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約束のキスの味は
               阿羅本 景

 宵闇の中にぬっとそびえる高い塀。
 路なりに続く塀はその頂点を夜の闇にとけ込ませ、あたかも空までそびえる
壁を作り上げているかのようだった。その中に白く浮き上がる門灯が、ぼんや
りと白い光を投げかけている。
 そしてその光に影を作る一人の女性の姿がある。
 鋳鉄の意匠を凝らした門柱の前に立つ姿は、あたかも衛兵の如く身動きしな
い。ただ衛兵やガードマンと違うのは女性であり、長いスカートの使用人のお
仕着せを着た少女であると言うこと。

 ショートボブの髪の上にフリルのカチューシャを乗せた少女が、何かを聞き
つけたかのように顔を上げて暗い道の彼方を見つめる。その予期に似た行動を
証明するかのように、小走りの足音と共に闇の中から走る人影がぼんやりと浮
かび上がっていて――

 軽く息を弾ませるその人影は、光の中にようやく姿を現した。
 眼鏡を掛けた一見、人が良さそうな学生。だけども何となくこの世とあの世
の危うい境界に立つ雰囲気を感じ取る者は感じ取る、不思議な印象があった。
 彼は門柱の前の少女のところまで来ると、膝に手をついて荒れた息を整えよ
うとしていた。だが彼がしゃべり始めるよりも前に、少女は静かに頭を下げる。

「おかえりなさいませ、志貴さま」
「いや、ただいま……いつもいつも悪いね、翡翠」

 志貴は顔を上げるとけなげにこんな夜まで自分を迎えに来てくれた翡翠に、
済まなさそうに頭を下げる。そのそぶりを見て翡翠は身体をわずかに竦ませ、
彼の謝罪から丁重に身をかわす。

 志貴はそんな翡翠の様子を見ながら苦笑して。

「ごめん、もしかしてずっとここに?」
「いえ、シエルさまより志貴さまのご帰宅が遅くなる旨の連絡を頂きましたの
で」
「そうそう、また先輩とアルクェイドがはちあわせてね、大騒ぎだったんだよ
……結局帰るのがこんなに遅れて、翡翠にも迷惑掛けちゃったね」

 そういって志貴は軽く手を合わせて拝む仕草をする。
 そんな志貴のポーズに、翡翠は背筋を崩さずに志貴を見つめて、言う。

「……そのお言葉は私ではなく秋葉さまにお申しください。私は志貴さまの使
用人ですので志貴さまのご都合次第でいかほどにも」
「……あー、うん、わかった」

 翡翠の拒絶とも取れる慇懃無礼な態度に、志貴は頬を指で掻いて鼻白む思い
であった。いつまでたっても翡翠は翡翠だなぁ、という内心の苦笑にも似た思
いは常にあったのだが……

「それに、遅くなるときには姉さんにもお伝えください」
「わかった……って昔からそういってるような気がするなぁ。いや、ごめんご
めん……秋葉は怒ってる?」
「いえ、今日は随分とお機嫌がよろしく……今は居間でシオンさまとご歓談の
最中かと」

 翡翠がてきぱきと事情を説明すると、志貴は口笛を吹くように口元をすぼめ
る。
 シオン――シオン・エルトナム・アトラシア。この遠野邸に居候をしている
異国の客であり、遠野家に縁が出来た以上彼女もまた尋常ではなかった。

 ――秋葉の知り合いで、まともなのって蒼香ちゃんと羽居ちゃんだけなんじ
ゃ?

 と、自らのことを棚上げにして考える志貴。尋常ではないというのは、彼女
は遠くエジプトの地よりこの美咲町までたどり着いた錬金術師であるという。
 さらにはその身を死徒に――

「志貴さまは、シオンさまにご感謝されるべきです」
「………へ?」

 唐突にそんなことを口にした翡翠に、意図を計りかねた志貴は驚いて尋ね返
す。
 翡翠は背筋を伸ばしたまま、主の志貴に物怖じせず淡々とその事由を口にす
る。志貴にとってはいつも小気味よくあったが、その反面風情がないなぁ、と
も思う翡翠の口ぶりであった。

 ――なんか、そんな口をきくメンツばっかり増えている……

「本日も帰宅が遅い志貴さまのことをシオンさまは、秋葉さまに弁護されてい
らっしゃいました」
「あ、そうなんだ……」
「秋葉さまはシオンさまをお気に召されておりますので、本日も志貴さまのこ
とであまりご憤慨なされずにおりました。ですので……」
「わかった、シオンには俺からもちゃんとお礼を言っておくよ。シオンはどう
だい?翡翠にとって」

 そういって志貴は翡翠に水を向ける。
 翡翠はその質問の意図をしばらく解しかねたように口を閉ざしていたが、や
がてその桜色の唇を小さく動かし、答えに困ったように

「……シオンさまはシオンさま、志貴さまは志貴さまです」
「あはは、そうかもしれないね……そうそう、まだ門限前だよね」
「はい。それでは志貴さま」

 翡翠の翡翠なりには道理が通っていたが、他の人から聞くとはぐらかされた
ような答えをいつものこととして志貴は受け取って、翡翠に促す。
 翡翠は軽く一礼すると、鋳鉄の門扉を押して中に志貴を誘った。

 夜の庭園に響く、ギィーという軋み。
 その音を聞き慣れた志貴は、玉砂利の路をざくさくと音を立てて歩いていく。
門扉から玄関口まで結構な距離があり、まばらに灯る明かりの中ではいささか
心細いといつも思うのであるが。

 だが、真っ暗な訳ではない。
 屋敷の窓からは黄色い光が漏れていた。閉鎖されている部屋が多いので灯る
光はまばらであるが、それでも誰一人待つことのない夜の屋敷をさまようより
は、この光は心を穏やかに迎えてくれる。

 志貴の歩調を翡翠は何気なく追い越すと、先回りして重い観音開きの戸を開
ける。
 そして玄関ホールの、ほのかな明かりに照らされた広大な空間の中で再び志
貴に頭を下げる。

「お帰りなさいませ、志貴さま」
「ただいま……っと。晩飯食べてないんだけど、まだあるかな?」
「姉さんに聞いて参りますので、志貴さまはお部屋でお待ちください」
「ん……ああ、まぁ、任せた」

 志貴は何かを言おうとしたが、翡翠の言葉に敢えて異論は唱えなかった。翡
翠がお辞儀をしてくるりときびすを返し、素早く廊下を進んでいくのを見送っ
てからおもむろに階段を上ろうと――

「……そうだな、シオンだな」

 足を上げて階段に上り掛けた志貴は、その足をまた床に戻して頷く。
 帰って来るやいなやこのホールにピリピリと苛立った秋葉が待ちかまえ、こ
ちらが一を言う前に十の説教を浴びせかけるという苦難を味合わずにいるのは、
この屋敷のバランサーを自認しているシオンのお陰である、と志貴も思う。

 そんなシオンに一言お礼を言いに行くのも悪くはない。
 もっともシオンはあの独特の興味のなさそうな表情で、私はこの屋敷の人間
に平等に接しており、それが全ての予測の結果最善であるからだ……と説いて
聞かせるのであろうが。

 そのいつもながらの情景を思い浮かべると、志貴には不意におかしく感じら
れて微かに笑う。まぁ、あの子は可愛いしそういうところをいじくると面白い
……などと人の悪いことを考えながら。
 志貴は足の向かう先を変更する。向かう先は――

「このままキッチンまで行けば手間は省けるし、秋葉にも謝るのも悪くないだ
ろうし」

 そんなことを呟きながら、志貴は廊下を歩いていた。
 玄関のホールから帝王階段の下を潜る広い通路を歩き、志貴は居間に向かっ
ていた。今こうしている間にも、秋葉とシオンが端然と向かい合ってお茶でも
飲んでいるのかと思うとほほえましくもあり……

 志貴が頭の中で軽く挨拶の言葉を考えて、壁際の調度の前を通り過ぎ、やが
て真鍮の大きな金具で飾られた居間の扉に手を掛けようとすると。
 志貴が手を触れるより先に、その扉が動いた。

「ん?」
「―――あ」

 何の前触れもなく強く開かれる扉に、志貴は咄嗟に反応して後ろに下がって
いた。油断すると開いたドアに激突するかもしれず、危ういところであったと
思う志貴だったが、それよりも中から誰が出て来たかの方が気になっていた。

 それは扉に体当たりする様にして出て来た人物も同じであった。
 彼女も目を丸くして、扉を避けて身を仰け反らせている志貴を見つめて――

「や、やあシオン。ただいま」

 薄い色合いの髪を秋葉よりも長くのばし、器用に編み込んでいるシオンだっ
た。
 ミニスカートの普段着であったがベレーはなく、志貴はいつもの癖でその顔
ではなく長い髪に目がいってしまったが、すぐに瞳を戻す。
 いつものようにシオンの、翡翠並みに物事に動じない冷静沈着な顔がそこに
はあると志貴は予想していた。

 ――シオンにしちゃ、随分荒っぽいな

 と、急に開いた扉から思わない志貴でもなかったが。
 だが予想に反して、シオンは落ち着きを払った態度を取らなかった。珍しく
驚いた顔で戸口の向こうの志貴を見ると、自分に挨拶されたことも気が付かな
いかのように志貴の顔をじっと見据えている。

 そして、志貴の身体を上から下まで素早く見つめる。値踏みするようでもな
く、なんとなく視線を合わせづらいような……そんな落ち着きのないシオンの
素振りを見ながら志貴は、軽く手を挙げてシオンの注意を惹こうとする。

 が、それに対するシオンの態度も妙なものであった。
 一くさり説教するわけでもなく、礼儀正しく礼を返すわけでもない。シオン
は困ったような顔でうつむくと、頬を赤くして――

「……」

 そのまま何も言わず、シオンはそそくさと小走りに駆け出した。
 顔を伏せてまるで志貴から逃げ出すように。まるで恋する少女が憧れの人の
前で狼狽えて逃げ出す――のに似ているとおもうのは志貴の自意識過剰でもあ
ったが、ただ、シオンの普段の態度でないことは明らかである。

 咄嗟に手を伸ばしてシオンの腕を掴んで引き留めようかと思った志貴。

 ――いや、そういうことは翡翠以上に嫌いだからなぁ

 志貴は上げた手をひらひらと振って、傍らを駆け抜けるシオンを見送るばか
りであった。
 たたたたた、と小気味よいピッチで走り去り、廊下からホールに消えていく
シオンの背中を見送りながら志貴は、首をひねる。

「……俺、なんか悪いコトしたかなぁ」

 何もしてないよな、と呟きながら思う志貴であったが、秋葉の口などに言わ
せると志貴は常に無礼の類を犯すのでシオンの神経に触れているという。それ
も琥珀の口に掛かるとシオンと秋葉を入れ替えても同じだというのであるが。
 そんなことを思い当たると、逃げていったシオンにひどく悪いコトをしてし
まったかのような錯覚にとらわれる志貴であった。

 開いた扉の前でぼんやりと物思いにふける志貴。
 そんな志貴が次に聞いた声が、意識を現実に引き戻す。

「あら、おかえりなさい。兄さん」

 ――しまった

 今更ながら礼を言って緩衝材にすべきシオンを逃し、一番恐れ居ていたお小
言メーカーの秋葉に直面する事態になってしまったと志貴は知った。こうなる
ことがわかってるんだったらエーテライトを巻いてでもシオンを引き留めてお
くんだったと。

「あ、お、おう、ただいま」

 裏返りそうになる声を咳払いを交えて抑えると、志貴はおどおどと挨拶する。
 自宅に帰ってきて、妹と会うのが一番緊張する――これだけはどうにかなら
ないかと思わないでもない志貴であったが。

 首をにゅっと居間の中に差し入れる。ここで秋葉が翡翠の情報に反して怒っ
ていれば、そのまま首を引っ込めて逃げ出す構えで。
 シックであるがお金のかかる装飾の居間の、ソファの上に秋葉は鎮座してい
た。

 片手にウィスキーのグラスを抱え、ほのかに酔って頬を上気させている秋葉。
目元は緩やかに下がっていて、酒精による多幸感の中に浸っていると志貴にも
見てわかる。
 空いた片手で長い髪を指で梳き、顔を上げて戸口の志貴を眺める秋葉。

 陶然たる酔態であったが、秋葉は不思議と絵になる。

 志貴は居間に入り込んで秋葉と話すか、それとも軽く挨拶だけして首を引っ
込めてしまうのかを考える。いつもならじゃぁ、と言って撤退するところであ
るが、シオンの挙動が気になる志貴は、ゆっくりと身体を滑り込ませる。

「……随分と遅いお帰りですわね。門限に間に合ったようでほっといたしまし
た」
「いや、まぁいろいろあって……そういえばシオンが今出て行ったけども……
ケンカでもしたのか?」

 そんなことないよ、という牽制を込めた志貴の問いであった。
 秋葉はそれにムッとすることなく、グラスを軽く傾け、口元に運ぶ。志貴を
ちらりと見つめてそれからああ、と何かを思い出したかのように頷く。

「……ふふふ、私とシオンは仲の良い友人ですわ。喧嘩なんて以ての外です」
「そう、それはよかった……なんか様子が変だったからさ」

 志貴はドアの側から身を離さずに尋ねる。
 秋葉は掲げたグラスの中に濃厚な酒精を口に含み、そして……それを口の中
で味わいながら微笑んだ。上気した秋葉の顔に浮かぶ笑みはある種ぞっとする
ような美しさがあり、志貴はしばし息をするのも忘れてしまう。

「……シオンには、良いことを教えてあげただけです。私と彼女はなんと言っ
ても協力者、情報の出し惜しみはしない――信頼の置ける相手であればなおさ
らです」
「ああ、よいこと……かぁ」

 志貴は顎をなでながら答えた。酔っていても秋葉の言動にはいつもの余裕が
あるが、それに引き替えてあの逃げるようなシオンの仕草にはどうにも気に掛
かる。
 志貴の眉根に晴れない疑惑が広がっているのを見て取ると秋葉はグラスを掲
げる。

「……教えて欲しいですか?兄さん」
「うん……まぁ、気になるから」
「でしたらこちらにいらして晩酌してくださいな。兄妹水入らずでじっくり教
えて差し上げますわ」

 秋葉の手が、傍らの空いたソファーを撫でて示した。ここが志貴の席だ、と。
 その言葉を聞いて志貴は内心冷や汗を掻くのを禁じ得なかった。秋葉の酒席
は底が知れない、そんなものにつき合わされたら飲み殺されてしまう――過去
の体験から志貴は唸るような宿酔の悪夢を思い出す。

 とろけるような笑みを浮かべる秋葉の姿に志貴は――咲き誇る極彩色の食虫
植物の花を彷彿とさせた。そして自分はミツバチだと。
 志貴は慌てて手を振り、その誘いを断ろうと――

「いや、その、秋葉、まだ俺たちは未成年だから」
「……何を飲んでもないのに寝ぼけたことを言ってるんですか?兄さんは私の
お酒が飲めないというんですか?」
「ま、まさかお前シオンに酒を無理強いしたんじゃないんだろうな」

 シオンが飲めるかどうかは知らないが、どうにもアルコールを口にするタイ
プだとは思えない志貴。もしかして秋葉はそのつもりでなくてもシオンを怒ら
せたのかもしれないと。
 秋葉はそんな身に降りかかる疑念を感じ、むっとしたように口を尖らせる。

「そんなことは致しません。私がお酒を迫るのは兄さんだけです」
「うわ、なにげに今ヒドイ事言ってるぞ秋葉。とにかくだな、明日まだ学校あ
るんだし」
「あら?体調が優れなければ琥珀に言って欠席を届けさせますわよ」

 酔客独特のねちっこい絡みを無意識下で繰り広げる秋葉に、志貴は手を焼い
ていた。
 それも酔客の方が弁も立ち、金も権力もあるだけ手に負えない。これって逆
セクハラだ、と泣きたくなる志貴であったが……

「う……」

 救いの手を求める志貴に、駆けつけた騎兵隊があった。
 志貴の背中のドアがコンコンとノックされ、やってきたのは――

「志貴さま、こちらでしたか」
「あ、翡翠、ごめん……」
「いえ、お食事の用意が出来ましたので、食堂の方へ」

 まさにジャストタイミングで翡翠が現れ、ごく業務的に救いを投げかけたの
だった。
 秋葉は低く舌打ちをし、志貴は見るからに安堵の表情を浮かべる。
 もちろんそれが志貴を救ったということを、翡翠本人は気が付いてない訳で
あるが。

「じゃぁ、俺は晩飯があるからこれで」
「……秋葉さま、なにか私に不都合がございましたでしょうか?」

 ひょこひょこと戯けるように出て行く志貴を恨めしそうな瞳で眺める秋葉に、
翡翠が丁重に尋ねる。だが秋葉はふんと鼻を鳴らすと、そっぽを向いて

「別に。そうそう、翡翠」
「なんでしょうか、秋葉さま」
「琥珀に伝えなさい。まだ私は飲み足りないのでお酒を持ってくるように」
「……かしこまりました。ですが私が申すまでもなく、お体に触りますので深
酒の方は慎まれますよう……」

 翡翠が深くお辞儀をしながらも、ほとんど慇懃無礼の領域に達して放たれる
諫言に秋葉は取り合わないように流してしたが、やがてその苛立ちを紛らわせ
るように酒杯を呷る。
 背後でやり取りされる翡翠と秋葉のやり取りを聞き流しながら、志貴は胸を
なで下ろして食堂に向かった。うわばみの秋葉に巻き取られなかった……そう
思うと命を助かったようで。

 ――ああ、でも聞き損なったな

 秋葉がシオンにつたえた「よいこと」。それが多分、冷静沈着なシオンを変
えてしまった原因であり、いったい何を告げたのだが。
 志貴はそれを考えようとしたが……思いつくものではなかった。それ以上に
秋葉は酔っぱらっていて、志貴に言ったのもなにかの戯れかもしれない。
 
 ――ま、いいか。明日本人に聞こう

 志貴はそう思いやって頭を振ると、琥珀と暖かい夕食のある食堂に向かった。
 それで、あたかも秋葉とシオンのことをわすれたかのように。

                   

                                      《つづく》