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シーツは、洗濯を自分でしてみたい、という欲求を翡翠にぶつけることによ
って、事無きを得た。我ながら、危ない綱渡りであったように思う。
シーツを干す。綺麗に洗ったはずのそれに、昨晩の残滓が見えるような気が
して、心中に苦いものが走った。
………事実は事実だ、変えようが無い。
翡翠の厚意も、志貴の行為も、私の好意も。
良きも悪きも全ては事実。
暗澹たる気分だが、シーツは眩しい程に白い。染み一つ無い。
穢したのが自分なら、穢れを祓ったのもまた自分。
穢れ、祓い、禊。タタリとはこの国の風習。タタリは私を祟り、志貴は私を
婉曲な呪いにかけたか。
……よく解らない。
今の思考は狂い過ぎている。冷静さの欠片すら無い。
物事は冷静に捉えて然るべきだ。そうして正しい未来を導き出し、解答を得
る。それこそが錬金術師であり、それこそがシオン・エルトナム・アトラシア、
アトラスの長たる所以だ。
それがなんたる無様な姿だろう。我というものを失うべからず。自身を律す
べし。
ただ私は私であり続ける。
私は、シオン・エルトナム・アトラシアだ。分割思考を、エーテライトを操
り、情報を司る者。
だから、自分という情報を司ることなど、容易いはずだ。
シーツを物干し竿にかける。翡翠は流石に手馴れたもので、手際良くシーツ
が並べられて行く。
「シオン様、一度こうして手で皺を伸ばしてから、干すようにしてください。
そうするだけで、だいぶ違いますので」
「了解しました」
先程のはまあ仕方が無いとして、彼女に倣い、引っ張るようにして皺を伸ば
していく。自分では真似ているつもりなのだが、どうも翡翠ほどスムーズにい
かない。彼女が三枚終わらせる間に、私は一枚、といって具合である。やはり
知識だけではなく、効率的に動ける経験というものは重要だ。
どうすればもっと巧く出来るだろう、と考えていると、翡翠が私の脇にそっ
と並んだ。解りやすく、ゆっくりと、作業行程を繰り返す。
ふと、彼女の顔を見遣る。計ったようなタイミングで目が合った。翡翠は僅
かに目を細め笑うと、私に一枚シーツを手渡した。自分はブラウスを手に取る。
端を手にして、一度布を宙で払い、伸ばす。洗濯バサミで止め、細かな皺の
方は手で。二人揃って、同じ動作をする。誰でも容易に理解し得るであろう、
丁寧な教え方。ふと、翡翠ならば優秀な先生になれる、と思った。
こうして誰かにモノを教わる、というのは、思っていた以上に心踊るもので
あった。それは多分に、翡翠の人柄によるものだったろうけれど。
ほのぼのした空気を味わいながら、二人で洗濯物を干す。
「―――あれ? シオンも洗濯?」
と、声がした。慌てて振り向けば、昨日の情事などどこ吹く風で、志貴が微
笑んでいる。
「何か……珍しいね」
足を止めた彼に、翡翠が手を止めて一礼する。このまま放って置けば、翡翠
が『私がお手伝いを頼みまして』、なんて科白を言うのは目に見えている。別
に私が望んだと素直に言えばいいのだが、彼女はそれを良しとするまい。私は
彼女より先に口火を切った。
「洗濯をしてみたい、と私が翡翠に頼んだのです。知識としてあるのと、実際
にしてみるのはやはり違いますから」
単に興味があったからだ、という意味を前面に押し出す。別に志貴は気にし
ないであろうが、翡翠が頭を下げるのは、きっと私も彼も良い顔をしないであ
ろう、ということは解っていた。
「いいんじゃないか? そういうのも大切だと思うけど」
言い終わるや否や、彼は翡翠の足元の籠から衣類やシーツを取り出す。
「あの、志貴さま?」
「あー、いいからいいから。本当はシオンがきちんと経験出来るようにするべ
きなんだろうけど、やっぱり時間がかかるし、何より」
「何より……?」
翡翠が首を傾げる。無論私も続く言葉を知らない。
「秋葉が見たら、色々と五月蝿いだろ」
苦笑を滲ませる。成程、確かにこの洗濯の量は少なくない。時間をかければ
かける程、秋葉に見付かる可能性は高いだろう。この空気が終わることに私は
惜しいものを感じてはいたが、確かに秋葉ならばあれこれと小言を漏らしそう
な状況ではある。志貴の気持ちを察して、私と翡翠もまた、苦笑を漏らした。
「そうですね。惜しいのは確かですが、早く済ませてしまった方が良いでしょ
う」
同調した彼の顔には気配りと優しさがある。今度は三人で、取り止めも無い
談笑を交しつつ、作業に没頭した。
不意に思う。こうしていると、志貴にはきちんと他者への配慮がある。なら
ば何故、夜は私に対して配慮してくれないのだろう。
あのふしだらな饗宴が始まって、早一週間。抱かれる真祖、貪る志貴、流さ
れる私の夜毎の戯れ。お陰でこちらは睡眠時間が不足している。反面志貴は多
少疲れた様子こそあれ、一向に眠気の欠片も見せない。
要するに、彼はそういうことに馴れているのだ。体にそれに対しての準備が
出来ている為に、不慣れな私とは対照的な姿でいられる。
理不尽な気がした。我知らず彼に対する意識がささくれ立つ。外面こそ保っ
ているが、内心穏やかではない。
軽く目を細め、唇を小さく曲げる。そうして会話を続けた。笑みを零してい
るように見えればいい。翡翠には悟られるかもしれないが(事実、彼女は一瞬
眉を詰めた)、それを本人に告げるような真似はするまい。
志貴と翡翠の性格を利用している。その賢しさに微かに嫌気が差す。小さな
刺のように胸に残る。
志貴が……いや、志貴と真祖が、夜に性交を行わなければ、誰も彼もがこん
な想いをせずに済むのだが。そうすれば、私が自慰行為に流されることもなく、
私がこうして作り笑いをすることもなく、私が翡翠の性格を利用することもな
くなる。
それはとても望ましいことではないか。
「………何を」
考えているのか。馬鹿馬鹿しい。また流されている。馬鹿げた摩り替えをし
ている。
そうだ、今回の件は、確かに志貴と真祖にも問題はあるが、私自身の弱さだ
って充分に問題視して然るべきなのだ。それを他人の所為にして、上辺ばかり
の免罪符を作ろうとすることが、まさしく弱さなのだ。
快楽になど流されない。それこそ、私が志貴に望んでいること、自分を律す
ること、それが出来ればいいのだ。
ああ、シオン・エルトナム・アトラシア。私は私に証明してみせよう。自分
のことくらい、自分で何とかしてみせる。
こうした、克服という概念を教えてくれたのが志貴だという事実は釈然とし
ないが、少なくとも彼が教授してくれたこの意思は間違っていない。そこは素
直に感謝しよう。
決めたならば、実行しなければならない。すると問題は、如何にして克服を
示すかに尽きる。
今日もまた真祖が来るかは解らない。一週間連続での性交に女性は耐えられ
るだろうが、男性が耐えられるのか。普通は否である。だが、相手は志貴だ。
常識が通じるのか。
常識というものに、真祖と志貴の性質を加え、あらゆる可能性をシミュレー
ト。……七割方、今日も彼等はまぐわうだろう。
来なければ来ないで、久方振りの安眠を楽しめばいい。来たのなら……さて
私はどう動こう。
思った以上に、事実を冷静に考えている自分がいる。そうだ、これが私だ。
僅かばかりの喜色を感じていると、志貴が私を呼ぶ。
「シオン、どうかした?」
「いえ、少し考え事を。大したことではありません」
手の止まっている私を訝しんだものらしい。思考に没頭して行動を放置して
いた。彼も一応は気にしてくれているという訳だ。
………志貴、か。
頭の中に一つ案が浮かぶ。
ある種悪辣なアイデアだが、これをもって私は私を試すとしよう。自身の強
さを自身に示そうというのだ、障害が高い方がより結果としてしっかりしてい
るだろう。
シーツを干す作業をしながら、一瞬手を振るう。馴れ親しんだ動きで、志貴
にエーテライトを接続する。本当は真祖に繋ぎたい所だが、彼女ならまず気付
いてしまう。良くも悪くも、志貴が鈍感で助かった。戦闘及び肉体に特化した
者なら、異常に気付かないとも限らないからだ。
一息つく。
見上げれば空は青く、雲は白く。薄黒い靄は私の中にばかり。
―――払拭して見せよう。
決意新たに呟く。
夜よ、来い。
《つづく》
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