この作品は「月姫」(c)TYPE-MOONの世界及びキャラクターを借りて作られています。
秋葉ノーマルエンドの後日談であるためネタバレを含んでおります。ご注意ください。


『紅いコッペリア』

                                                                                  文月 文

がらりと軽い音を立てて引き戸が開けられた。
ふいに少年の鼻腔に強烈な匂いが叩きつけられる。
締め切った部屋の中には血と……女の香りが蟠っていた。

部屋の真ん中。
蒲団の上にきれいな人形がちょこんと正座をしている。
真紅の着物。そして、それ以上に紅い長い髪が部屋を覆っているかに思えた。

部屋中を覆う紅。
それはある連想を少年にさせた。

血。
血。
真っ赤な血。

嗅覚と視覚から叩きつけられる強烈極まる刺激に少年は目眩に襲われる。
この部屋に足を入れた途端、少年の正気が徐々に崩れて行く。
ぼろぼろ。ぼろぼろと。
ゆっくり、確実に正気というメッキが剥がれ、その下に潜む狂気に表に現れていく。

「秋葉」

呼べども人形は応えない。
透き通った海の色を持つ双眸は、ただ虚空をぼんやりと眺めたまま。
理性という不純物を持たぬ瞳にとっては、少年も部屋の置物の一つなのかもしれない。

「……秋葉」

再び、少年は壊れてしまった妹の名を呼ぶ。
やはり人形は止まったまま。
少年は軽く頭を振った。
「兄さん?」と答える声を……淡い期待を振り捨てるが如く。

「よく眠れたかい?」

問えどもやはり人形は応えない。
少年は一瞬辛そうな顔をした後、カッターシャツのボタンを外していく。
男にしては白いうなじが現れた途端、人形に息吹が吹き込まれる。
獲物を狙う獣のような目。
それはたしかに生あるものの目だ。
それが少年の言う秋葉なのかどうかはわからないが。

「お腹空いたろ?」

ゆっくりと少年は秋葉に近づく。
怯えさせないように気づかいながら。
お互いの息がかかる距離まで近づいたとき。
ふいに秋葉の首が動く。

唇がかすかに開き、そこから赤い舌が現れた。
ちろちろ。ちろちろと舌が蛇のように少年の首筋をゆっくりと舐め上げる。
背筋を震わす快感に少年の身体は弛緩した。
まさにその瞬間を狙うように白い牙が光る。

つぷり。

牙が少年の肌を裂く。
「うっ」と呻く声がしたかと思うとゆっくりと鮮血が滲み出てきた。
流れ落ちる紅い甘露が喉を潤す。
そのあまりの甘さに秋葉は恍惚に打ち震えた。
食欲という原初の欲求を満たす喜び。

だが、牙はすぐに首筋から離れた。
牙が突き立てられたのはほんの一瞬。
首筋からじわりじわりと染み出る血に秋葉はごくりと喉を鳴らす。
染み出た血は溜り雫となる。
雫はつぃーっと首を流れて行く。
はぁはぁと荒い吐息をあげつつ血の航跡をじっと眺める。
その紅い誘惑を断ち切るように秋葉はぎりっと唇を噛み締めた。

ふぅと一息漏らした後、穿たれた穴に口をつける。
牙によって付けられた傷は浅い。
その傷痕を癒すようにぺろぺろと舐めはじめた。
食事の時とは舐め方が全然違う。
念入りに。念入りに。労るような愛情を持って傷痕をきれいに舐めあげて行く。
すると、どういう理由かは解らないが牙がつけた傷は塞がっていった。

「もういいのか?」

少年には血を吸っている時の秋葉の表情はわからない。
彼にわかるのは口元を真っ赤に染めて呆けている秋葉の顔のみ。
だが、さすがに不審に感じはじめている。
最近の秋葉の食事は形ばかりのものになっていたからだ。

「それだけで満足なのか?」

血で汚れた秋葉の口をハンカチで拭きつつ心配げに問う。
されど、秋葉は応えずただじっとしている。
聞こえてないのか、無視しているのか?

改めて、問い返そうとしたと少年が思った瞬間。
秋葉が抱き着いてきた。
そして再び首筋に口をつける。
食事の量が足りなかったのだと納得した少年は、黙ってそれを受け入れた。

──だが、どうも様子が違う。
秋葉はただ首筋をなめるだけ。
一心不乱にぺろぺろと舐め続けるだけ。
血を吸おうというのでもなければ、傷口を塞ごうというのでもない。
この心地良い感覚をもたらす舐め方は──。

少年が葛藤している間も秋葉の舌の動きはとまらない。
舌はゆっくりと首から耳に這って行く。
耳たぶを口に含むと半ば遊ぶように舌の上で転がしはじめた。
それだけでも、ぞくりとした感覚が背筋を上ってくる。
声を漏らすまいと力を入れた瞬間、かぷりと耳たぶを甘噛みされた。
不意打ちに「はうっ」と少年は呻いてしまう。

「?」

その変化を秋葉は不思議そうな顔で眺めていた。
真っ赤になって何かを言おうとする少年。
その唇が開いた瞬間。
秋葉の視線がふいに柔らかくなった。
同時にごく自然な流れで唇を合わせてくる。
口中に入ってくる柔らかな舌。
錆びた鉄の味……血の味が少年の味覚を刺激する。
流れてくる少女の唾液を嚥下しつつも、最初に入ってきた血の味の強烈さは一向に衰えない。

ぴったりと彼を抱きしめる少女の身体。
病み衰えてはいるもののは、少女特有の柔らかさは健在だ。
何よりその身体中から女の匂いが漂ってくる。
それらが少年の残った正気を完膚なきまで砕こうとしていた。

けれど……。

少年は動かない。
性欲を覚えつつもそれを抑えて、ただ黙って秋葉のするがままにされている。
黙って耐えているしか無い。
下手に動けば、そのまま秋葉を押し倒してしまいかねないほどに、少年は危ういバランスの上に立っていた。

秋葉の唇がゆっくりと少年の唇から離れる。
唾液が光る線となり二人の間を結んでいた。
結ばれていたのは一瞬。音もなく線は……切れた。
それを見ていた秋葉は哀しげな顔をした。
その顔を見続けるのがたまらないのか、今度は少年の方から彼女の唇を塞ぐ。
口づけを受けると秋葉の表情は途端に柔らいだ。
見ようによっては微笑んでいるようにも見える。

「どうした秋葉?」

秋葉の変化に気づいた少年は唇を放すとそう問うた。
ぴったりと志貴に抱き着いた秋葉はそのまま体重を預けてくる。
甘い吐息とかすかな鼓動。
そして何より溢れてくる女の匂い。
少年は秋葉が何を望んでいるのかはっきりわかってしまった。
──抱かれたい。
その意図を感じ、慌てて少年は秋葉から離れる。
いささか乱暴だが、崩壊寸前の理性を保つにはそうするしかない。

「……あ」

残念そうな甘い声が少年の耳に届く。
彼は困ったように視線を外し俯いてしまう。
もちろん、その行為自体が嫌いなわけではない。
むしろ、好きな子と二人きりでいるのだから抱きたくなるのが普通だ。
とはいえ、秋葉は壊れている。
壊れてしまってからも、異常な状況に血が昂ぶり抱いてしまったことはあった。
意志の無い妹に自分の劣情をぶつけてしまった……その罪悪感が棘のように心に刺さって彼自身の性欲を抑えている。
だが、そう思いつつも、結局何度も何度も少年は秋葉を抱いてしまっていた。
秋葉がそれを望むから。

今の秋葉には理性はない。当然欲求を素直に表に出す。
食欲、睡眠欲に匹敵する性欲。
それが最近、日ましに強くなっているかに少年は思えた。
食事の量の減少に比例するが如く、セックスの頻度が上がっていく。
最近は毎日。それも一度で終ることは少ない。
理性が無い分、自然に求めてくるのだ。

もっとも頻度が高いとはいえ、飽くまで血を吸われ続けるよりは身体に負担はかからない。
楽になったといえばいえるだろう。
だが、意志のない子を抱くということに元が真面目な少年には抵抗がある。
兄として妹を抱く……ということには抵抗は無い。
血の繋がりがないこともあるが、好きなもの同士が愛し愛されることの何が悪いと思っている。
そう、好きなもの同士という自信があれば。
だが、壊れた妹が何を考えているのか兄にはわからない。
いや、何も考えられるわけがない。
考える理性が無いのだから。

それが少年には哀しかった。
結ばれた時の彼女の嬉しそうな顔を鮮明に覚えているがゆえに。
今は、性欲だけで彼を求めているとしたら……余りに哀しすぎた。

「……」

悩んでいる少年に向かって無言で秋葉は近づいてくる。

「秋葉、俺はな……」

何かを言おうと手を開いた少年に向かって、秋葉は体重を預けてきた。
すっかり病み衰え、小鳥のように軽くなってしまったその身体を。

「……え?」

驚いている少年の胸の中に顔を埋めて秋葉ひたすら甘えている。
まるで恋人にするように。
正気だった頃の秋葉にはできなかった素直さで。
全幅の信頼をその身で示している。

「あ、き、は……」

ためらいがちに呟く言葉に、紅い髪の少女は顔をあげた。
見上げるその青い瞳は穏やかで幸せそうに見える。
それは少年の思い込みに過ぎないのかもしれない。
だからこそ、最後の理性を振り絞って宣告した。

「だめだ。駄目だよ。秋葉。俺はおまえをこれ以上壊すわけには……」

泣きながら呟く言葉は途中で遮られる。少女の唇によって。
軽い口づけの後、妹の唇は兄の頬を伝わる涙を掬い取る。
泣かないでと言っているかのように。

「秋葉……」

兄の脳裏に妹の言葉が蘇る。
最初に彼女を抱いたとき。
躊躇した彼に向けられた言葉が。

『……お願いします。私を壊してしまいそうだっていうんなら──それこそ、いっそ壊してください。兄さんにつけられる痛みなら、私は必ず耐えてみせますから』

「秋葉……おまえ、なんでもないっていうのか。俺が、俺の無力がおまえを壊してしまったというのに」

悔恨の言葉ごと、秋葉は兄の身体をぎゅっと抱きしめる。
自分の言葉に妹が応えた……と彼は思いたかった。
秋葉は壊れていない。今でも遠野志貴の妹の遠野秋葉だと。

『いつか、私が変わり果ててしまった時、それまで私の事を愛していてくれたのなら、私のために殺してください』

彼女から託された約束を、志貴だけに託された約束を、彼は未だに果たしていない。

「すまない、秋葉。そうだよな、おまえはこういうことを『どちらかというと、スキなのかもしれない』って言ってたしな」

涙を堪えながら、からかうように妹にそう話しかける。
彼は秋葉の表情の無い顔に拗ねたような雰囲気を感じた。
気位が強く素直じゃない彼女は、よくそういう反応をしたものだから。

──全ては自己欺瞞。

変わってしまっても懐いてくれる妹の姿に、昔日の面影を見ようとしている行為。
変わってしまったと認めれば殺すしかない。
それが彼女との約束だから。
だから、変わっていない。
秋葉はずっと秋葉のままだ。
遠野志貴の妹で、そして恋人。

「秋葉、本当のことを言うとな。俺はおまえのことを欲しくて仕方なかったんだ。だから……」

いつものように肌を重ねる。
それが二人の日常だから。
何も変わっていない──。


──数刻後。


志貴は秋葉の髪をややきつめに編んでいる。
長い髪というのは痛みやすい。ましてや寝たきりのことが多い秋葉ならなおさらのこと。
髪をまとめておくことで、髪の痛みを少しでも抑えようとしているわけだ。
美しかった秋葉を美しいままにしておこうという志貴なりの努力であった。

「痛くないか?」

髪を編みつつ問いかける。
秋葉は黙ってされるままにしていた。もっとも今の秋葉は感情を素直に現すので、痛かったら嫌がるわけだが。

「でも、きれいだよな。おまえの髪って」

先程、風呂に入れたこともあり、ほのかにシャンプーの匂いが香る髪は見ていても触っていても心地よかった。

ふいに白いうなじが目に入る。
そこには、いくつものキスマークがついていた。
今日の情交の時に彼がつけた印だ。
普段は琥珀や翡翠の目を気にし、可能な限り跡は残さないようにするのだが、今日に限っては首や胸、身体中に跡が残っている。
まったく抑えが効かなかったからだ。
兄が求めれば求めるほど、妹は応えた。
病みつかれてやせ衰えた身体で必死に──。
少なくとも、そう彼は思った。思い込んでいた。

「?」

髪をいじる手を止めたことを不思議に思ったのか、秋葉はゆっくりと振返った。
その顔は、彼女が壊れてから見たこともなかったほどの穏やかさがある。
激しい情交の後とは思えないほど柔らかな顔をしていた。
いや、後だから……というべきか?

「ごめんな。今までちゃんと抱いてあげなくて……淋しかっただろう?」

答えはこない。ただ、虚ろな目は彼の全ての想いを飲み込んでしまう。
それが答えだと彼は思った。

「悪い兄貴だったな。ずっとおまえを一人にして……こうなっても一人きりにしてたんだから」

相変わらず秋葉はちょこんと正座をしたまま黙って聞いている。

「これからはいられるだけ一緒にいよう。ここで秋葉と一緒に寝起きをして……そうだ、おまえ、俺が寝起きが悪いって怒ったことがあったよな。起きないからってあまりいじめないでくれよ」

ちょんと細い腕が志貴の腕に触る。
それはおそらく偶然手が動いただけだろう。
だが、彼は思い出していた。
あまりに起きないからと、腕をつねられたことを。

「……」

懐かしい思い出に。帰らぬ思い出に思わず胸が熱くなる。
壊れてない。
秋葉は壊れてなんていない。

志貴は、すべての秋葉の行動をポジティブに取ろうとしていた。
現実逃避といえばそれまでだろう。
だが、兄妹にとってはどうでも良いことだった。
彼らさえ幸せなら、間違っていようが狂っていようが構わない。
彼らが見、聞き、感じたことが真実。

それだけで十分だった。

彼は秋葉を引き寄せると抱きしめる。
今日、何度めかの抱擁。
しかし、これほど優しく抱きしめたのは今日が……いや、秋葉が壊れてから初めてだろう。

「じゃあ、今日は戻るな。色々用意しなくちゃいけないから。明日まで……いい子にしていてくれ」

愛おしそうに真紅の髪を撫でながら耳元でささやく。
少女の方は目を閉じ気持ち良さそうに撫でられていた。
名残惜しそうな顔をしつつも、少年は手を放し部屋を後にする。
その顔は心身の労苦でやつれてはいたがとても晴れやかだった。

すうっと、静かに扉は閉ざされた。
再び漆黒の闇と静寂が部屋を支配する。
その闇の中で、彼をずっと見送っていた紺碧の瞳がふいに煌く。
さきほどまでは微塵もなかった意志という名の光りを得て。

                                                  《続く》