「──せっかくですけど」

紺碧の瞳がシエルを完全に捉える。
その目に妖しい光りが一瞬灯った。
途端にシエルの全身が紅い波に覆われる。
檻髪──全てを捕食する秋葉の特殊能力によって。

「私は兄さん以外の手にかかるつもりはありません」

入口から差し込む月の光のように静かで冷たい声が部屋に響く。
片やシエルの方はなぜか動かない。
逃げようとも、反撃しようとも──もがこうとすらもしていない。

「さすがは狩人。ずいぶん落ち着いているんですね」
「殺意が感じられませんから」
「本当は殺しあっても構わないのですけどね。忘れました? 私、あなたのこと大嫌いなんですよ。同類だろうがなんだろうが知ったことではありません。嫌いなものは嫌いなんです。──でも、兄さんにいい子にしているようにって言われましたからね」

不敵な笑みが紅い髪の少女に浮かぶと、シエルを覆っていた紅い繭がすっと引いて行く。
それに応じるようにシエルの方も長剣をしまう。

「お引き取り願いません? もう、あなたは私たち兄妹には関係無い人です」
「遠野くんを放っておけとも?」
「兄さんに別れを告げられたんでしょう? お節介というものです」

わざわざ憎々しげな物言いでシエルを突き放す。
そこには狂人でも病人でもなく、かってシエルが見た誇り高い少女がいた。

「こんな状況……放っておけるわけないでしょう!!」
「私は私の都合で、兄さんを愛した。兄さんは兄さんの都合で私を愛した。お互いに見ているものは違うのかもしれませんが……二人とも満足しています」
「そういうのは妄想っていうんです!!」
「だからどうしたって言うんです? 私たちは幸せなんですよ。それともシエルさんはもっと幸せにできるとでも言われるのですか?」
「……」
「できもしないなら──引っ込んでてください。目障りだわ」

主導権は完全に秋葉が握っていた。
シエルがいくら理を持って説こうと意味はない。
秋葉は確信犯なのだ。
彼女の情を満足しうる答えを導き出さなければ、一笑に付されるだろう。
だが、シエルにはそんなものはない。
力尽くで抑える切り札ならあるが……。

「遠野くんを悲しませたいんですかっっ!!」

切り札を切った。
あらゆる情理を越えて、秋葉を捉えられる唯一の言葉。
──しかし。

「そうさせないため、死に方を工夫しているのでしょう?」

切り札は一瞬にして砕かれた。
秋葉は微笑みすら浮かべている。

「……くふう?」
「あなたが演技と言ったものですよ。兄さんの罪悪感を消し責任感を満足させること。簡単にいえば私が満足しているということ見せることよ」

あまりに身も蓋もない返答にシエルは呆気にとられている。
一方の秋葉は疲れてきたのか壁に背中を預けながら話しを続ける。

「私自身が本心から満足しないとリアリティが出ないでしょう? だから満足出来る状況を作っているわけです。あなたの問いに演技じゃないと言ったのはそういうわけです」

一度軽く目を伏せた後、うっとりするような口調で言葉を続ける。

「兄に介抱されつつも、どんどんと病み衰えて行く妹……ロマンじゃありません?」
「わからない……」

頭をふるふると振りながらシエルは後ずさる。
怖い。
紅い髪の少女が怖い。
わからないから。
シエルには秋葉が何を考えているのか、何をしようとしているのかまったくわからない。

「どうしました?」
「なんで、なんであなたは自分の死を弄ぶことができるのですか!?」
「ああ、あなたの宗派では自殺は最大の罪でしたね」
「ちがう! 他人の決めたことなんて関係ない。なんで生きたいって思わないのですか? 死にたくない。わたしは死にたくない。カビの生えた吸血鬼に利用されるためだけに生れてきたなんて思いたくない……嫌。そんなの嫌。神様が認めてもわたしが認めない!」

半狂乱になりながらシエルは叫ぶ。
まるで秋葉の思考に呑み込まれまいと必死に抵抗するかのように。
それを憐れんだ目つきで秋葉は見つめる。

「かわいそうに。自分のしたいこともないのですね。あなたは」
「したいことって……あなたは自己犠牲がしたいのですか」
「自己犠牲? 兄さんじゃあるまいし、私はそんなことをするようなナルシストじゃありません」
「それ以外のなんだっていうんですか!」
「頭が悪い人ですね。私の目的は兄さんを独占することですよ。兄さんあってのものです。自分だけのナルシズムに走っても意味が無いじゃないですか」

半ば呆れつつ秋葉は答える。
挑発のためにシエルの神経を逆なですることを言っている……というわけでない。
思っていることをただ並べただけという様子だ。

「独占すると言っても、兄さんを壊しては意味がありません。だから兄さんが壊れる前に私が死ぬのですよ。私以外の女に二度と目を向けられないような鮮烈な死に方で」

小憎らしいほど冷静なその顔にシエルは無性に怒りを覚えた。
怒りの原因は何か?
悲劇を利用して目的を達しようとする狡猾さにか?
止まるところを知らない独占欲にか?
とにかく、この自信たっぷりの顔を崩してやりたかった。
彼女にはまだ切り札がある。
秋葉が知らない最後の切り札が。
それを使った時、彼女の冷静さは保てるだろうか?
怒りのままに敵意を込めて最後の切り札を切る!

「あなたの吸血衝動を治す方法はあります」
「なんですって……」

ぎろりと紺碧の瞳がシエルを睨む。
いい加減なことを言ったら許さないという視線だ。

「身体の不調はいつからですか?」
「発作が頻繁に起きはじめたのは八年前からだけど……」
「心当たりはあります?」
「成長したからでしょう? 遠野一族はだいたい大人になるほど反転しやすくなるから」
「忘れていませんか? 八年前にあった事件を」
「……八年前? まさか」
「そのまさかです。あなたの不調の原因は遠野くんです」

シエルを見る秋葉の視線はますますきつくなる。
一笑に付さないのは、彼女なりに符合が合う点があるからだろう。

「あなたは遠野くんに半分の命を分け与えているんです。完調には程遠い状態。それでもなんとかバランスを保っていましたが、吸血鬼──シキでしたっけ? の能力で遠野の血を活性化され完全にバランスが崩壊した」
「何を証拠に……」
「そうしないと辻褄が合いません。八年前殺された遠野くんが生き返った。無くなった命はどこから持ってきたのです? 生半可な奇跡が起きたところで助かるような怪我では無かったことは、その場にいたあなたが一番よく知っているでしょう?」

みるみる表情が変わって行く。
血の気の薄い顔がさらに白く、白蝋の如くなっていた。
明らかに心当たりがある。
しかし、頭を振ってその考えを頭の中から追い出す。

「推測にしか過ぎませんわ」
「いえ、このことはあなた以外の人……遠野くんもシキも知っています。遠野くんはあなたの父の手記から知ったそうですが」
「……知らないわ。おそらく琥珀が隠したのでしょうね。あの子ならそういう小細工をやりそうだから」

さしもの秋葉の自信が揺らいでいた。
それはシエルの意図したものではなく、力無き当主としてのものであったが。

「兄さんの命が私の命……兄さんがそれを知っているって、本当なの?」
「はい。彼の記憶を覗かせてもたいましたから」
「まずい、まずいわね。最後の時まで平気なふりをしてないと」
「どういうことです?」
「知っているでしょう? 兄さんの性格を。私が危なくなったら私に命を返すなんてことをしかねないわよ。私の都合も考えず、それこそ自己犠牲に気持ち良く酔っ払いながら」

親指の爪をカリカリと噛みつつ秋葉は思案している。
どこをどう見ても自分のことで頭を悩ましている……という風には見えない。
秋葉の反応がまるでわからず、シエルはただぼうっと見つめるだけ。
そのうち癇癪を起こしたのか髪の毛をくしゃくしゃと掻き毟って喚いた。

「あーっ! まったく、兄さんは本当にバカなんだから! 私にこんな苦痛を与えて、それでも足りないっていうの? 世話が焼けるにもほどがあるわよ」

吼える秋葉の力強さ。
これが自力では立ち上がれないほど病みつかれた……目前に死期が迫った人間のものであろうか。

「……でも、都合が良いといえば都合が良いわね。これで完全に正気を保つ自信を持てたわ」
「なんで、そう言い切れるのです? あれほど狂気に陥ることを恐怖していたあなたが」
「兄さんがそこまでバカなら話は別です。私にとって怖いのは遠野の血より、兄さんの挙動になりましたから。八年間も一人ぼっちにしておいて、また一人ぼっちにしようというの? 冗談じゃないわ」
「同じことをあなたは遠野くんにしようというのでしょう?」

当然の問いに秋葉はくすりと笑う。
いたずらを企む子供の顔で……、

「私を一人ぼっちにしておいたのだから……それくらいの報いは受けてもらったっていいじゃない。それでおあいこ」

子供のような残酷な台詞を言ってのける。

「問題は命を返されることよ。それって侮辱だもの。この上もない侮辱。そんなこと絶対に許さない」

彼の手で編まれた紅い三つ編みをいじりながら、そう呟く。
まるで彼に話し掛けるように。

「発作が苦しかったのは、髪が紅くなることを恐れたのは、それが魔物になることだと思ったから。でも、それが全て兄さんのためになっていたというなら話は別。私だけが兄さんを救えるなんて……感謝しても良いくらいだわ、あれほど忌まわしいと思っていた遠野の血に」

なんとも言えない晴れやかな笑顔を浮かべた後、すっと目を細める。

「だから、私の命を返すことは許さない。私の苦痛をそして喜びを全て無にすることなんて、いくら兄さんでも許さない。命を返して自分だけ楽になろうなんて……そんなこと絶対にさせない!!」

そしてシエルをじっと見つめながら言葉を続けた。

「私という刻印をが刻まれた命を持てば、少しは兄さんも私の気持ちがわかるはず。全てを捧げて愛した私の気持ちが」

無邪気に秋葉は微笑む。
だが、その笑顔にどこか狂気じみたものを感じたのはシエルだけだろうか?

「遠野くんがあなたに全てを捧げるのは認めないのですか?」
「兄さんの命は私のものなんでしょう? 私のものを返しても捧げることにはならないわ。兄さんに捧げてもらうのは、自分のものでないと」
「自分のもの?」
「私が命を捧げるのは未来を捧げるということ。捧げてもらうなら同じく未来をもらうわ。未来永劫、私だけを愛し続けるとういことを」

はっと息を呑むシエル。
彼女にもやっとわかった。
なぜ、秋葉が生に恬淡で死に方ばかりに固執しているかの意味を。

「死ぬことによって、遠野くんを独占しようというつもりですか……」
「兄さんは冷淡な方ですからね。それくらいやらないと駄目なんですよ」

同性であるシエルですらもぞくりとする妖しい笑みを浮かべながら秋葉は答える。怖いくらいの『女』の顔で。

「回復すれば兄さんとしては気が楽でしょう。罪悪感がなくなるから。そして今まで通り誰にでも優しい兄さんに戻ってしまう。そうなったら、私は嫉妬の鬼になってしまうわ。今までならまだ耐えられた。妹だったから。良い妹を演じるという道があった」

視線に力が込められる。誇りと冷酷さをエネルギーに。

「でも、今は遠野志貴の女よ。彼の女として他の女の存在なと許さない。その時こそ、本当に私は血を吸う鬼になってしまうわ。遠野の血なんてものではなく、自分自身の意志で」

シエルは無言で秋葉を見つめている。
同じ女である彼女にはその気持ちはわからないでもない。実行するかどうかは別の話ではあるが。

「だから、私は死ぬしかないのよ。遠野秋葉のまま終るためには」

言葉とは裏腹に楽しそうに秋葉は語った。
目の前に死があるからこその笑顔。
終りが見えているからの安らぎの顔。
その顔を見たシエルはゆっくりと背を向けた。
酷く疲れた顔をしながら。

「帰られるのですか?」
「ええ、あなたに言われたように、私には何も出来そうにありませんから」
「……そう」
「最後に一つだけ聞いてよいですか?」

ぴたりと止まったシエルは背中を向けたまま秋葉に問う。

「その前に私の質問を聞いてくれます?」
「どうぞ」
「私の残りの命を兄さんにあげると、兄さんはどうなりますか」
「おそらくは、完調に戻るでしょう。あなたと同じで命が足りないことが原因による虚弱体質ですから」
「そうですか……良かった。兄さんも丈夫になれるんですね」

心からほっとしたような声を秋葉は漏らす。
彼の病弱さに秋葉は相当頭を悩ませていたのだろう。
上機嫌な声音で彼女は話し掛けてきた。

「それで、シエルさんの質問は?」
「あなたは、それで満足なのですか」

一瞬の沈黙の後。
静かに声が響いた。

「はい。私の夢は叶いましたから」

秋葉はとびっきりの笑顔でそう答えた。
背中越しで聞いていたシエルもそれはわかった。わかってしまった。
おそらく、先程部屋を出ていった志貴にも負けない晴れやかな笑顔であろうと。

志貴は笑った。己の夢を語りながら。
秋葉も笑った。己の夢が叶えられることに。

互いは互いを心底から愛している。
それは間違い無いだろう。
そして、二人とも幸せだ。
これも間違いない。

だが、二人とも本当に相手のことを見ているのだろうか?

その疑問にシエルには深い溜息をついてしまう。
わからなかった。
彼女には何もわからなかった。
何が正しくて、何が間違っているのかを。

シエルの思いに関係なく、二人はそれぞれの正しい道を歩んでいるのだろう。
所詮はシエルは部外者だ。
助けることはおろか心配することも許されない部外者。
志貴も、秋葉もシエルが差し伸べた手を振り払った。
友として同じ労苦を分かちあうこと拒否したのだ。
彼女に出来ることは何もない。
何をすることも許されない。
できることはただ一つだけ。

「ありがとうございました。──さよなら」

永遠の別れの言葉を口にすると、一度も振り向かずにシエルは部屋を出て行った。
すっと音も無く扉は閉められ、重い足音はゆっくりと離れていき、完全に消えた。

室内は再び静寂と漆黒の闇で満たされる。

一人きりになった秋葉は崩れるように蒲団に横たわった。
はぁはぁと荒い息をつきながら。
いつもの発作だ。
その発作に秋葉は身を委ねている。
今日は話しすぎた。もはや苦しむだけの体力は残っていない。
叫ぶことも暴れることもできずに、静かに苦痛を受けとめている。

苦痛が秋葉を浸食していくごとに生気は失われて行く。
目から光りが失われ、硝子細工に。
肌は生気の無い白蝋のものへと。
痩せた身体は枯れ木の如く。

人から人形へと変わって行く。
ただ、息をする「モノ」へと。
いや、まだ息ができると言ったほうが良いか?
息もできなくなる日は近い。
痛みを痛みと感じなくなる日も。

だが、今はまだ、たしかな痛みが全身を包んでいる。
それこそが生きていることの証明。
まだ、時間は残っていた。
蜜月を過ごす時間が。

明日も苦痛を噛み殺し平気な顔をして兄に逢うのだ。
蜜月を心置きなく味わうために。
そして、十二分に楽しんだ後、終りにするのだ。彼女自身の手で。
その時、兄は本当に彼女のものとなるのだ。

「……兄さん」

泣き笑いのような言葉を呟くと静かに目を閉じ眠りにつく。
ただ一つの楽しみを胸に抱きながら。

(了)