飢え、乾き、そして
阿羅本 景
――慣れないものだ、とアトラシアの娘は思う。
故郷と言えるのはあのアトラスの山の中の、ひんやりとした穴蔵であった。
穴蔵とはその実態を知らぬ余所者の言い分であり、その実は地下都市とでも言
うべきものである。地の底へと至る無限の螺旋階段、放射状に延びた通路、多
くの房、天井の高い蒼穹のホール、鉄の扉、金の鎖、黴びた羊皮紙の香りと天
井に煤けついた古の煤、三重に偉大なトトメスを褒め称える磨り減ったヒエロ
グリフのレリーフ。
沈滞した空気と沈黙。そして通路の角で囁かれる密かな声と、扉の向こうに
歓喜と絶望の混じった声が混じる。
それが、シオンが覚えており、そして――捨てた故郷であった。
いや、学院が己を捨てたのか。今でもそちらの世界で回る手配状は彼女を捕
捉せんとしたが、それは奪回のためではなく処罰のためであるとシオンは判断
していた。
そんな故郷には未練はない。だが……
シオンの手は透明なお湯を掬うと、その指からこぼれ落ちさせる。
さらさらと液体が手を伝い肘まで零れて落ちるのを、シオンの切れ長の瞳は
見つめていた。
この違和感は、あまりにも多すぎる水のせいだ。
シオンは一人納得して頷く。水の多い世界を見なかったわけではない。タタ
リとの邂逅から三年、シオンは一人世界を彷徨っていた。
だが、シオンの心の中の感覚はいまだアトラスの学院を引きずっていた。砂
漠の中の山にある学院には、英知と禁忌は溢れ出るほどにあったが水は溢れ出
しはしなかった。一本だけの深い井戸が地脈の底まで貫き、伏流水を汲み上げ
ていたがそれはあまりにもささやかな水分であった。
院長の後継者である自分も、また水の配給を等しく受けるものであった。
浮世離れした……いや、狂気の世界に足を踏み入れた錬金術師達にとっては
実験と生成に使う純水こそは留意すれども、己のために用いる水は度外視する
べきであると。
それがアトラスのスタイルだった。狂気をまず形から模倣するとは愚劣な…
…と皮肉に感じるシオンであったが。
シオンは手に掬ったお湯を見つめると、ぱしゃりと零す。
水面に落ちた固まりは波紋を作り、お湯の上を同心円の模様を描いて広がる。
そして回折と反射で模様を変えながら広がっていって……
シオンの目に映るのは、広い露天風呂の光景であった。
その岩作りの湯船には満々とお湯が張られていて、湯気が立っている。シオ
ンが仮寓している遠野家のこの露天風呂は、シオンの目からすると非常識に見
える代物であった。
露天風呂が、というよりもこの巨大な岩風呂に張られた水の量が。
アトラスでは身体を拭う為に桶一杯の水しか用いなかった。ましてやバスタ
ブにお湯を張るなどと言うことは贅沢と言うよりも非現実で非常識な行為であ
り、この遠野家の露天風呂に至ってはアトラスのいかなる資産よりも……狂気
じみたものに感じる。
そして、その露天風呂の中にシオンは一人漬かっている。
腰まで届く長い髪を結い上げて、タオルの内にたくし上げている。シオンの
その細いが女性らしい身体はお湯の中に隠れ、肩から上だけが覗いている。
この浴場に天井はなく、庭側は竹垣で塞がれている。
羅紗紙の夜空に、錐で開けたような星々の天蓋。そして、はさみで切り抜い
た月。
「ふぅ……うううう……」
シオンは軽く、うめき声を漏らす。
心地よさと、むず痒いような奇妙な混じり合った感覚が身体を走る。
これまでにこうして湯船で足を伸ばすというのは未体験であり、その奇妙に
も思える水圧のぬくもりがシオンの身体に染み通る。
だが、その身はすでに死徒によって浸食されている。
いや、全きの死徒ではない。死徒としては出来損ないであるタタリによって
もたらされた死徒の病魔は不完全であり、日の下で歩くことも出来、また吸血
衝動も限定的なものである。このような状態である彼女は、死徒の禁忌である
流水の禍にも中途半端に犯されていた。
「う……ううう……」
流れる水に当たると火傷をしたように感じるが、この静かな湯船に浸ってる
分にはむず痒さを覚えるだけである。だがそれはこの水を大量に使った入浴の
快と入り交じっており、その感触はシオンには予測できたとはいえ、内心の違
和感を隠し得ないものであった。
「あ……はぁ……」
こんな妙な思いをしなければいけないのに、何で私は入浴しているのか。
その理由は一つであった。彼女の頭に上がったのは志貴の存在である。
この露天風呂はそもそも閉鎖されていたと言うが、シオンを気に入る秋葉が
客のためにというその一言で再開しているのであった。シオンはこんな大浴場
を一人で使うことに気後れを感じたが――
湯上がりのシオンが志貴の傍らを通り過ぎると、実に嬉しそうな顔をしてい
る。
志貴は口では向こうの人はあまりお風呂を使わないだろうから、シオンにこ
れが合うかどうか?とか言ってはいるが、シオンの風呂上がりに会うことに悦
びを覚えている様子であった。
志貴はその判断価値に潔癖なところがあるので、それで私が入浴すると我が
身のことであるかのように喜ぶのか、あるいはこの国の入浴という価値観に私
が敬意を払うことが嬉しいのか。シオンはそう言う分析を下していたが。
ただ口に出して尋ねるまでもないと断じているし、エーテライトを使ってハ
ッキングするまでもない。
――そうして私は、志貴を喜ばせるために入浴している
毎日ではないが、シオンは入浴をしていた。志貴という友人のために生活習
慣を変えていると思うと、誇り高いエルトナムの娘であるシオンには不可解さ
苛立ちも覚える。が、それはこの遠野家に寄寓する以上は当然の措置、俚諺で
言う「郷には入れば郷に従え」であると。
志貴。
その名前を思うとシオンの中でさまざまなデータがリストアップされる。丸
一日エーテライト接続をした志貴には分からないことはないとシオンは自負し
ていた。
そしてこの町に現出したタタリを倒し、自分の研究に協力してくれる……友
人。
「……遠野、志貴か」
希有の力を持ちながら、それを自覚しない無謀な振る舞いの多い男の人だっ
た。
この町を支配する魔である遠野秋葉の妹で、使用人である共感者の双子の前
では主で、真祖の寵愛を受けていて、なおかつ教会の代行者ともごく親しい友
人であり、二人の死祖を葬った直死の魔眼を持つ男。
そんなデータだけを並べるとどんな怪物なのか、そんなものが実在できるの
か妖しく思えるほどの矛盾した存在。だがその本当の姿はというと――
「……愚かな。私はいったい何を」
遠野志貴には好意を抱いている。生まれて初めての同年代の男性の知己であ
り、共にタタリと戦った戦友であり、こちらから協力を強要したが今でも真祖
との間を取り持とうとしてくれていて、彼も私に好意を――
「うっ……」
喉が渇く。シオンは口元を抑えて項垂れた。
自分が志貴に好意を抱いているというのはこちらの勝手な感情であり、妄想
だ。錬金術師でありアトラスの娘であり、エルトナムの跡継ぎである自分がこ
んな感情を弄しているのは全く愚かであると言うしかない。
しかし、彼が私に好意を抱いてくれたとしたら、私も彼を求めて――
人と人がお互いを求め合う心。アトラスの学院にあった私はそれを知らなか
った。
だが、初めて私がその感情を知ったのはこの身が死徒に犯された後だった。
死徒というこの孤独な存在は、孤独を癒すためのにはその貪婪な本性を――
シオンの口が、憎々しげに呟きを漏らす。その声は震えていて……
「……浅ましいものだ、死徒というモノのは」
親和は吸収を意味する。
分かたれた二つの存在を一つにするためには、喰うしかない。
それが死徒のロジックであった。万物に対して佇立する真祖の永劫の孤独か
ら生まれた死徒達は、その孤独の呪詛を浅ましく呪わしい、戯画化された醜悪
な振る舞いに変える。それは呪われた僕を生んだ真祖への恨み故か、呪いに駆
られた己の愚かさ故か。
死徒のその身体を時間の抗しがたい流れに対して保つための力を欲する。い
や、それ以上に染みた呪いの疼きを抑えるために、血を、その血を……
シオンはお湯の中でその細い肩を自分で抱きしめる。
僅かに細波立つ湯面を、シオンはその紫の瞳でじっと見つめた。私はまだ死
徒に成りはてては居ない。死徒に堕していれば、こうやって沐浴することすら
も身を焼くほどの苦痛になる。
だが、心はもう死徒に侵されているのであろうか?
常にそれに関してはチェックと診断を欠いた事はなかった。七つの分割思考
により己の思考言動の記録を多面的に調査し、分析し、評価し、決定する。そ
してその類い希な演算能力はまだ死徒に堕するまでには至らないと結論づける
が。
だが、志貴の事だけは……この初めての友人だけは……
欲しい、と。その思いを禁じることは出来ない。
シオンのしなやかな手が、喉をさする。
「……ダメだ……なぜ私は……」
――もし、私がもっと早く志貴に出会えたら。
刹那の、衝動のような、らしからぬ思考。
シオンは顔を上げ、己に強く言い聞かせる。
「意味のない前提だ、あり得ない仮説だ、なにを……なにを未練じみたことを
言う、シオン・エルトナム・アトラシア。なぜお前はそんなに弱く成りはてた
のか?栄えあるアトラスの娘でありエルトナムの裔であるお前が……まるで…
…」
まるで――お前の感情は……
シオンはそこで己の思考を止めた。
栓のない、答えのない尻尾を噛む蛇のような無限遡及の思考だ。このような
ものに大切な思考時間を割くことは許されない。次のタタリまで二十年、真祖
の協力を得たとしても決して永い時間ではない。
心の中から志貴の存在を追い払おうと、シオンはする。
だが、喉が渇きを覚えていた。声帯が腫れて喉の奥に張り付き、胃袋がひね
れるような感覚。脳髄もちりちりと焼け、綿密に組み合わされた思考房の回線
を焼くワームに侵されるような。
「…………」
シオンは湯船の中で、僅かに身を震わせる。
どれほどそうやって居たのかもシオンは覚えていなかった。ただ耳はちょぽ
りちょぽりとお湯を注ぎ続ける湯口の規則正しい音だけを聞いていた。
その中をひたひたと歩く足音が聞こえていたはずだが、己の中で戦うシオン
の耳にはそれが何であるかの認識が遅れていた。漸く気が付いたのは、人の声。
「あ……あれ?誰か居るのか?」
低くまろみを帯びた、豊かな男性の声。
シオンは俯き湯面だけを見つめていた顔を上げる。信じられない、と。いや
信じられないと言うのは今の自分がこのような状況が到来することを計算して
いながらも感情的に排除していたと言うことでありそれはすなわち――
だが、シオンの目がその姿を捉えるに至るともはや疑う余地もなく。
「――誰?」
露天風呂の一番奥に座していたシオンは、湯気越しの向こうからその姿を見
た。腰にタオルを巻いて、桶に片手にこちらを見ている男性の姿を。
胸にある、大きな赤黒い傷跡。その上の顔は見慣れていたが眼鏡を着けてお
らず、目を細めてシオンの方を伺っていたが。
お互いに、どちらがどちらを先に認識したのかは定かでない。
だが同時に、シオンは首まで風呂の中にずぼんと潜り、その男性はくるりと
背を向けて
「ご、ごめん!シオンが先に入っていると思わなくて!」
「し、志貴!あー、あ、ああ……きゃぁぁぁ!」
志貴はきびすを返すや慌てて掛けだそうとした。
だが足が地面を蹴る前に、シオンの声から叫びが放たれた。
「待って!」
そして、言った方も言われた方もその言葉に愕然とする。
言われた志貴は駆け出す格好のままで凍り付いたように動きを止めた。タオ
ル一枚の格好はひどく間抜けであり、自分の軽率な行動故に赤面する思いであ
った。
一方のシオンも、なぜ自分が志貴を呼び止めたのか――わからなかった。
とうとう自分の思考が志貴を前に暴走したのかと訝しがるより先に、善後策
を素早く決定して――
「……な、なんと仰いました?」
「…………待ちなさい、と私は言いました」
普段通りの落ち着いた声を何とかだすと、志貴は背中を向けたままで気を付
けの姿勢になる。間違えて女性の入っている風呂に入り込んだというこの現行
犯の現場を押さえ込まれた為に、為す術なしの無条件降伏とでも言い足そうに。
「……なぜ私が入っているこの浴場に、志貴が入ってくるのですか」
「いや、だから誰も入っていないと思って」
「脱衣所に私の服があったでしょう、何故それくらい観察し、類推し、判断し
ないのですかあなたはいつまで経っても」
そう説教しながらも、志貴のデータを分析するとそんなことには気が付くほ
ど注意力のある人物ではないという結論が出る。そうであればこの説教は時間
の無駄であったが、言わずには居られない。
いやそれよりも、こんな説教をするのはシオン自身が望んだ……
だが志貴はあれ?と小さく疑問の呟きを漏らす。
「……いや、無かったけど……」
「?そんなことは……いや、琥珀さんが気を利かせて洗濯と着替えを用意して
くれているのかもしれませんが。それでも、風呂場の気配は察せなかったので
すか」
志貴は頭をぽりぽりと掻くと、済まさそうに頭を下げる。
だが背中を向けているのでその頭は全く別の方に向かって下げられたのであ
るが。
「……ごめんなさい。気が緩んでました……如何様にも謝りますので、俺はこ
れで」
「……ですから待ってください」
再び志貴は踵を上げて風呂場から去ろうとすると、再び背後から呼び止めら
れる。
シオンは首までお湯の中に身体を隠しながら、志貴の大きな背中を見つめて
いた。目を細めると、おそるおそる肩越しに振り返る志貴を湯気越しに……
「いや、シオン……待てっていわれても、キミが先客でお風呂に入ってる訳だ
し、俺がここにいたらやっぱり」
「……ええ、分かっています。ですが、このまま志貴が戻るのも非効率です。
幸いこの浴場はこんなに広いのですから……」
シオンはそこで言葉を止め、喘ぐように息をした。
自分は何を提案しているのか。こんな善後策を私は講じていったいどんなこ
とを望むのか、それは決まっている。志貴と、志貴に……
「……どうぞ、そのままお風呂に」
そこまでなんとか口にすると、ぶくぶくとシオンはお湯の中に沈んで泡を立
てる。
志貴は鼻まで水没したシオンを不安そうに眺めていたが、ここでもう一度断
ると倍ほど弁の立つシオンの説教が降ってきそうだった。
しかし、なんだってそんなに簡単にシオンは自説を引っ込めたのか?と志貴
は考える。
だが、分からない。
志貴はあきらめたような溜息を漏らすと、こそこそと腰をかがめて歩き出す。
「じゃ、お言葉に甘えまして……」
志貴は隠れるように洗い場まで辿り着くと、ちらちらと湯船の方を気にしな
がら身体を洗い始めた。
振り返ると湯船の奥にちょこんと浮いているシオンの、タオルの巻かれた頭
が浮かんでいる。髪を上げたシオンの顔を見るのは初めてでだなぁ、くらいに
志貴はぼんやりと思っているだけであったが。
だが、鼻まで水面下に潜っているシオンはそれどころではなかった。
志貴を呼び止めたばかりか一緒に入浴しようなどと言い出したのか。こうな
ることはすでに予想していた――のではない。だた、自分の喉の渇きがこんな
言葉を言わせていたのだと、だが何で理性が検閲できなかったのかと。
異常だ。思考回路のロジックが間違っている。今の自分は間違えた演算で正
しい前提から間違えた回答を生み出しそのままありうべからざる行動をとり続
けている。このままでは不確定な灰色の混沌の世界の中に迷い込んでしまって
……
でも、乾く私の心はそれが正解だ、予期し得た事態だと断言する。
「…………」
シオンはぴくりとも身動きせず、目だけを動かしていた。
志貴は軽く鼻歌交じりに身体を流していたが、いい気なモノである。わしゃ
わしゃと泡まみれになる志貴に後ろから、この苛立ちを覚えるシオンは背中に
怒鳴りつけたい衝動に駆られる。
だが、身体を抱きしめたままシオンは内側から焼く乾きと、肌をちくちくと
走るお湯の感触に身悶えした。そんな彼女には一刻も早く自分が湯から上がる
という選択肢が抜け落ちてしまっていることを、気が付いていない。
「ふぅ………」
志貴はシオンと対角線上の湯船に、ひたひたと志貴は足を入れる。
志貴は顔を逸らしてシオンの方を眺めないようにしていたが、シオンは志貴
のことをずっと見つめ続けていた。中肉中背だと思った志貴の身体は思いの外
に筋肉が着いており、たくましく思える。そして何よりも志貴の胸の烙印のよ
うな傷跡。
シオンはその身体を見つめ――喉がひくり、と動くのを感じる。
ああ、初めて目の当たりにする男性の身体が……書物でも見たこともある、
検体のそれを見たこともある、だが同年代の男性をここまで間近に見るのは。
「んぅ……湯加減はどう?シオン」
頭の上に折りたたんだ手ぬぐいを乗っけると、朗らかに志貴は尋ねてくる。
志貴はシオンの様子を察しては居なかった。それよりも、先ほどから息もせ
ずお湯に鼻まで浸けているシオンの息が続くかどうかの方が心配であったのだ
が。
「……………………」
「……というか、大丈夫?シオン?おーい」
志貴が心配そうに尋ねると漸くシオンがゆっくりと顔を上げる。
それでも水面に現れたのはシオンの顎までであった。そんな素振りのシオン
におかしさすら覚えて志貴は笑おうとするが。
でも、志貴はシオンのその顔を目の当たりにすると、眉間に皺を寄せる。。
シオンの顔が真っ赤になっていた。そして潤んだような瞳でこちらをじっと、
穴を空きそうなほど見つめてくる。
――様子おかしいよな?シオンは
そう頭の片隅で思わないでもない志貴であった。
「……いえ、その……気にしないでください、私のことは」
「そ、そうは言われてもね」
シオンは絞り出すようにそう言うのが精一杯であった。
志貴はこのなんとも気分が悪そうなシオンに不安を覚えるが、湯船をわたっ
てシオンの向こう岸まで行くことにはさすがに躊躇する。そもそも肉体接触を
翡翠並みに避けるシオンが、こうやって同じ湯船に入っていること自体一つの
奇跡であるのに。
さて、どうしたものか……と志貴は戸惑う。
だが、そんな志貴のとまどいをシオンは見ていなかった。いや、そこまで志
貴の表情を観察する余裕が彼女から失われていたと――
「……」
シオンは身体の芯が震えるような戦慄と戦っていた。
同じ水に入っていることからか、志貴の波動がシオンの身体全体に浴びせか
けられる。水は霊気の媒質であり、迂闊だった――こんなに全身に志貴の存在
を感じると私は抑えきれなくなる。シオンの錬金術師としての判断はそう警告
を発していた。
今すぐにでもこの風呂から飛び出さないと、致命的な事態になる。
だが、シオンの頭脳を奪う病んだ本能は歓喜していた。絶え間なく湯船の向
こうから伝わる志貴のその波動に酔いたい、これが自分の乾きを癒してくれる
源だ、何を躊躇するのか――今すぐにでも向こう岸に渡り、志貴を手に入れろ
と。
「……はぁ……ああっ」
シオンの喉は苦しげな呻きを上げる。
理性で、心の力でそんな病んだ心をねじ伏せようとする。今まで志貴の前で
は耐えていたのにこの場で、粗相を侵すわけにはいかない。私はアトラシアの
娘、エルトナムの裔、誇り高い錬金術師でありこのような――
――だが、私は今、錬金術師として全てを予測して動いているのか?シオン
よ
「ああ……う……ああ」
「おい……大丈夫か本当に、苦しかったら、その、琥珀さんを呼んで」
何をのんきなことを、貴方が悪いのだ、遠野志貴。
こんなに、こんなに全身に貴方の存在を浴びせかけないでくれ、お願いだか
ら……シオンは叫びだしたかった。叫んで逃げ出したい錬金術師のエルトナム・
アトラシアとこのまま酔いしれ、志貴を我がものにしたいシオン・ソカリス。
背反する二つの欲求、拮抗する理性と本能。
その狭間にシオンの肉体が挟まっている。故に動くことは敵わず、震えるま
まに。
いや、身体が全てを決してしまいそうでもあった。乾きだ。心臓が捲れ上が
って喉に繋がりそうな欲求、体温はどんどんあ上がり、錬金術師をかくあらし
める脳髄を茹で上げるように。
遠野志貴。何故私は貴方をこんなに……苦しめ……歓喜に震わせる権利があ
るのか?
「志貴。志貴……」
「お、おい、シオン?くそっ、ええい、もう!」
志貴が立ち上がり、ざぶざぶと湯船をわたって水を掻き分けて走ってくる。
近づく志貴の存在と、その姿が真っ赤な視界の中に見える。こちらに近づい
てくる志貴は望むところなのに、いや、私は逃げ出さないと。千々に思い乱れ
るシオンは……
「来ない……こちらには……」
「ああもう!前からお前はそう言うところがいけないんだよシオン、もう!お
前がそんな様子でこっちが立ち止まるなんて思ってないだろう、ホントに!」
――よく分かってるではないか。だから、お願いだ。
変に冷静なシオンの中の思考。だがそれは身体が思考の最後の束縛を放たれ
た瞬間の、最後の計算の結果であって。
シオンの中は、今や――
「志貴―――――あなたが――――!」
「ってシオン、おい、おおおおおっ!?」
シオンの身体が跳ね上がり、志貴に襲いかかろうと――
した瞬間に、ひときわ盛大な水柱が立った。
真っ白になった視界の中で、シオンの意識は最後に記録を残す。
ザボーン!ごぽごぽという耳に残るやけにくぐもった音だけが。
《つづく》
|