真っ暗な部屋で少女は微笑む。
正座を崩して自分の膝を抱きしめながら。
まるで、先程得た体温を逃すまいとするかのように。

突然。

音もなく扉が開いた。
柔らかな月光が部屋を包む。
その変化は特に秋葉の興味を誘わなかった。
膝の上に頬を乗せ、扉から見える白い月をぼんやり眺めている。

「秋葉さん……ですね」

女の声が部屋に響く。
されど秋葉は無視している。

「いい加減にしたらどうですか? このままでは死にますよ。遠野くんもあなたも」

静かな恫喝にも秋葉はまるで動かない。
その反応にカソック服を着た少女は声を荒げる。

「いつまで狂っている演技をしてるんですか!!」
「──演技じゃないわよ」

低く静かに言葉を紡ぐ。
視線は相変わらず、外。白い月の方を見つめたまま。

「な……」
「誰かは知りませんけど、他人の家を訪れたのなら先に名乗るが礼儀ではなくて?」

か細い声だが言葉ははっきりしている。
その声に青い髪の少女は目を細めた。
敵意寸前の警戒の色を全身から発しつつ秋葉を注意深く眺める。
理性も知性も十二分。
声音から感じる気迫も昔日のまま。

「秋葉さん、やはりあなた……」

だが、相変わらず秋葉は視線を外したまま。
睨み合いすらできない。
ふぅと、軽く息を吐くと芝居がかった口調と仕種で自己紹介を始める。

「覚えておいででないなら失礼しました。わたしは教会の者で、シエルと呼ばれています」
「教会? 狩人なら問答無用で私を狩れば良いでしょう?」

ぼそぼそと興味なさげに言葉紡ぐ秋葉。
素っ気無い態度は自信の現れなのか、諦観なのかはシエルの目から判別できない。

わかるのはただ一つ。
彼女の予想通り秋葉には理性が見えるということ。
かと言って、正気と決めつけるのは危険過ぎた。
カマをかけるべく言葉を選ぶ。

「遠野くんには、シエル先輩と呼ばれましたけど」

すると、静かに秋葉の顔がシエルの方を向く。
紺碧の視線と青い視線が絡み合う。

「……今は?」

ぶっきらぼうに秋葉は呟く。
低く、短く。
それは絶大なる自信の現れか?

「今は……」

秋葉とは逆に口篭もってしまうシエル。
狙いすましたようなカウンターにシエルの全ての計算は水泡に帰す。
凍りついている青い髪の少女に、紅い髪の少女は満足そうに微笑む。

「今、兄さんは私以外、何も見えない」

もはや興味がないとばかりに再び視線を外してぼんやりと月を眺める。

「遠野くんを独占できればどうなっても構わないというのですか!?」
「それだけが望みだもの」

怒声を歌うような声が打ち消す。
軽やかに優雅にそして決然と声は続く。

「兄さんは、私だけを見てくれる。それ以外、何もいらないわ」

その一言で勝敗はあっさり決まってしまった。
しかし、シエルとしても簡単に引き下がれない。
これぐらいで引き下がるくらいなら、わざわざ姿を現せたりはしない。

「……あなた、戻りたくはないのですか? 昔のあなたに。こんな未来も何もない状態から抜け出したくはないのですか?」
「シエルさんはこの髪を、この衝動を治せるとでも?」
「それは今すぐにはできません。わたしの記憶の中の魔術を引き出すことが出切れば──」
「結局できないのでしょう? それに……出来たとしても治りたくないもの」
「なっ……」

思わずシエルは絶句してしまう。
この答えをシエルは予想をしていなかったわけではない。
しかし、単なる予想とそれを実際に言われるのとではインパクトが違う。
最悪の答え。
それを導き出す式をシエルは口にする。

「まさか、あなた『反転』して満足だとでもいうのですか」

こくり、とそっぽを向いたまま秋葉は頷く。

「人間でなくなった私を、兄さんはこれ以上もなく優しくしてくれる。あんなに優しくしてくれるなら──遠野の血に恐れおののいていた私が馬鹿みたい」

再びシエルは言葉を失ってしまう。
自分の理性が弾き出した答えは全て当たっていた。
感情が否定しようとしていた答えが。

「シエルさん。あなた兄さんが好きなのでしょう?」

シエルの動揺を気にした風もなく、何気なくそう問う。
秋葉は癇が強い。少なくとも彼女の知っていた秋葉はそうであった。
ここで正直に答えることは逆鱗に触れるおそれがある。
しかし、シエルは敢えて正直に答えることにした。

「はい。男女としての好意というよりは、尊敬という言葉が近いかもしれませんが」
「そう。兄さんがあなたに興味を示したなら……あなたも闇の世界の人なのね」
「闇?」
「兄さんが興味を示すのは同類だけよ。あの人は七夜。天性の殺人者の一族の生き残り。いくら普通を装ったところで身に潜む血は生きている」

そのことはシエルも知っている。
シエルの得意の飛び道具では無くナイフでの戦いだったとはいえ、彼はシエルを圧倒した。常人の数倍の身体能力と百戦錬磨の経験を持つシエルを、ただの高校生が。
ほれぼれするような技量だった。
まさに殺人の天才としか言いようがない。

「……たしかに、わたしは闇の世界の住人ですね。この手は吸血鬼と……無辜の民の血で真っ赤ですから」
「ふうん。なら、あなた兄さんのことが理解できるのね。私も本当に兄さんのことが理解するには人を殺した方が良いのかもしれない」

ごく普通の口調でそんなことを言う秋葉。
彼女の力を持ってすれば、五人や十人を血祭りにあげるのは簡単だろう。

「でも……。男と女の間ではわかりあう必要なんて無いんですよ。知ってます? シエルさん」
「説明していただけるでしょうか?」
「兄さんは八年前の私にはあんなに優しくしてくれたのに、成長した私には全然優しくなかったんですよ。私の中身は何も変わっていないというのに、表面上の強気を見たら、もう守るべき妹とは思ってもらえなくなってしまった」

くりくりと彼によって編まれた髪を弄びながら秋葉は話を続ける。

「けど。兄さんの学校に転校して私が右往左往してしまった時、兄さんは優しくしてくれた八年前と同じように……嬉しかった」
「知ってます。わたしもその場にいましたから」

シエルの答えに興味を覚えたのか秋葉はシエルの顔を覗き込む。

「ああ、失礼しました。あなたはたしか先輩でしたね。兄さんと仲が良い。ずいぶん前のことなのと、服装が全然違うので気づきませんでした」
「いえ……」

秋葉の言葉が本当かどうかはこの場合たいして意味がない。
過去はどうあれ、今のシエルなど秋葉の眼中に無いということを意味するのだろう。

「私は気づいたのですよ。兄さんが望んでいた秋葉というものを。それは、兄さんの手助け無しには生きていけないか弱くて儚い存在。今の私なんてまさにぴったり」
「遠野くんのために、ありもしない妹の演技をはじめたというのですか!」

くすくすと笑う声に、低い声でシエルは呟く。落ち着いてはいるが怒気が孕んでいた。

「ええ。いけません? 私の望みは兄さんに愛されることですから」

無邪気な笑顔を浮かべつつ秋葉は答える。
良い考えを思いついた子供のように得意げに。そこには罪悪感の欠片もない。

「みんな演技をしているじゃありませんか。琥珀は翡翠の。翡翠は琥珀の。兄さんは普通の人という演技。あなただって、何かの演技をしているのでしょう?」
「……」

無言でシエルは秋葉を睨んでいる。
たしかにその通り。シエルは自分の心を偽っていた。
それには理由がある。立場、過去、目的……されど、どんな理由をあげたところで事実は事実だ。

「思えば、兄さんと別れてからの八年間の方が演技だったのかもしれません。遠野家当主としての演技をしていただけ。兄さんが帰ってきて、元の無力な私に戻ったとしたら?」
「それでも、言葉も喋れないほど狂ってはいないでしょう!」

シエルの叫びを秋葉はただ自らの髪束で遊びつつ聞き流す。

「喋ることはできませんよ」
「現に喋っているじゃありませんか!」
「『喋れない』ではありません。『喋ることができない』のです。私が正常なら兄さんは今ほどの興味を失うわ。だから、喋ることができないの」
「そ、それは……」

それはあまりに哀しいじゃないですか……シエルはその言葉を飲み込む。
恋人の愛情を得るために人形になるなんて。
だが、否定はできない。
シエルは知っている。恋焦がれたゆえに狂ってしまった男のことを。
目の前の少女も同じではないか?
全てを捨てて恋のみに生きる者。
善悪も正邪も彼岸の彼方に置き去りにして、ただ恋だけを胸に歩き続ける者。

「あなたは悔しくないのですか? あなたにそこまで強いる遠野くんの無神経さを!」

彼自身は善人だ。そのことはシエルも百も承知だ。
しかし……善人の無神経な善意に人がどれだけ踊らされ傷つけられれることか?

「平気……と言ったら嘘になるでしょうね。ただ、私は最初に恋に狂ったおかげで、こうなってもお父様やシキのように獣にならなくて済みましたから。それだけは感謝してもしきれません」

編まれた紅い髪をシエルに見せつける。
その紅い髪は彼女が人でなくなったことの証。化生であるもの証。

「恋に狂う……?」
「吸血? 殺人? 強姦? 好きな人の前でそんなみっともない姿を見せられるわけないでしょう? 私は遠野の娘である前に『女』なのですよ。どちらが根源的なものか考えるまでもありません」

楽しそうに秋葉はくっくっと笑う。

「兄さんは血を吸う鬼ができるのを未然に防いだのですよ。私を恋に狂わすことで。ふふっ、さすがは最後の七夜。退魔の一族の生き残りということかしら? 今なら遠野の血に呑まれようとも鬼となる力は残ってはいませんしね」
「力はあるじゃないですか? 吸血種としての力が」

その言葉を受けて、秋葉はゆっくりと立ち上ろうとする。
両足に力がはいらないのか、壁に手を付きながら、ゆっくりゆっくりと。
そして、シエルに問うた。

「私にどれだけの力が残っていると思います?」

全身がカタカタと震えている。自分の体重すら支えられないほど秋葉の四肢は衰えていた。

「あなた、遠野くんの血を吸っているんでしょう? なのになんで……」
「血? 最初は『遠野』に負けて血を啜ってしまったけど、最近は形ばかり口をつけるだけよ。兄さんに吸血鬼と思われたくないから、本当は吸いたくないけど、全然口にしなかったら心配するし」

自分の体調よりも、志貴にどう見られるかを第一に考えている。
秋葉の性格すればそれはありえるだろう。
だが、いかに強烈なプライドを持っていようともどうにもならない問題はある。

「馬鹿なこといわないでください。真祖じゃないのだから食欲を抑えられるわけがないでしょう!」
「抑えられないから別の欲求に変えているのよ。吸血鬼だと思われるくらいならえっちな子だと思われた方がまだましです! 男女の営みはまだ人間の行為だもの」

声を荒げたことが障ったのか秋葉は両足から崩れて蒲団に座り込んでしまう。思わず、助け起こそうとするシエルを手で制し話を続ける。

「ふふふっ。ありがたいことよね。身体が弱れば弱るほど遠野の血も弱くなって、私の心ばかりが強くなる。ううん、私の望みはただ兄さんのものになる、それだけのことだから反転衝動とやらも『私』の後押しをしてくれているのかもしれませんね」

目の前の吸血種は衰弱しきっている。
シエルの想像を遥かにこえるほどに。
これほど弱っていては当人の言うように他者を襲えないだろう。
標的を捉えるための移動もままならないのだから。

不思議なのは、少なくとも遠野志貴がいる前ではこれほど弱ってはいるようには見えなかったことだ
気力で「普通」を演じてたとでもいうのか?

「なんで、そんなになるまで身を削れるんですか?」
「だって……兄さんの血を吸うと、兄さんが弱っちゃうじゃない」

肩をすくませながら秋葉はそう告げた。
たしかにそれはその通りだ。
常時貧血気味の志貴の血を吸うことは間接的に殺すようなものである。
喩え輸血をしたところで、事態はそうは変らない。
輸血というのは他者の血を入れることだ。
感染症とまではいかなくても、アレルギー反応や抗体不全を起こす危険性と背中合わせである。
単純に無くなった分だけ追加すれば良いというものではないのだ。

「それ以外は何も食べていないのですか? 吸血鬼ではなく吸血種なのだから、他に食べようと思えば食べれるでしょう?」
「──嫌よ。そんなことすれば兄さん以外の人が私の世話をできるじゃない」

信じられなかった。
いくら寝たきりの生活とはいえ、生きているだけで相当の熱量がいる。
あんな舐める程度の血で身体が維持できるわけがない。
秋葉の場合、特殊な事情で普通に食事を採ったところで十二分な熱量を得られないのだ。
志貴の愛情を独占するためには餓死の道すら平然と選ぶというのか?
そこまでやる必要があるのか?
何がそこまで彼女を駆り立てるというのか?

「わからない」

カソック服の少女の言葉から無意識にその言葉が漏れてしまう。
それを紅い髪の少女は半ば憐れむような目で見つめる。

「わからないの? 兄さんは誰にでも優しいのよ。同じ闇の者ならね。翡翠にも琥珀にも──シエルさんにも。違う?」
「それはわかります。しかし──」
「ここまでやらないと兄さんは駄目なのよ。私のことだけを見続けさせるにはね。あなたにはできないの?」

ふるふると首を振るシエル。
地獄を見ているにも関わらず、いや、地獄を見ているからこそ愛や恋に夢を持ってしまう。
恋というのはもっと、ポジティブなものではないのか?
二人で共に未来を築くというような……。

しかし、透徹した目でシエルを見やる秋葉は知っている。
恋のもう一つの顔を。
恋は狂気を破滅をもたらすという古今東西変わらぬ真理を。

「無理もないわね、翡翠も琥珀もできないわ。だから……兄さんは私のものなのよ。何の努力も策も無しに最高の愛情を得られ続けるわけが無いでしょう? 最高は一瞬だから最高なのよ。後は恋の名を持つ残骸よ。そんなもの、私はいらない」 

力強い目。シエルがかって学校で見た気位の高い遠野秋葉がそこにいた。
何がか弱い? 何が儚い?
目の前にいるの間違いなく鬼だった。恋慕の鬼。

「だからといって、死ぬことは……」
「わからない人ね。私はもう人間として生きていけないのよ。誰かに殺されるか、自分で死ぬしかの二者択一しか残ってないの」

それはわかっている。
理由は違えど同じ苦しみを知っているシエルには。
だからこそわからない。
ここまで割り切ることをできる秋葉の心理が。

「私はこうなる前に兄さんに何度も殺してってお願いしたのよ。兄さんに愛されたまま死ぬことがどれだけの幸せか、愛する兄さんの手にかかることの充実感が……兄さんは全然わかってない! あのトーヘンボクが!!」
「……」
「そりゃ、兄さんはいいわよ。見ているだけなんだから。勝手に夢でも希望でも妄想できるわ」

秋葉は自分の胸を右手で押えつつ熱い口調で言葉を続ける。

「でも、私はどうなるのよ? 吸血衝動を持ったまま放っておかれる私は? 他人は襲えない。兄さんの血を吸い続ければ兄さんを殺しちゃう。……できることなんて自殺だけでしょう!? それもこんな持って回った一番苦しい死に方をしなくちゃならない。いい? 私をここまで追いつめたのは兄さんなのよ! ……最後くらい私の好き勝手にやって何が悪いのよ!」

怒っていた。
紅い着物と紅い髪に負けぬほど真っ赤な怒りの炎に彩られている。
激昂で両目からはらはらと涙を落しながら抑えに抑えていた怒りをぶちまけていた。
死にたいけど死ねない。
戦えど戦えど無限に続く地獄。
紅い髪の少女の見ているもの、聞いているもの。その苦しみをシエルは知っていた。

「死よりも辛い事だってあるんです……って遠野くんに教えてあげたんですがね」

静かに呟く言葉に反応して秋葉はぼんやりとシエルの方を向く。
そして、穴のあくほどカソック服の少女の顔を凝視した。
秋葉がここまで真面目に彼女の顔を見たのは初めてだ。

「知っている……の?」
「知らないとわかるわけはありませんよ。自分の両親を、初恋の人の血を啜り犯す苦痛を。どんなにやめようと心では抵抗しても、身体が勝手に罪を重ねて行く絶望感は……体験した人以外わかるわけがありません」
「……」
「どんなに想像力があったところで想像は想像に過ぎません。地獄にいる者の痛みを知っているのは、同じ地獄にいる者だけですよ」

秋葉はシエルを見上げる。
今までは見えない壁を立てて距離を保っていた。赤の他人という距離感が崩れた。
今の彼女を見る目は同じ苦しみを知る者の……同士を見る目。

「わたしは秋葉さんの遠野くんへの恋はわかりません。正直言って狂うほど人を恋したことはありませんから。でも、あなたのいる地獄は知っているつもりです。そして、それを終りにする方法も」

音もなく取り出した長剣を秋葉の首に当てながら言葉を続ける。

「どうします? 人を襲ってないあなたを斬るのは許されないことですが、どうせわたしは数え切れない罪を犯した罪人。今更、一つや二つ上乗せしたところで構いませんが」

語調はいとも軽やかだ。
しかし、青い目は恐ろしいくらい真剣に秋葉を見つめている。
今、ここで秋葉が承知すれば、その場でためらいもなく首を断ち切るだろう。

「兄さんは恨むと思いますよ」
「遠野くんとは『さよなら』しましたから──」

軽く溜息をつきつつ言い放つ。
見下ろす目と見上げる目の間に空気を震わすような緊張感が生れる。
ぴりぴりとした空気の中、紺碧の瞳を持つ少女は青い瞳を凝視したまま静かに口を開いた。

                                                 《続く》