シロウの唇が、私の唇を塞いできた。
 屈み込んでいた私の唇に、シロウの唇が触れる。眠っていたはずなのに顔を
上げ、私に接吻を――その瞬間に思ったのは、これは私の狂う心が見せた幻覚
ではないのかと言うことだった。

「…………」

 だけど、唇に触れるのはシロウの唇だった。間違いない、私は目を閉じたま
まで、その唇の感触を確かめる。かさりとしていて決してみずみずしく潤って
はいないが、それでもその中に温もりも感じる唇。それは私の唇を、下から塞
いでくる。
 何秒の時間が経ったのか、その唇が離れた。信じられない時間が、私を包ん
で動き始める。心の中に刺さった針も、胸の中で痛い鼓動も、そんな苦しむ心
と体があったことが忘れてしまうような、私とシロウとの時間。

 私は少し顔を起こして瞼を開けた。シロウはもう一度膝枕の上に頭を委ねる
と、目を開いたようだった。私はシロウの視線に射られた。彼は何もかも分か
っているような、そんな――底の深い色の瞳をしていた。

 ――眠っていたのに、どうしてこんな静かな瞳で私を見るのだろうか?

「…………シロウ……」
「セイバー――泣いてるな、似合わないぞ」

 シロウがそんなことを言うと、手を伸ばしてくる。私の頬にシロウの指が触
れると、知らず流していた涙を拭う。そうだ、私は泣いていたのだった――こ
の身と、シロウや凛に不条理な苦しみを課してしまう事に、そしてそれを止め
ることの出来ない、この感情に。
 でも、シロウは本当に柔らかく微笑んで涙を拭ってくれた。拭われるとそう
されることが堪らないように、また涙が滲んでくる。

 私が泣くのは似合わない――シロウはそう言ってくれる。
 涙は流したことは、記憶にもない。そう、泣くというのも初めての……

「シロウ。私の言葉を……聞いていたのですか?」

 涙を止めることもせず、私はそう喉の奥を絞るようにして尋ねていた。
 シロウはぽたぽたと流れ落ちる涙を、そっと触れる。そして、頷くでも首を
振るでもない曖昧な仕草をした。それは聞いたとも聞かないともどちらとも取
れるような……だが、シロウはああと低く答えた。

「……聞いてた。セイバーが泣いてるのが分かったから」
「……………………」

 そう、諭すように穏やかに言うシロウ。
 本当に、彼は私が泣くことを分かっているのだろうか?これは全くの私の心
の問題で、シロウにははた迷惑な話の筈だった。シロウには結ばれるべき相手
である凛が居て、そしてそれは私のマスターでもある。それなのに私はシロウ
に横恋慕している。これは不貞不義の裏切りであり、シロウはそんな汚らわし
い思いに身を焦がしている私を殴ったとして、私は項垂れ打たれるままで我が
身の浅ましさを呪うしかない。

「……シロウ。本当に……」
「あの言葉が聞こえたから。あんな事を切々と言われて、許さないって言える
奴は居ないじゃないか、セイバー」
「嘘だ!あなたは分かっていない!」

 シロウはさも当然のようにそんなことを言う。
 私はその言葉にそう言い返さずに居られなかった。いや、彼の差し伸べてく
れる手に縋り付きたかった。だけど縋り付けば彼の高潔な魂を汚す事になる。
憐れみと傷の舐め合いを私は望んでいるのではない、それでは私だけではなく、
シロウまで惨めな思いをさせてしまう。

 だから、そんなシロウに叩きつける。厳しく、呪うような言葉であっても―


「嘘です、シロウ、これはシロウの未来に関わるのです。いいえ、シロウだけ
ではない、シロウは凛と幸せに結ばれ暮らしているべきで、私はそれに仕えそ
の行く先を見守るのが正しいあり方です。それなのに私はシロウに邪な思いを
抱いてしまっている。シロウ、なぜあなたは私を誹らないのですか!」
「……………」
「シロウ、お願いです、一時の憐憫にあなたとあなたの大事な人の未来を誤ら
ないで欲しい。いや、あなたと凛の幸福を、私の愚かさと迷いで汚すことは許
されないのです。だから、だからこんな私に優しい言葉を口にしないでくださ
い――」

 シロウがぺたり、と私の頬に触れた。
 ああ――途端に私は言葉を口にする力を失う。シロウは私の頬を叩いたのか
とおもった。こんな妄想と妄語を口にする私は頬が鳴るほどに打たれてしかる
べきだったのに。
 シロウはそっと、唇を動かして……

「セイバー、君は俺の大事な人だよ」

 シロウは優しく私の頬を撫でる。彼がゆっくりと身体を起こす間に、私は身
体の力が萎えていくように――駄目だ、こんな風になぜ優しく私をシロウは振
れるのだろう。
 頬に触る手は、ごつごつとしているが、温かい。その暖かな手に、私は涙を
止めることなく濡らし続けてしまう。どうして、どうしてシロウは私がこんな
に止めろと言っているのに――

 シロウの両手に、私の頬が包まれる。

 どんな顔をして私はシロウと向かい合えばいいのか分からない。こんなに小
さく、迷い、愚かな姿をシロウに見られたくはなかった。目は泣きはらし、み
っともない顔になっているに違いない。シロウはそんな私を、まるで――父の
ように、いや、年上の恋人のように見つめている。

 それは包み込まれる掌の暖かさと、シロウの曇りのない心のために――父で
あるウーサーも、師であるマーリンも、同輩たる騎士達もこんな顔で私を見つ
めることはなかった。シロウはほんの少し、悲しそうに笑った。

 笑いが、染みる。心の傷に刷り込まれる塩の様に。

「セイバー、セイバーが俺を好きなのは、邪なのか?」
「……邪恋です、横恋慕です、人として許されない感情です」
「いや、誰かがセイバーの事をそう言うのなんか知らない。俺が聞きたいのは、
セイバーが……セイバーは俺のことが好きなのか。好きであることを偽ってい
ないのか」

 ――――息が止まる。

 それは誤りではない。あの戦いの中でぼろぼろになった背中を見つめていた
時から目覚めた感情。そしてギルガメッシュとの戦いで振り返ったとき、私の
その感情は確信した。だからこの時代に留まることを選んだ。

 そう、私はシロウが好きだ。
 彼が、彼のその輝かしい存在が、私は欲しい。
 だが、それが過ちでなくてなんだというのか――

「シロウ……シロウ……」
「本当に、心の底からセイバーが俺のことが好きならば――そんな言葉で自ら
を貶めちゃ駄目だ。過ちだの、罪だの、愚かさだの――セイバー、キミの口か
ら聞きたくない」

 シロウがその言葉を口にすると、舌に苦い塩を乗せられた様に響く。彼の口
から聞かされるのはひどく辛い。でも、シロウは頭を振り、そして私にほほえ
んで見せる。
 痛々しい、無理をした微笑みではない。シロウがしたいからしている、自然
な表情。

「……セイバーがこんなに綺麗だから、そんな辛い顔をしないで……笑って、
セイバー、……」

 シロウがそう、優しく語りかけてくる。私はシロウに頬を包み込まれ、ぐし
ゃぐしゃに泣き崩れて――笑うというのは、どういう風にすればいいのか分か
らなくなる。心の中に、そんな笑うという回路の余裕がないのに――私は――

「泣きながら言う自傷の言葉を俺は聞きたくない、セイバーが微笑みながら、
心の中の本当のことを口にして欲しい。もし、セイバーが言えないのなら、俺
が言う」

 シロウは私の顔をゆっくり近づける。シロウに顔を寄せ、その手に導かれる
まま……ああ、シロウ。あなたがそれを口にしてはいけない。もしあなたがそ
の言葉を言ってしまえば、私はこの迷いの道行をどこまでも彷徨うことになり、
シロウも彼の行く先の道標を失うのに。

 なのにシロウ、あなたは――

「セイバー。君のことが、好きだ」

 ――――シロウの唇が、再び私の唇に触れた。

 好きだ。その言葉を口移して流し込まれては……私の中はシロウの色で染ま
っていく。彼の言葉はその場限りの詐術ではなく、疵無き金の如き誠の言葉。
それを私は身体で聞いてしまえば、もう……帰れない。

「セイバーの罪でも、過ちでも、愚かさでもない。俺はそう思っている。もし
誰かがそれを罪であり、過ちであり、愚かさであるというのならセイバーでは
なく俺はそれを甘受する。それを受けたとしても、恐れはしない――セイバー、
君が好きなことを」

 ――なぜ、あなたは。

 なぜ、あなたはそこまで自らを守らず、自らを傷つけることを拒まず、なぜ
私にそんなことを聞かせてくれるのか――だけど、そんな彼に、そんなシロウ
だからこそ私は全てを委ねたかった。
 悩みに疲れ、まだ見ぬ未来に怯えたのではない。
 彼の腕に全てを委ねなければ、この迷いの夜は決して明けることはない。

 彼の中に東の空を紫に染める、遠い曙光を仰ぎ見るような。

 私はシロウの身体に抱きついた。そうだ、この腕の中で明日を見よう、それ
は夢か現かは定かではないが――懊悩の深い夜よりは、曙光の光の中は全ては
良き方に流れゆくだろう。 
 シロウに抱き、抱かれ、私はその言葉を口にした。

「シロウ――好きです。それは我が名と剣、我が名誉に掛けて誓う――」
「セイバー……セイバーの事が、俺も欲しい。抱きたい、いいのか」

 喉はもう言葉を紡ぐために動かない。
 私はシロウの身体に縋り付き、頷いた。頷くのが何を意味するのかを知って
いた。でも、腕越しに少し彼の勇気が私にも伝わってくる。

 それは
 恐れない。弱さで無闇に己を傷つけない為に――


(To Be Continued....)