろ運転手がやき
もきし始める時間だった。通学路はお世辞短いと言える距離ではないのだから。

 ――そろそろ兄さんの学校に転校するのも、悪くないかもしれない

 そんなことを考えて私が立ち上がると兄さんが目線で私を追っている。

「もう登校か?秋葉」
「ええ……お先に行って参ります。琥珀!」

 私はテーブルから離れると、いつも通りに琥珀に迎えられながらこの食堂か
ら去ろうとする。兄さんは私を顔で追って、私も兄さんを名残惜しそうに見つ
めていたけども。
 ふと、差し挟まれる疑問。夢の名残、心の残滓。

 私はテーブルに着く兄さんを、一瞬見失う。
 そんなはずはないのに、すっと消え去って別の人間がそこに座っているかの
ような。

「兄さん?昨晩――」

 昨晩私が見た夢は――そんな他愛もないことを口走ろうとした。
 だけども昨晩、の言葉を口にした瞬間に、兄さんの顔にぎくりとした影が走
るのを見た。もぐもぐと口の中の者を咀嚼して飲み込む兄さんは、けだし平穏
を装って。

「さ、昨晩どうした?秋葉」
「……もしかして兄さん、また夜歩きをしていたのですか?あれほど我が家の
門限は――」
「そ、そんなことないぞぅ、ちゃんと昨日は部屋にいたって!」
「昨日は、と言うことはいつも出歩いていると云うことですか?」

 兄さんのしどろもどろな答えに、私はつい本能的に尋問を進めてしまう。
 聞きたいのはそんなことではないが、兄さんが隙を見せているとやはりそこ
にびしびしと打ち込まずには居られなかった。
 私の傍らで、琥珀がくすくすと笑いを浮かべている。

「……琥珀?もちろんあなたは昨晩の兄さんのことを知ってるわよね」
「ええ」

 琥珀は微笑んでいるが、それは私が正しいのか、それとも兄さんが正しいの
か?どちらとも取れる曖昧な笑みであった。多分琥珀のことだ、どちらに対し
ても答えを用意しているのだろう。だけども兄さんはそんな琥珀の懐に気が付
かずに――

「そ、そうだよねぇ琥珀さん、俺は昨日ちゃんとベッドの中に」
「ベッドの中にくさまんや枕を入れて、パーカーを着て夜22時に外出された
ことなんかないですよー、志貴さん」

 琥珀の言葉は語尾は否定であったが、内容は示唆……というよりディティー
ルの細かさは肯定そのものであった。おまけに兄さんは冷や汗を垂らしそうな
顔で凍り付いて口元に濁った言葉の固まりをくわえているような、情けない顔
で。
 遠野の家の長男が、こんなに情けない顔をしているかと思うと――

「へぇ……兄さん?昨晩そんなことが?」
「もうっ、秋葉さま?志貴さんが夜中に出掛けてそれに朝に帰ってきて仮眠を
取って翡翠ちゃんに起こして貰っているなんてことはありません!」

 琥珀は軽く怒ったように私に言うが、これもなんとも取ることの出来る複雑
な発言だった。琥珀の意図はこうか、肯定の内容と否定の文構造を持つ発言を
繰り返し、建前の魔術で私を惑わそうと云うのか。兄さんは気が付いていない
みたいだけども。

 ふん、と鼻で笑うと私は琥珀を無視して兄さんに向き直る。
 兄さんはというとびくびく怯えた様子で……情けないこと限りない。

「……昨晩のことは不問に付します。ですが……兄さん、七夜という名前にご
存じを?」

 その言葉をふと私は口にした。
 そうだ、あの男の名だ。兄さんの皮を被り、兄さんの声で死を語る不快な存
在、
 その名を口にした途端に――兄さんの顔色が一変した。

 不安そうな怯えがすっと消え去り、兄さんの目が細くなる。まるで獲物を捕
らえた猛禽類のような――そして指先に至るまで、不意に獰猛な力が宿り、指
先の動きの一つすらしなやかで凶暴に見えるような。
 私が逆に震えてしまうほどの――兄さんの変わり様。

「……ナイフに書いてあった名前だな。それがどうかしたのか……秋葉?」
「いえ……」

 兄さんの声には咎を責める色こそ無いが、私が答えるのを躊躇うほどの険し
さがある。兄さんの瞳は私を……いや、この部屋でないどこかを見つめていた。
 兄さんの眼鏡の向こうの黒い瞳に、青い光が――水紋のように走った気がす
る。
 私は軽く拳を握る。

「……一族の歴史を調べていたときに出て来た名前です。兄さんがそれ以上ご
存じのはずがありませんね……では、行って参ります」

 そう。
 私は嘘をついて、逃げ出してしまうほどの。
 なぜ咄嗟に嘘をついたのだろう?本当のことを話してしまえば……嗚呼、わ
かった。

 その瞬間に、私はあの悪夢に逆戻りする。
 この爽やかな朝の食卓は暗く歪んだ影絵の町になり、優しく笑っていた兄さ
んは立ち上がりあの七夜志貴となり、私に戦いと血と死を告げる。そして私は
逃げようのない悪夢の中で永久に赤い血と罪にまみれて彷徨い続ける。
 そんな夢に逆戻りするのであれば。

 ――ならば、嘘をつくしかない。

 私は足早に食卓を後にする、慌てて着いてくる琥珀を背中に感じながら。
 兄さんが私の話を聞いたあとに、どんな顔をしたのかを確かめる勇気もなく――


(To Be Continued....)