「じゃぁ、俺のを飲むと良い」
「―――!何を馬鹿なことを言っている?志貴!?」
「いつも秋葉とかに言われ慣れているけども、この場では馬鹿ではないつもり
だけど」
機嫌が悪そうな志貴の声に、シオンは黙りこくってしまう。
何を――無謀なことを。そう言おうとしたシオンだったが。
「シオンは死徒としてぜんぜん不完全だって聞いたから。そんなにシオンが苦
しんでいるのを見過ごせないよ」
違う?と志貴はなんとも苦そうに頷きかけるが、シオンは顎を引いたまま。
――内心の葛藤と戦っていた。身体は乾き、志貴を欲している。だが一度吸
血衝動に身をゆだねてしまえば、転がり落ちるように死徒への道へ堕ちていく。
秋葉の研究もまだ進んでいない今の私はには、吸血はあまりにも危険な……
だが、シオンは知っていた。このままではいずれ耐えられないと。
脳髄が頭蓋の中で膨らむような不快感。自慢である頭脳も身体に抑えられて
揮うことはできない。シオンの身体はぐらりと揺れて、そのまま……
「志貴……だめ……」
「だめなもんか。ほら。一回吸われたこともあるんだ、俺は」
シオンの身体が志貴に倒れ込む。
志貴はシオンを軽く抱き寄せて、その口元を剥き出しの肩口に宛う。シオン
の前には志貴の鎖骨と首筋が広がり、そこに口づけするような格好になって。
シオンの嗅覚に、志貴のかすかな石けんと汗の香りが響く。くらり、と目の
前が暗くなるような感覚を堪えながら、シオンはその口を――
「う……あっ、あああ……」
シオンの口が、志貴の首筋に口づけする。
そして、その歯を皮膚に突き立て、溢れ出る赤い血潮を口の中に注ぎ込み、
溺れるぐらいの血潮に酔いしれて――
「あ……ああ……」
酔いしれ、己の浅ましさを呪いながらシオンは死徒に成りはてる……筈だっ
た。
だが、その肉を切り裂く獣の牙はシオンにはなかった。
志貴の首筋を舐め、まるで戯れるように甘噛みするだけで。
むしろそれは、シオンにとってはまったく予期しない事態であった。
否、予測に逆らうありうべからざる現象だった。なぜ死徒になった筈の私が、
給血好意を行うことが出来ないのか?それほどにシオン・エルトナムを侵す病
魔は不完全だというのか?シオンは志貴の首筋を噛みながら、呆然と――
一方の、生殺与奪を奪われるような無防備な格好の志貴は、緊張すら感じさ
せなかった。
むしろシオンの頭に手を添えて、過たず自分の首筋に案内までしていたので
あった。
「……………………ほら」
志貴はぽんぽん、とシオンの頭を撫でる。
いつもならそんな真似をされると激発するはずのシオンも、目を見開いて呆
気にとられたまま。
やがて志貴はシオンの口を外すと、シオンの顎筋に両手を添えて、見つめる。
可憐なシオンの小さな顔は、半ば泣き出しそうに崩れていた。
その――その紫の瞳が、志貴の瞳に問いかける。
「シオンは死徒じゃないよ。俺には分かっていた……だからね」
「なぜ……そんな……私はこんなに渇いていて……」
「ああ、まるでいつものシオンと俺が逆になっちゃったみたいだな。だからね」
志貴はすっとシオンの顔から手を離すと、身体を反らしてサイドテーブルの
上に手を伸ばす。そうしてシオンの前に差し出されたのは、一杯の水だった。
タンブラーに注がれた一杯の水を、信じられない瞳のシオンが凝視する。
「はい、水。飲んでみて――血の代わりになると思うよ」
「これが?」
シオンは両手で志貴の手からタンブラーを受け取る。
いったいこれにどんな秘密が隠されていると?もしかしてあの琥珀の不思議
なクスリが混ぜられているのかも知れない。シオンはさまざまな可能性を、乱
れた思考の中で探る。もしや毒ではという危ぶみもなくもないがそれを取るほ
ど衰えたわけではない。
シオンはそっと唇をタンブラーの縁を触れる。
上目遣いに志貴を伺いながら、こくんと水を喉に送る。
甘くねっとり舌に絡みつく舌ではないと、この身体の乾きは決して癒される
はずはないのに、いかにしてこの只の水で……
「…………あ」
シオンは思わず声を上げ、志貴はそれに満足したような頷きに首を動かす。
シオンのからからに渇いた喉に甘露の様に染みこむと、すっとその乾きは潤
いを前に消えていく。乾ききった大地のようにシオンの喉は水を欲し、シオン
はそのままタンブラーの底を上げると……
「ほら、ね」
空になったグラスを呆然と見つめるシオン。
いかなる魔術――いや、魔法が我が身に施されたのか理解できないように。
そうして両手でタンブラーを抱えたままのシオンの手から、志貴はそっとそれ
を受け取る。そして安堵の微笑みを浮かべると、ゆっくり子供にでも説いて聞
かせるように。
「だから、シオンは湯あたりしてたんだよ」
「湯あたり……?」
「そう。日本のお風呂は温度が高いからね、シオンみたいに慣れてないのに長
風呂してると体温が上がりすぎて体力を消耗して……それに、あんなに深く漬
かってふらふらしてたんだから」
志貴はそう説明しながら、自分を穴が空くほどに見つめるシオンに可笑しく
思う。森羅万象を知悉し予期するような口をいつも効いているけども、なにか
――ぬけているんだよなぁ、と。秋葉は古の学者が天文の眺めて古井戸に落ち
た話をしていたが、シオンはまさにそんなふうな趣があって。
志貴の言葉を信じられないような顔で聞くシオンは、なんどか口を動かして
から掠れた声で尋ねる。
「私は……渇いていたのだ……」
「それは、入浴中は汗を掻くし体温も上がるから当然だよ。湯あたりしてるん
ならなおのこと……それに、俺は見て分かったよ。シオンは吸血衝動に襲われ
てないって」
シオンに志貴は、自分のこめかみをとんとんと叩いて示す。
「ここに感じなかったし、それに……目がね、普段のシオンと同じだったから。
死徒の目はすぐに分かるんだ」
「―――――――――――――――――――」
「だから、シオンは心配しすぎだったんだ。疑心暗鬼に捕らわれない――のは
難しいけども、身体のことで悪い方へ悪い方へと考えすぎていたんじゃないの
かな」
「―――――――――――――――――――」
「さっきはまぁ、ずいぶんと気障な真似したけどもあれも安全だと分かってた
し」
志貴は鼻の頭を軽く掻いて、さも恥ずかしいことを言ったかのように目をぷ
いとそらした。
ベッドの上で、ほどかれた髪にワイシャツ一枚というあられのない格好のシ
オンは喉に手を宛う。なるほど、志貴の言うとおりだ、あれほど腫れ上がるか
のような喉の痛みにも似た乾きは治まりつつあった。他愛もない……あまりに
も他愛がない。真剣に分析し、推測していた自分の全存在が馬鹿にされたよう
な。
だが、それで志貴を責めるのはお門違いである。全ては己が愚かであったの
だ――シオンはうなるように認める。
そうであれば、もうどうして志貴に顔を合わせることが出来るのか。
間違えて志貴に襲いかかろうとし、散々非礼の言葉を浴びせかけた。つらつ
らと言動を顧みるに、もはやシオン・エルトナムという名は地に堕ちたも同然
で……
そのまま俯せになって隠れてしまいたいシオンであった。今なら真摯な謝罪
を述べればこの志貴なら許してくれるだろ、と、きわめて正確な予測が立つ。
だが
――まだ、全てが解決したわけではない。
「―――――――――――――――――――」
シオンは喉をさする手を下げ、剥き出しの胸の谷間にそっと触れる。
そこには、熱く脈打つ鼓動があった。志貴の言葉を聞き、その存在を間近に
感じるだけで脈動し続ける熱い心臓。
まだ、私の身体は志貴を求めている。志貴が欲しい。こんなに――こんなに
志貴が欲しいのは、死徒の吸血衝動以外にあり得ない――
――私がそんな、欲求すら不完全な破綻した死徒なのか
「……だから心配しなくていい……とか言うと根拠がないとか言われて怒られ
るかな。まぁ、翡翠に見られない内に服を探してくるからゆっくりしてるとい
い……」
志貴は志貴でそんなまとまりのないことを口にしながら、ぽんと肩を叩いて
志貴は立ち上がろうとした。だが、その肌に志貴の感触を感じる、そしてそれ
が離れる瞬間が――シオンには嫌だった。理屈ではなく本能で、志貴が離れて
いって仕舞うことへの事への嫌悪と恐怖が彼女の心臓をわしづかみにして、咄
嗟に。
シオンの手が志貴の腕を掴んでいた。
「シ、シオン?まだ具合悪いのか?」
「―――――――――――――――――――」
シオンは志貴の腕を両手で抱きしめるように掴んでから、困惑を覚える。
何故自分はこんなことをしているのか?という疑問と、本能の暴走への戸惑
い。錬金術師は理性で常にあらねばならない、だが今の自分はまるでそれにふ
さわしくない。
シオンはすがるような目で、志貴を見上げる。
その深い色合いの瞳を見つめ、シオンは己の中を見透かされるかのようなそ
んな感情を覚える。
「―――――――――――――――――――」
嗚呼。
その瞳を合わせる志貴の存在を前にしてシオンは、それの正体を悟った。
そんなことも何故気が付かなかったのか。志貴のことを考え始めたときに真
っ先に否定した情動。間違った前提から判断を進めてきたので、私はこんなに
も迷ったのだと。
シオンは唇を噛み、胸の内の焦げそうに熱い感情に名前を付ける。
これは……恋であると。
そんな感情をアトラスの娘になってから抱くことになろうとは、予期もしな
かった。
「……シオン?その……」
腕に縋り付かれ、じっと問いかけるような目を向けられる志貴はその腕に感
じるシオンの胸の感触に、喜んで良いのかそれとも困るべきなのか、不思議な
悩みを抱えていた。何しろ普段は突っ慳貪ですらある理知派の少女が、素肌に
ワイシャツ一枚というあられもない格好で抱きついてくるのである。
シオンの頬に、徐々に上気したように血の気が集まってくる。
今までの悩み、絶望し、そして悔やんでいたシオンの顔に生気が宿ってくる
のを志貴も感じ取っていた。それよりも、シオンはその目をかすかに潤ませさ
えして。
――そんな瞳で見られると。
志貴も、己の中に期待と高まりを感じていた。
自分の部屋に、無防備なシオンと二人っきり。それもシオンは自分を信頼し
きった瞳で、まるで恋する少女の様に。
二人の少年と少女は、別の道を通って同じ結論に辿り着く。
目を合わせあって、お互いを察し合う。
やがて、もじもじした様子でシオンが……
「……志貴……志貴は……分かるのですか?」
「何を……?」
「私が覚えていたのは吸血欲求ではない……でも……まだ、志貴が欲しいと心
の中では……これの正体を、志貴はなんだと思っているのです?」
シオンはそう、切々と問うてくる。
志貴はその言葉に、ふっと柔らかい微笑みすら浮かべて。
「……分かるよ。それは……恋しているんだ。」
「恋、ですか……そんな弱い感情に溺れるとは、私は錬金術師失格ですね」
「でも、血肉の通った人間としては当たり前だよ……」
志貴は片手で、シオンの身体をそっと抱き寄せる。
志貴の腕の内に収められたシオンは、微かに身体を緊張させた。
そして、シオンははっとしたように志貴の身体を――
!
不意に自分の身体を引き離そうとしたシオンを、志貴は抱き留める。
シオンは志貴の腕の中でもなんとかその間をあけようとするが、力が違う故
か苦しそうに呟く。
「いけない、志貴……こんなのは、いけない」
「どうしてだい?」
「志貴は……真祖の寵愛を受ける者。私は真祖の協力を得なければいけないの
に、真祖の愛を受ける者をかすめ取るような真似は許されない……」
そう言って志貴に抗うシオン。
だが、そんな素振りさえ今の志貴には可愛く思える。抵抗されればされるほ
ど、志貴の腕には力がこもり、シオンの身体をまた抱き寄せた。
口元に笑みを漂わせて、志貴はシオンの耳元に囁く。
「……アルクェイドなら、いいんじゃないのかな?」
「そんな――志貴は真祖を知らさなすぎる。私ばかりか志貴にも――」
「まぁ、それは今はいいや。それよりもね、シオン」
志貴はまた、唇をシオンの耳に寄せる。
吐く息、吐く言葉がシオンの敏感な耳朶を撫でるように刺激する。
あっ、と甘い戦慄に身をすくませるシオン。身体は、こうして志貴に抱きし
められることを随喜に震えている。だが、彼女の心の最期の一部が、理由を欲
していた。
その理由をシオンが編み出すよりも先に。
「あの風呂場で倒れたときから、俺はシオンの事を面倒見なきゃいけないと決
めてたんだよ。最後まで――だから」
志貴はシオンの顔に向き直る。
そして、その小さく可憐な唇に、己の唇を塞ぎ――奪う。
シオンは目を見開いてその接吻を受けて……息も詰まるような、鮮烈な感触。
シオンの身体から力が抜ける。
最後の理由の一片を、欠けていたパズルの最後のピースのようにはめ込まれ
たかのようにシオンは、全てを理解し、その身を静かに委ねた。
そして長い接吻に目を閉じて――
「志貴……志貴が……貴方が、欲しい」
《つづく》
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