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「ん――――――」
次に瞼を上げた時、世界は横向きだった。
つまり、私は身体を横たえているのだが――――ここは、何処だろう。
とりあえず身を起こすと、肩に柔らかい布が触れる。
「これは……」
清潔な純白のシーツ。それは、遠野家から私に与えられた寝具だった。
そして、私は柔らかいベッドの上に乗っていた。
半分以上確信しながら四方を見回す。
……ここは、私が住まわせてもらっている部屋だ。
でも。私はいつの間に――――どうやってここへ戻ってきたのだろう。
まだ頭が重い。
昨晩からの記憶にノイズが認められる。
とにかく、外の空気を吸おう。
――けれど、立ち上がって窓に向かおうとするまでで、身体は充分に冷された。
肌寒い。空気が、直接に肌へ染み込んでくる。
「え……きゃっ!」
ようやく自分の格好に気付く。
私は、見慣れない白のワイシャツと手持ちのニーソックスを僅かに身につけただけで、
ほとんど裸に近かったのだ。
誰が見ているわけでもないけど、気恥ずかしさに躰を抱いて――
唐突に、すべてを思い出す。
このシャツの持ち主も。
どうして下着さえ纏っていないのかも。
気を失った理由も。
すべてを、ぞくぞくするほど克明に。
「はぁ……あッ……」
目を閉じれば、闇の中に思い出す。
唾液の染みを作りながら、身体中を舐めまわす姫君の赤い舌。
獣のように荒々しい志貴の指先。
そして、ゼリーのように柔らかくぬかるんだ肉を貪る、私自身の指。
淫らな言葉が耳を犯し、はしたない姿で隷属した私は心さえ犯された。
唇を合わせ、胸を寄せて、志貴に後ろを――あんな場所を攻められて――
そうだ、私は何もかも弾けてしまった。
「ん、っ――――!」
あれだけ陵辱を受けても、いや、受けたからこそ、それを回想するだけで
身体は貪欲に反応する。
目覚めたばかりだというのに、足の間がまた熱くなってしまう。
――――いけない。また、変な気分になってくる。
はぁはぁと自分の喘ぎを聞きながら、替えの下着と洋服を身につける。
冷たい水で顔を洗いたかった。
洗面所へ、急ごう。
ふらつきの消えない足で、這うように扉へ向かう。
その向こう側で、しゃかしゃかと規則正しく床を擦る音が聞こえた。
「あら、シオンさん。おはようございます」
ドアを開けると、箒を持った割烹着の少女がぺこりと頭を下げる。
琥珀だった。
「おはようございます、琥珀」
「はい、おはようございます。今日はよくお休みでしたねー。
朝御飯は、テーブルにラップして置いてありますけど……お昼御飯を作ったほうが
早そうなお時間です」
どうやら随分と長く気を失っていたらしい。
琥珀の言葉から察するに、もう正午近くになるのか。
「お手数をかけてすいません。ああ――少し待っていてくれますか。
昨日お借りした本を持ってきますから」
「うわあ、もう読み終わっちゃいましたか。流石にお早いですね。
あれ、志貴さんは一冊読むのに三日くらいかけてたんですよー。
シオンさんだと……ううん、全部で六時間くらいですか?」
指折り数える琥珀を、私は感嘆の息で迎える。
「非常に正確な測量です。琥珀には色々と書物を借りてばかりで、すっかり読書の
速度も覚えられてしまっていますね」
「いえいえ、記憶に残るくらいにシオンさんが早いってことですよ。
それより、気に入っていただけましたか?」
「ええ。他国の書物には見られない独特の雰囲気、文体、リズム……どれも非常に
興味深く、時間を忘れさせていただきました」
「次の”宴”は、物語が急展開しちゃうのでまたまた目が離せないんですよー。
でも、やっぱりは私のお気に入りは……」
「――――蜘蛛、ですか?」
微笑んで問い掛けると、琥珀もまたほころぶような笑顔で返してくれた。
「はい。視えない糸でするするり――――です。
確かシオンさんの……ええと、えーでるわいす?」
「エーテライト、ですね。確かにこれもそう目に見えるものではありませんが……
あの糸とは次元が違う。
存在するのに存在しない、掴めないのに捕まる。
そして、落ちた蝶は蜘蛛の望むままに操られ――――やがては果てる。
あれはまさしく、因果という名の糸です」
「そう、そこが堪らないんですよ」
琥珀と談笑していると、身体の疼きもやっと落ち着いてきた。
あとは冷水を浴びれば完全に覚醒できるだろう。
「それでは、洗面をしてきます。本は……まだ置いておきますか?
お掃除中のようですし」
「はい、お願いします。秋葉様がもうすぐ戻ってきますから、頑張って掃除をしないと。
汚れた部屋なんて見せたら、私しばかれちゃいます」
「まあ、ふふふっ……。そういえば、あと二日で戻るのでしたね」
「はい。八橋、楽しみでしょう? シオンさんはなにしろ初体験ですもんねー。
今こそ少女が女に開花する時ですよ、このこのー!」
「ええ、変わったお菓子だそうですから、私も興味に絶えません。
秋葉が買ってきてくれると良いのだけど」
「大丈夫、一割の心配は無用ですよ。
それじゃ、午後は外でお掃除をしていますから。御用の時は呼んでくださいねー」
可愛らしい会釈をして、琥珀は台所へと向かった。
勝手口から外へ出るのだろう。
さて、私もそろそろ微睡と決別しにいこうかと、足を踏み出しかけた時。
「あ、れ――――――」
なんだろう。
頭の片隅、どこか奥の方で、ワタシがなにかに躓いた。
足が縺れて、つるりと転んで、靴紐が解けてしまう。
ああ、早く結ばなければ。
だが、指が震える。手が滑る。紐が、うねうねと触手のように逃げて暴れる。
なんだ、この違和感は。
「何か――――おかしい」
なにか、おかしい。
なにが、おかしい?
どこかしらで、辻褄が合っていない。
ワタシは私にそれを教えたのだ。
現実は九割以上正常に機能している。
だが。どこかが決定的に間違っている。
私はまだそれに気付けない。
ワタシはもう気付いているのに。
どこだ、残り一桁のエラーは何処に潜む?
私は違和感を感じる前に何を見たのか。
そもそも、それは目に見えるものだったのか。
なにが足を引っ掛けたのか、それを考えるのだ。
最後に見たのは琥珀の後ろ姿。
彼女に取り立てて不自然な所はなかった。
いつも通りに笑って、いつも通りに話して、
いつも通――――
「――――――あ」
そうか、そういうことか。
琥珀はまったくいつも通りだったけれど、一つだけ見えない不自然をした。
琥珀があの言葉を知っているはずは無いのだ。
私は”彼女”にそれを言ったのだから。
本人から聞いたということもあるだろうが、
果たしてあんな他愛もない会話の切れ端までを報告するものだろうか。
仮に聞けたとして、琥珀は何故そんなことを聞くのだ。
……疑問があるなら、確かめるまで。
私に流れる錬金術師の血は、自然に足を――――翡翠の部屋へと向かわせた。
「これはシオン様。何か御用でしょうか」
翡翠は丁寧に一礼して私を部屋に入れてくれた。
お茶や椅子など細々と世話を焼いてくれるのを辞し、単刀直入に切り出す。
「不躾で申し訳ないのですが……二、三質問してもよろしいですか?」
「は? あ――――はい」
翡翠は面食らったようだが、神妙な顔で頷く。
そして、私は彼女に幾つかの質問を浴びせた。
まず第一に、琥珀との会話の有無。
昨晩から今朝にかけての行動。
志貴の部屋で何かを見たか。
私となにを話したか。
答えは、どれも期待を満たす内容で揃えられた。
私は情報を高速で整理しながら、半ばの確信を込めて最後の質問をする。
「――――――八つ橋は、好きですか?」
翡翠の答えに、私は真実と次に向かうべき場所を悟った。
――――彼女は黒だ。
《つづく》
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