[an error occurred while processing this directive]



「……志貴、今、良いです?」

 真夜中のドアの向こうで声がする。
 扉が躊躇いがちにノックされた時に、ベッドの上に寝転がって本を読んでい
た志貴は体を起こした。ノックの調子は翡翠や琥珀、秋葉ではないことに気が
付いたからだった。

 案の定、それに続いて響いてきたのはシオンの高い声であった。
 志貴は借りていた本を枕元に放り出すと、スリッパに足を入れてベッドの傍
らに立ち上がる。今は寝間着姿でシオンに見せられた格好ではないが、だから
といって着替えるわけにいかず……

 志貴は左右を見回したが、やがて諦めて首を振った。
 こんな夜分に訪れてくるシオンの方に問題があるのだ、こちらの多少の非礼
はシオンであれば許すであろうと。そう思うと気を楽にして、志貴は答える。

「ああ……シオンか?入って」

 その名前を口にしながら、志貴の脳裏には最後にあったときのシオンの異変
を思い出す。いつもは礼儀正しい彼女が自分を見るなり顔を赤らめて逃げ出す
ように走り去っていってしまった……もしかしてひどいことをされたのでは?
という懸念も頭の中によぎるほどの。

「――――――――――――――――――――――――」

 志貴がそんな考えを頭の中によぎらせている間も、扉は開かなかった。
 扉を挟んでしばし両者沈黙の対峙を続けていたが、やがてドアノブがゆっく
りと動き、ドアが静かに開いていく。志貴は立ち上がり、シオンを迎え入れる。

 シオンはいつもの服装のままであった。ただベレー帽だけを胸元に抱くよう
に抱えており、いつもの自信に溢れて行動する爽快さはない。目を伏せがちに
し、むしろおどおどしているかのような。

 志貴は首をかしげ、シオンを眺める。先ほどと言い今と言い、シオンの行動
にはいつもとは違っていた。ただひどくその弱々しい仕草は志貴を刺激し、今
すぐにでも抱きしめてキスの嵐を振らせたくなるような保護欲をかきむしる可
憐さを放っていた。

 ―――いかんいかんいかん

 つい食指が動き掛けた志貴は、己を叱咤する。
 夜の男性の部屋を一人で訪れた以上、何が起こるか覚悟の上……などと我田
引水な意見を採れば、シオンの協力者を以て任じるこの屋敷の支配者、遠野秋
葉の逆鱗に触れる。さらには秋葉と志貴は男女の関係でもあり、余計に事を悪
化させる可能性が高い。
 さらに言うと琥珀や翡翠にもよい影響が出るとは思えない……さすがに志貴
にもそれくらいはわかるようにはなっていた。

 志貴は身体の後ろで動き出そうとする右手を左手で押さえつけていた。後ろ
で組んだ腕のせいで、肩が妙な硬直をしているのを普段のシオンなら観察して
一くさり推測を述べたのかもしれない。が

 シオンはどうにも志貴に目を合わせずらそうにそわそわと戸口に立ち止まっ
ている。
 ただちらちらと志貴の方に視線を走らせると、ぱっとそれを反らしてしまう。
いつもならすでに原稿用紙数枚の台詞を述べるシオンにしては、奇妙なためら
いと沈黙。

 それにむしろ焦れてしまったのが志貴であった。

「その……シオン。何か用でもあるの?」

 志貴に声を掛けられたシオンは、びくっと肩をふるわせて反応した。それは
まるで後ろから脅かしたときの反応のようで、目の前にいるにしてはどうもお
かしな――反応であった。
 おかしい。それは志貴にも痛いほどわかった。何しろ初対面で挑み掛かって
きた時でさえ躊躇のカケラもない彼女だったのに、今の彼女と来たら……

「……その、もしかして……秋葉と喧嘩したとか、翡翠の慇懃無礼が気に入ら
ないとか、琥珀さんが怪しい薬の実験台にしようとしたとか、レンが変な夢を
見せたとかそういう……」
「いや、そういうことはありませんので安心してください、志貴。だけど……」

 思いつく限りのシオンの気に入らなそうなことを連呼した志貴に、シオンは
手を挙げて制する。でも話しかけるとシオンの舌は途端に重くなり、もごもご
と言語不明瞭に口ごもる。
 歯切れの悪いシオンの態度を前にして、焦れたり不快に思ったりするよりも
むしろ志貴には、いつもは見られない面白い現象を目の当たりにしているおか
しさまで感じ始めていた。ふ、と唇をゆるませて志貴はベッドに腰掛け、くつ
ろぐ。

「……志貴」
「ん?なんだい?またアルクェイドに交渉して欲しい事柄があるとか?」
「……いや、真祖の姫君には新たな案件はありません。あるのは……志貴、貴
方への方です」

 のろのろといつにもなく歯切れの悪いシオンの言葉であった。そう言い終え
る間にもシオンの顔は迷いと恥じらいが浮かび、頬を赤くして俯きがちで、胸
元に抱えたベレー帽を何度も握り直す。
 志貴はそんなシオンの様子を観察しながら――ひょっとしてひょっとすると、
という期待に胸を躍らせる。

 自意識過剰で妄想過多だとはわかっているが、シオンは自分のことが好きだ
からとうとう告白に来てくれたのか?という……甘すぎる期待。
 だが志貴もそれがあまりにもご都合主義だと感じていた。秋葉や翡翠ならと
もかく、理論の権化であるシオンがそんな衝動的なまでの感情を覚えるはずも
ないな、と。

 ……もしかすると、秋葉との会話が何かのきっかけになったのではないのか?

 そう思い当たると、志貴はにやけかける頬を無理に押さえてシオンを待った。

「――――――――――――――――――――――――」

 シオンには言葉がない。余程の迷いがあるのだろうか。
 だが志貴が見守る中で、だんだんシオンの揺らぐ表情が変わってきていた。
口元をきっと引き結び、眦にいつもの鋭い理論家の光を湛え、高貴の身故の威
厳あるきりっとした態度を取り直すと――志貴に改めて向かい直る。
 ただ、志貴の目にはいつも以上にシオンが鯱張っている様にも見えた。ああ、
肩の力を抜いて、と言いたくなるほどの。

「志貴。頼みがあります」
「…………シオンの願いならまぁ、大体は聞くつもりだが」
「―――――――――志貴の精液が欲しい」

 ――――なんだって?

 意を決したシオンの告白を、志貴は理解できなかった。
 シオンは志貴を見つめる――というよりも睨みながらそう口走ったのである。
提供して欲しい、という言葉は意味をするが、その前に何を言ったかがわから
ない……というよりも、理解したくないと思う方がより妥当だというか。

 志貴が口を間抜けにあけてぽかーんと座り込んでいる前で、ようやくの事で
用件を切り出せたシオンが軽く肩で息をしていた。彼女にはこの一言を口にす
るのに余程の勇気が必要だったとわかるほどの……

「……え?」

 ほとんど惚けたような志貴の反語に、かちんと来たようにシオンは再び説明
しなくてはならなくなった恥ずかしさ故か、若干感情的になって答える。
 シオンは噛みつくようになると舌を回転させて……

「だから、志貴の精液が欲しいということです。精液とはスペルマともザーメ
ンとも言う、男性の生殖器から射精時に分泌される精液を含む液体のことです。
当然男性であれば無縁では居られない体液の一つ、まさか精液も知らない精通
前だとは言わせません、志貴」
「いや、精液はよくわかる。確かになじみ深い体液の一つだ。聞き間違いかと
思った……」

 怒っているのか、何を言い出すのかわからない勢いのシオンに志貴は手を挙
げてその勢いを制する。花も恥じらうお嬢様のシオンと自分が会話で精液精液
と連呼する事になろうとは、予想だにしなかったことである。

 志貴は信じられないように頭を振り、足を突っ張って力を込めて立っている
シオンの様子を眺める。上から下まで、じっくりと。
 あまりにも信じられない言動を聞いたので、これはワラキアの夜の見せる幻
影かと思うほどの……だが、これは間違いなくシオンそのものであった。

「私は精液とちゃんと口に出して言いましたから、この距離で志貴が聞き間違
えることはありません」
「物理的にそうかもしれないけども、心理的にはそうでもないことがしばし…
…というか、精液って……シオン、お前、本当にそれが何かわかっているのか?」

 念を押す志貴に、力強く頷くシオン。

「精液に関してさらに医学的生理学的説明をすれば……」
「いや、遠慮する。精液……俺の精液を使って何をするんだ?シオン」

 志貴は眉根を寄せ、口に出して当然の疑問を呈する。
 精液をくれと言われて、その理由も聞かず渡す男性が居よう筈はない。それ
も夜分遅く男性の部屋に訪れて精液を欲しいというのは、尋常のことではない。

 ―――もしかして

 志貴の頭の中で、いやな予感が頭をもたげる。そしてそれはかなりの可能性
で確信を付いている発想であり……

 いやそうな顔をする志貴とは逆に、シオンはその言葉に、今まで込めていた
力がふっと抜ける。
 お得意の解説に入って心理的に楽になったせいか、不意にいつものシオンの
余裕ある態度にもどった――と志貴には思えた。

「志貴は私が死徒の研究をしていることをもちろんご存じであると?」
「ああ、いろいろ研究にも協力しているからなぁ……まだわからないことだら
けだけど」
「いずれ志貴にもわかるようになります。それはともかく、私に取っての重要
な研究対象の一人が、吸血種でありながら人間の常態を保ち続ける遠野秋葉で
す」

 志貴は頷きながらも、秋葉の名が上がったことでいやな不安を半ば確信に格
上げする。
 秋葉とシオンの謎の会話。秋葉は良いことを教えたと言い、そしてシオンが
現れた途端に精液のことを口にする。アリストテレス的論理解釈をするのなら
この三者の意味するところは……

 ――なんてこったい、秋葉のヤツ

 見る間に顔色を曇らせていく志貴に気が付かない様に、シオンの話は続く。

「秋葉は吸血量を調整しながら常態を保っており、その生態は死徒化の進行を
抑える研究の重要な手がかりとなりますだ。私が秋葉に協力態勢を築いている
のは志貴も承知のことだと思います。そしてその秋葉から重要な情報がもたら
されて――」

 シオンはそこで言葉を止め、まるで演出のような間を置く。
 志貴はベッドに腰掛けたまま、まるで入試の落第通知を聞かされるような青
い顔色でいるのを、シオンは注意しようともしてない。
 それに、ほとんど自分に酔っているかのようなシオンの蕩々たる演説を、志
貴は半分しか聞いていなかった。

「……その重要な情報というのは、秋葉はある種の体液を補充することでその
精神状態の安定を図っていると。それが志貴の精液であると……私もその話を
初めて聞いたときには信じがたかった」

 ああ、そうか――だからシオンは俺から逃げたんだ。
 志貴の中で合点がいく。秋葉から自分の精液を飲んでいると言われ、動揺し
て席を立った矢先にその張本人に出会う。こんな状況があれば平常心を保って
振る舞えと言うのは無理なことだった。
 シオンなら出来そうだが、彼女には潔癖な少女の一面を強く持っているのだ
から――

 シオンは話ながら目を閉じ、頭を振る。聞かされたことが信じられない、と
言いたそうな。
 だがそれも話術の一つで、目を開くとその冷たいとも思えるまなざしを志貴
に注ぐ。
 志貴はなんとも、苦いものを飲まされたかのような顔でいたのだが。

「だが、秋葉の情報は理に適っています」
「……はぁ」
「そもそも精液は古来血液と並んで霊的な媒質として呪術には欠かせないもの。
それは血と元を一にする液体で、生命力の象徴でありまた霊的因子の継承を司
る。それに女性側の因子である卵子に比べるとその扱いもきわめて容易です。
秋葉が精液の効能に着目したというのもある意味当然でしょう」

 しゃべりながらも軽く頷くシオン。
 志貴はその説明を聞きながら――そんな話を昔先輩に聞いたような気がする、
とも感じていた。だがそんな感想以上に志貴の頭を占めていた意見というのは

 ――秋葉はそう考えて飲んでる訳じゃないと思うぞ

 と。
 シオンの発想は演繹法的であり、まず最初に精子ありき、だ。だが秋葉がそ
んな風な発想を故に志貴の精液を求める訳がなく、肉体関係で偶然口にしてそ
の効能に気が付いてから飲むコトを思いついたという、帰納法的は思考である
と。

 志貴は頭をぼりぼりと書く。秋葉のヤツ、シオンになんてコト吹き込むんだ、
と。
 こんなコトをそそのかすのは琥珀さんかとも思ったけども、あの酔っぱらっ
た秋葉なら自ら言いかねない。全ての状況証拠が整っている。

「確かに秋葉の言うことは一理あります、古来の吸血種や死徒研究には精液と
いう研究アプローチはなされていません。これは血液に対して精液が実験用と
して採取するには安定供給が難しいこと、と古来から死徒も魔術師も男性主体
で……」
「いや、シオン、そーいうことはいいから」
「……そういうこと、で片づけられるのは心外です、志貴。私の説明は『そう
いう』無駄はないのですが?
 とにかく精液です。過去の情報を検索した結果いくつかの未解決の課題があ
り、ゆえに真祖の研究と並んで追い求めるべき重要課題であると判明した今…
…なすべきコトは一つ」

 シオンは力強く断言する。決意を秘めて志貴に、食い入るような瞳を向けた。
 向けられた方の志貴は悲しいのだか情けないのだが、よくわからない暗然た
る表情で打ちのめされたように座っている。シオンの説明はこれで一回転した、
シオンの主張は見事にスタート地点に着地していて。

「志貴。お願いです。志貴の精液を研究用のサンプルとして提供して欲しい」


                   

                                      《つづく》