4.

 車を降りて門をくぐる。駆け出したい気持ちを押さえて、表情を引き締めて
ゆっくりと歩く。
 兄さんの意識が戻ったことは嬉しいけれど、同時に過去を清算し、今後の身
の振り方を決める必要に迫られるということ。
 この一ヶ月、兄さんが帰ってきたらどうしようかとそれだけ考えていた。自
分の我侭ぶりに恥じ入りもすれば、兄さんの身勝手ぶりに怒りもした。
 そしてだんだん不安になった。帰ってきた兄さんは、私が求めた兄さんのま
まなのだろうか。あの夜、私を求めてくれた兄さんなのだろうか。
 だから、帰ってきたらもう一度私を求めてくれるか、試すことにした。およ
そ騙し討ちみたいなことになるだろうけれど、これは賭け。兄さんが私を選ん
でくれるか、そして私が兄さんを愛し続けられるか、疑心暗鬼を払うための賭け。

 玄関を開けて待っていた琥珀に鞄を預ける。

「秋葉さま、お帰りなさいませ」
「ただいま、琥珀。兄さんは?」
「秋葉さまからのお電話を受けてお部屋に行ったときには、もう意識を回復さ
れていました。翡翠ちゃんとこの一ヶ月の屋敷の動きを説明したのですが、志
貴さんは意識もしゃべり方もはっきりしていて、元通りだと思いますよ」
「そう。じゃ、着替えたら兄さんのところに行くわ。それまで、翡翠と二人で
看ていて頂戴」

 手順を頭の中で整理しなおしてから兄さんの部屋のドアをノックする。

「どうぞ」

 琥珀がドアを開けてくれて、そのまま翡翠と共に退出しようとする。気を利か
せてくれるのはありがたいが、屋敷の今後に関わる話もあるので、今しばらく
は居てもらわないと困る。
 二人を目で制して室内に入る。

「失礼します」

 兄さんはベッドに腰掛けていた。柔らかい視線を向けてくる。

「おかえり、秋葉」

 呑気というかまぁ、人の気を知らない表情にちょっと意地悪したくなる。

「何を言うんですか、この一ヶ月ずっと一緒にいたじゃないですか」
「は?」

 兄さんも琥珀も翡翠もきょとんとした表情で私を見ている。

「死ねるはずもなければ死ぬ必要もないのに、勝手に死のうとして死んだと思
い込んで、ご自分の体に帰らずに私の中で寝ていたじゃないですか」
「え?」

 ちょっと意地悪するだけのつもりが、段々本気で腹が立ってきたので、言い
たいことを全部言うことにする。

「反転した私を殺さなかったことについては、シキが完全に死ねば私は元に戻
れたのだから正しかったわ。
 でも、シキが完全に死ねば済むだけなのに、なぜ兄さんは自殺を図ったのかしら」

 自殺を図った、という一言で琥珀はもちろん、事情をよくしらない翡翠まで
兄さんに非難の眼差しを向けている。
 兄さんは実に情けない表情で言い訳を考えている。私を元に戻したくての事
だったのに、シキが完全に死ねば私は元に戻れるから自殺は無駄だった、とい
うことでどう言えばいいのか悩んでいるのだろう。

「兄さんも復活して私も戻れてシキは死んで、丸く収まったからいいようなも
のの、結果論で良しとすることは出来ないほど危険で無思慮無分別な行為です」
 そういう窮地に追い込んでしまったのは私の方だが、だからこそ、兄さんが
一身に危険を背負おうとすることが許せない。ひょっとすると髪の色が赤みを
帯びてきたかもしれない。
「だって、シキを殺しても秋葉は戻らなかったじゃないか……」

 やっぱりあれは解っていてやったわけじゃなかったか。

「だって兄さん、その時点ではシキを完全には殺していなかったじゃない」
「そんなはずはないよ。間違いなく奴の死の線を切って両断したんだし、その
あと秋葉に文字通りひねり殺されたんだから」

 まぁ、目の前で私が捻り潰したとあっては仕方が無いか、と思いつつ、気に
なったことを訊ねる。

「その「死の線」とはなんですか?」

 初めて聞く言葉にの説明に、兄さんは自分の目の異常な能力を語りだした。
 多分、妙に優れた運動能力と共に七夜ゆえの素質なのだと思う。8年前、反
転したシキという化物を目の当たりにして、自身も一度死ぬという体験で覚醒
したのだろう。そういう能力があったらシキを殺したと思い込んでしまうのも、
まぁ仕方がないのかも知れない。
 ……以前シエルが兄さんを「普通かどうかは別として」と言っていたのはこ
のことだろうか。だとしたら、シエルに教えていたことを私には教えてくれて
いなかったということね。
 こみ上げてくる嫉妬の怒りを押さえつつ聞く。

「どうして兄さんは最後に心臓ではなく、その隣の傷痕を切ったのです?その
死の線が関係するのですか?」
「うん、死ぬのはやっぱり恐いから、自分の体で一番楽に死ねそうな、死に一
番近い線を切ったんだ」

 なんという偶然、なんという幸運、それとも悪運かしら。それがたとえシエ
ルの奉ずる神だって感謝したくなるぐらい。七夜一族全員が最後の末裔の守護
霊にでもなっているのだろうか。

「兄さん……兄さんが切ったのは兄さんと繋がっていたシキの死の線だわ。本
体を殺されて死にかけていたシキの最後の命の綱。自分の命を持たないシキの
命の源。だから急所でもないのに一番死に易そうに見えたのね。
 そういう仕組みということは、下手をすれば兄さんと繋がっている私の死の
線とかを切ってしまったりとかした訳ね。まぁ、その場合は反転した私を殺す
という約束を守ったことになるか、兄さんとの繋がりだけが切れるだけかもし
れませんが」
「あー、だからシキの同じ位置にも死の点があったのか」

 ……兄さんの大馬鹿者!私がシキを捻り潰す前に兄さんが止めにそこを突い
ておけば、その時点で兄さんとシキの繋がりが切れていたかもしれないのに!
 怒りのあまり髪が赤くなりそうなのを何とか押さえ込む。
 そうよ、兄さんはこういう人だったのよ。だから騙し討ち同然に本心を確か
めなきゃならないのだし、鎖に繋がなきゃならないのよ。

 深呼吸して心を静め、本題に入る。

「今回のシキの一件の後始末について伝えます」

 琥珀と翡翠が表情を正し、兄さんも背筋を伸ばす。

「シキは……遠野家長男のシキは8年前に死んでいた存在です。先代槙久の暴
走で中途半端に存在していましたが、あるべき所に落ち着いてもらいます。存
在としては死にました。だから戸籍も本来有るべき姿――8年前に養子の志貴
ではなく実子のシキが死んでいたように修正し、遠野家の長男の死を公式なも
のとします」

 三人が私を注視して、続く言葉……志貴兄さんの処遇を待っている。そして
私もここからが勝負。

「兄さん……兄さんは七夜家からの養子の遠野志貴です。よって父槙久によっ
て相続を除外された遠野家の長男ではありません。そしてそれを知りながら黙っ
ていた私の責は免れ得ません。だから兄さんには遠野の全てを継ぐ権利があり
ます」

 兄さんを見つめて答えを待つ。
 私と琥珀と翡翠に見つめられて、兄さんは困ったような、居心地の悪そうな
顔をしている。

「今更いきなり遠野を継ぐ権利があるって言われてもなぁ……継ぐ気なんて無
いし、やっぱり遠野は秋葉が継いだ方が良いと思うよ、うん。結局の所、俺は
秋葉たちがいればそれだけでいいんだ。そのほかにはは何もいらないよ」

 昔と同じ……この人は変わっていない。間違いなく、私の愛した兄さん。
 安堵感と幸福感で崩れ落ちそうになる体と表情を引き締めて、精いっぱい重々
しく声を出して念押しをする。

「分かりました。本当にそれで宜しいのですね?」
「ああ、秋葉がそれで良いと言ってくれればね」

 嫌だなんて言う訳が無い。これこそが私の求めた答えなのだから。さぁ次は
下手なことをしないように鎖に繋ぐだけ。

「分かりました。法的な制約もあるのでしばらく時間がかかりますが、兄さん
の望み通りに処理する事にします。
 下手に式だの披露宴だのをやると面倒ですから戸籍だけ直す形にします。そ
れから、やはり面倒を避けるために、私の卒業までは外では兄さんと呼ばせて
いただきますが、宜しいですね?」

 さて、これだけで何がどうなるか兄さんは理解できるかしら……できないで
しょうね。

「なぁ、秋葉、話が良く見えないんだけど……その、披露宴とか外では兄さんとか……」
 やっぱり解っていない。まぁ、私が兄さんの言葉じりを逆手にとっているだ
けなので解らなくても不思議はないのだけど。

「……もう、本当にあたまが悪いんですね、兄さんは」

 それでも女としては気付いて欲しかったので、すこし意地悪。
 兄さんは助けを求めて視線を翡翠に向ける。

「……それは、わたしの口から説明するのははばかられます」

翡翠は顔を少し赤らめて答えなかった。どうやら正しく理解しているようね。
 次に兄さんは琥珀に視線を向ける。その視線を受けて、琥珀はくすくす笑い
ながら私の方を向いた。

「秋葉さま、やはり志貴さんには、はっきり言わなければ通じませんよ」

 兄さんは情けない表情で私を見た。その小動物のようなおどおどした眼差し
に、自然と鼬の様な態度になって答える。

「そうですね、この唐変木の朴念仁に下手に誤解されると面倒ですから。
 いいですか、家督を私が継いだ上で兄さんの求めに応じるため、兄さんには
ただの養子ではなく婿養子になってもらいます。入籍には兄さんが18歳にな
るまで待たないとならないので、しばらく時間がかかるというのです」

 兄さんは一瞬、唖然とした表情を浮かべた後、低く笑い声を漏らし……狂った
様に笑い出し、終いにはベッドに倒れ込んで笑い転げた。

「もう、兄さん!何が可笑しいのです!?」

 怒鳴りつけると、苦しそうに腹筋を押さえながら起き上がった。

「笑ってごめんよ。でも、笑い出すほど嬉しかったんだ……その……自分が存
在しても良いんだって、それも秋葉の隣に居てもいいんだって思ったらさ」

 聞いた途端、背筋が凍った。
 耳の奥で、8年前の兄さんの言葉が繰り返される。

「ぼくがほんとうの家族だったら、きっと、あきはをまもれるのに。
 くやしいな――ぼくは、あきはの兄ちゃんに、なれなかった」

 居場所を失った少年は、新たな居場所を得ようとして得られなかった。遠野
の嫡男の立場を与えられても、遠野から放逐されていた。有間家は「預けられ
た」場所。帰ってきた遠野家では自分が遠野家の騒動で捏造された架空の存在
と知らされた。
 シキは兄さんに全てを……存在すべき場所すら奪われたと言っていた。でも、
兄さんも本当の身の置き場を奪われていたのだ。
 私は兄さんに命を分けているつもりだった。でも、それは兄さんから死を奪っ
ていただけ。
 兄さんが求め、私が与えられるはずのものは、私が本当に求めていたもので
もあり、勇気を出して素直に自分の想いを貫けば、かくも簡単に渡せたもの。

「ええ……ええ、兄さんには今度こそ本当の家族になってもらいますからね!」

(To Be Continued....)