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 エルトナムの名はもはや恥さらしの代名詞か。
 栄光ある錬金術師の家系であり、エーテライトとソウルハックの技術を編み
出し、アトラスの学院にその名を残したエルトナム。だが、その末裔である私
はこの体たらくだ。

 シオン・エルトナム・アトラシアの意識の中で初めに浮かんだセンテンス。
 その言葉が自らを苛み、シオンは情けなさのあまりがっくりと脱力したくな
る。

 恥さらし、というよりも恥知らずだ。
 死徒にこの身体を蝕まれ、その吸血衝動に駆られるままに志貴に襲いかかっ
た。志貴を求め、志貴の血を欲して、あられもない格好で浴場で飛びかかり―


 ――どうなったのか?

 シオンの意識はその記録をたどり直す。
 だが、近づいた志貴に立ち上がった瞬間が最後の記憶であった。その後に水
柱が立ったのは謎だったが、きっと自分は志貴に飛びかかりその血で喉を潤し
たのであろうか。
 だが志貴もなすがままにはされないだろう。かつて志貴は私が襲いかかって
も応戦したように、譬え素手であっても――

 そよそよと吹く風が心地よい。
 胸の上から顔に冷たい風が体温を奪っていく。仰向けになった身体は柔らか
い何かに受け止められていた。

 ――それよりも今、私はどうなっているのだろうか?

 シオンの頭脳は現在の状況を割り出そうとする。高度な分割思考は今は使え
ないが、一つの思考だけで必要十分だ。きっとあのまま死徒への反転した私を
志貴は葬ったのであろう。でなければ、こうやって横たわっている筈はない。
 それに、視界は闇に閉ざされている。目の上に冷たい何かが乗っかっていて
――

「…………ん」

 おや、おかしなものだ。死に至ったのに喉が声を出せる。
 おまけに身体の感覚も残っている。手を動かそうとすると動き、顔の上に乗
っている何かを確かめる。濡れたタオルが目と額の上に乗っていた。

「……気が付いたかい?シオン」

 ああ、志貴の声がする。私があんなことになったのに、暢気な声だ。まった
く志貴には危機感が足りない、死徒に身を侵されたものが傍らにいるのに無防
備で、大丈夫かい、とか気がついたかい、とかもう、こっちの神経を逆撫です
るほどの言動を。

 シオンのまとまりのない思考の連鎖が、むしろ腹立たしさを生み出している。
その結果をシオンはつらつらと分析し、結論する。
 ――アトラシアの名を辱める私は、いったい何と愚かなことを思考している
のかと。

「とりあえず連れてきたけども……気分はどう?シオン」

 何を言うのだこの男は、まったく非論理的な価値判断をしている。自分に襲
いかかった死徒に連れて来ただの気分はどうだの聞いてどうするのだ、おまけ
に私はお前に倒されたんだぞ、そんなこと尋ねる方が間違ってる。
 それに志貴、私はお前を――お前を欲しくて襲いかかったのに。

「……うう……あ」

 シオンの喉がそう、声にならない息を漏らす。
 相変わらず吹き付ける微風。熱せられた肌から体温を奪い、そのひやりとし
た感覚がえも言われない。だがまだ身体は煮られたように熱く、ぐったりと力
が抜けている。

 まだ、渇いている。
 業の深い、まったく業の深い死徒。死してなお血を欲するとは。
 ――もういい加減あきらめろ。もはや私は黄泉への道を、この暗闇の中で。

「あ……水、ほしい?シオン。じゃぁ……」
「……それは東洋の習慣の、末期の水というものですか?」

 ああ、やっと言いたいことを口に出せた。シオンは満足感を覚えた。
 だが、耳にはひゅっ、っと驚きの息を吸う間抜けな感じの音が。続いて

「な、何を言い出すんだよシオン!」
「それはこちらの台詞です、志貴。あなたは死徒である私を倒しながら何をの
んびり喋っているのですか?死徒が危険な存在だと知らないあなたではないで
しょう、だから私を早く灰燼に帰さないとあなたがどうなるか分からないので
すよ!」

 言いたいことを口にするのはやはり私の風に合っている。
 そう思いながらシオンは横たわりながらも舌を繰り続ける。

「あなたには私以上に大事な人がいるでしょう、それに約束したはずです、も
し私が死徒に成りはてたら志貴、あなたが私を……」
「……………………………………………………もしもし、シオン?」

 おそるおそる尋ねてくる志貴の声。きっと目をまん丸にして慌てているのだ
ろう。
 シオンはそう想像しながら、顔の上に被さったタオルを取り外すと――
 差し込んだ光に目を細める。シオンは身体を起こそうと手を付くが。

 薄ぼんやりとした視界の中で、手に団扇を持った志貴が横に映る。
 だが視界はがくんと下がるとそのまま横に転げ落ちていって。
 そのまま一回転するな、と考えたシオンの予期は裏切られる。

 がっしりとした強い力が、シオンの身体を受け止めていた

「ああもう、こういうときにだけは世話が焼けるんだから」
「…………」

 シオンは自分の態勢をようやく認識する。体を起こし、横に倒れそうな身体
が手で支えられている。それはがっしりとした大きな男性の手で、肩を片手で
掴んでいて。
 視界を解かれた髪が半ばふさぐ。生乾きの長い髪は顔と身体に張り付くよう
でいかにも気味が悪い。シオンは力がこもらない手でその髪をかき分ける。

 志貴はパジャマ姿で、腰をかがめてシオンの顔を心配そうにのぞき込んでい
た。
 だがその視線が動くと、気まずそうに目をそらして。

「…………何を、ためらっているのです?志貴」
「シオンはまだそんなことを……というか、どうなってるかわかってる?」

 そんなことを聞かれるとは失敬かつ心外な、そもそも計測と実測の院である
アトラスの徒を何者だとおもっているのだこの男は――と言いかけたシオンだ
ったが、思いとどまって志貴の顔をじっと見つめる。

 風呂場で見たのより、遥かに距離は縮まっている。いやそれ以上に志貴の手
が直に肩に触れて、その部分の皮膚だけがじんじんと疼くように。

 まだ、体の中の熱は冷めていない。こうして志貴に触られているのは、シオ
ンの神経にひどく障る……

「君は風呂場で倒れて、とりあえず俺の部屋に運んで来て」
「……それはおかしい、志貴。なぜ私が倒れて志貴の部屋の運ぶのです」
「……ああ、それは、混浴してたって秋葉や琥珀さんに知られたら大事だろ?
だからとりあえず……いろいろ大騒ぎだったんだからな」

 そういって志貴は目の前で大きくため息を吐いて見せた。

 シオンはその話を聞き、自分の記憶とその情報を継ぎ足す。志貴は嘘を吐か
ないのでその情報は信頼できた。そうなると自分は死徒の反転衝動に襲われた
が、志貴は私を気絶させて善後策のために連れてきたと言うことか、と考えな
がら。
 やはり志貴のすることは穴だらけだ、なんでこんなに考えのない人間が長生
きできる――と頭の片隅で、呆れて怒りすら覚えるシオン。

 脊髄と心臓と喉はドキドキと荒く脈を連動している。
 身体に痛みはないが、死徒の再生力と志貴も素手を考えれば無理もない。

 志貴はシオンの方をちらちらと目を反らしながら

「……本当に、脱衣所に服なかったからそんな風なわけで……あー、見ちゃい
ました、ごめんなさい、許してくれとは言わないけども責任の取り方は俺もい
ろいろと」
「言語不明瞭です、主述と目的語の関係をきちんと整えてください。で、何の
ことを言ってるのです、志貴?」

 志貴はぽりぽりと指先で頬を掻くと、ぼそりと。

「いや、だから今のシオンの格好」

 ああ、納得しました。とシオンは頷きながら自分の身体を見下ろし――

「……………………………………………………」

 ……なんと私は恥ずかしい格好をして居るんだろうか。
 シオンの認識はそれであった。素肌の上に男物のワイシャツ一枚で、インナー
も着けていない。首を曲げると胸の谷間の肌が見えており、まるで裸と同じよ
うな。

「……………………………………………………」
「もしもし?シオンさん、その、なじってでも良いのコメントを呉れないかな?」

 じーっと、真剣に見つめているのだがどことなく寝起きの人間のような正体
の籠もっていないシオンの様子に、不安そうに志貴が語りかける。シオンは指
先でまだ水気を含む紫の髪を指に巻き付けてていたが……

「――――――――――――――――――――」

 シオンは黙り込んで、かぁぁぁ、と熱くなる頬に目線を伏せた。
 ああもう、エルトナムの名は私の代で恥さらしではなく恥知らずに堕ちてし
まった。私は志貴の前でこんな肌を露わにした誘うような格好でいるだなんて、
学院は愚か先祖に知られても立つ瀬がない。
 いやそれ以上に、志貴に……志貴に裸で浴場で襲いかかってしまった上に、
志貴の話によるとここまで連れてこられる最中にくまなく全身を見られたかと
思うと。

 ほとんど全身そそけ立つほどの感情に震えているシオンに、志貴は手を視界
に振って正気を確かめようとする。その暢気な仕草がカチンとシオンの中の疳
に障る。

「……ああ、その、出来るだけ見ないようにしたけどもいろいろ不可抗力があ
って」

 だが、お得意の長広舌でシオンは志貴をののしり倒すことはしなかった。

 それは――
 シオンは、身体の中から僅かだが、逆らいがたい熱の波動を感じていた。
 どっくどっくと心臓が不規則かつ気味悪く脈動し、喉が口蓋の上へ張り付く
ような乾き。そして、志貴の視線が我が身にくまなく好色に注がれたかと思う
恥辱が、逆にシオンの中の熾き火にまた別の空気を注ぎ込む。

 ――ああ、まただ。この身の業の疚しさはまだ私を辱めるのか

 そんな感慨よりも、身体の中の異変が延髄を駆け上がり、金剛不壊であるは
ずのシオンの脳裏をじりじりと侵し始めてきた。欲しい、志貴が――欲しいと。
 ほとんど吐き気にも似た乾きの衝動に、シオンは口元を覆う。そして顔色を
変えて俯くと――

「……まだ気分が悪いのか?シオン?ああ、やっぱり琥珀さんに……」
「何を流暢なことを……志貴。お願い……だから……」

 己の荒い息を悟られたく無いかのように、シオンは口元を抑える。
 志貴は相変わらずシオンの顔色を覗き込んでいたが、明らかに気分が悪そう
なシオンを気遣っている様子であった。眼鏡の向こうに無類に優しそうな瞳が
シオンの目を見つめているが、シオンは彼には――朱色の呪わしい私の瞳が見
えていると思った。

 だから、なんで死徒にそんなに優しいのか?志貴は――解せない。
 いや、そもそも私の理解の範疇に彼は居ないのだから。だがそんな私が私で
居られるのは僅かな時間にすぎない。シオンはそう考える、故に

「……私はもう……私はもう耐えることは出来ない。だから」

 シオンは志貴を見つめていられなかった。いや、こうして肩を触り続けられ
ているのもたまらない。その手越しにじんじんと志貴の体温が伝わってきて、
それがシオンを――浅ましくも歓喜させる。

 せめて最期に志貴の顔をまっすぐ見よう。未練はないように。
 シオンは軋む首筋を上げて、志貴を真っ正面から見つめようとする。だが、
目が上がらなかった。ほとんど全身の力をそう結集する覚悟で顔を上げると―


 そこにはひどく真面目な、志貴の細い目があった。
 蒼さを帯びた黒い瞳が、まるでシオンの向こうまで見通して言うかのような。
 志貴はシオンの肩を掴んだまま、空いた手で――パジャマの襟元をくつろげ
た。

「何を……何をする?志貴?私はもうダメなんだ、だから早くとどめを」
「そんなに――そんなに俺の血が欲しいのか?シオン」

 すぅ、と温度が下がるかのような低い声であった。ぞわり、とシオンは内心
おびえにも似た感情を覚えるが、むしろそれは死徒である存在の抹消への恐怖
だ、むしろ喜ぶべきではないか――と。
 シオンは頷きかけるが、顎は引いて動かない。

「じゃぁ、俺のを飲むと良い」


                                      《つづく》