「……はぁ」

 どれくらいこうしていることだろうか?一刻は経ったことは間違いない。今
見上げる中天の月は天の二十四分の一の航路を飛んでいた。
 縁側に腰掛け、上弦の月を見る。これはこれで悪くはない。ただ、今はいつ
もと同じように夜に一人で佇み星と月を眺めるのとは、違う。

 それは、私の膝の上に頭を横たえるシロウであった。
 ……そもそも酒に酔った人間の強情という物は、病の人間の強情ほどに厄介
で、なおかつそれを聞くことは彼のためにならない愚かしい抵抗であった。私
が王であった時代には、さらにそれに魔術や妖に呪われた人間の強情も含まれ
ていたが、この時代にはあまり存在はしないらしい。

 本来であれば、シロウを引きずってでも寝室に運ぶべきであった。
 しかし、不甲斐なくしゃがみ込み、そのまま寝転がるシロウを目の当たりに
しても不思議と怒りは湧かなかった。ただ私にあったのは、そんないつも見せ
ない弱い姿を見せるシロウに対して、面倒を見なければいけない――という思
いであったのか。

 もしかするとまだ私にも、育つ前に心が固まってしまったと思っていたが…
…母性本能とでも言うべき感情を抱えているのかも知れない。それは誰にもあ
るし、私がシロウをどこか放っておけないのはそこかもね、と凛が言っていた
のを聞いたことがある。

 私はシロウをその場に寝かせ、膝枕をさせた。
 ……私の人としての記憶では、このような姫君が眠れる騎士に寄り添うよう
な行いをすることは無かった。そも王が愛妾寵姫にされることがあっても、す
ることはない。これは万古不易の則というものだろう。また、私がそうしたこ
ともされたことない。かの妃と共にいるのは常に心が安まらない時間であった
のだから。
 そして英霊となってからは尚更だった。英霊を呼び出し、膝枕をさせる使役
者はあり得ない。

 そういう事なので、こうやってシロウの頭を膝上に横たえてみると――なに
かおかしな感慨に襲われていた。目をつぶり、時々うんうんと唸りながら眠る
シロウを見つめる。身体が冷えないかが心配だが、少しの間はこうしていても
毒にはならないだろう。
 こうしてシロウを休ませていると、ひどく――安らぐ。夜の縁側、月明かり
に照らされたこの町は静寂の中に包まれている。風が時々草木を揺らし、夜鳴
きの鳥の音がかすかに聞こえるこの空間は、あり得ぬほどに穏やかで……

 初めてシロウの頭を横たえた後に、私はこれからどうしたものかと困惑した。
このようなところで休憩しても何にもならないと――だが、今はどうやってこ
の状態を保とうかを腐心し始めている。

「……シロウ?」

 ころり、と寝返りを打とうとしたシロウに小さく呼びかける。だが、起きて
聞いては居ないようだった。膝の上で頭を動かされると、身体がむずむずする
のを感じる――あまり太股の上をを触られることもなかったのだから。
 ……いや、あのメディアの魔女には……そのことは思い出すまい。

 私は軽く頭を振ると、手をそっとシロウの髪に伸ばす。短く刈り込まれたシ
ロウの髪は僅かに汗ばんでいる。酒精が身体を暖め汗を掻かせているのか――
手に短さ故に硬い髪が触れる。何とはなしに、人の髪を撫でているよりも獣の
毛並みを撫でているような気分になる。
 シロウの頭を撫で、その顔を覗き込む、童顔だが、眉の線がしっかりとして
いて内に秘めた強さを感じる相。いや、それは感じるだけではない。

 その強さを、私は知っている。

「――――――――――」

 記憶の中を反芻する、あのアインツベルン城の大広間の戦い。
 あの場を私はつぶさに見守っていた。あの戦いは、誰かがそれを見聞し、そ
れを記憶し伝えなければいけない戦いであった。往古より未来永劫に語り継が
れる英雄達の死闘の一ページを飾るに相応しくも、その実は異端を極めていた。

 衛宮士郎と、英霊エミヤの死闘。

「…………………………」

 もし、私が。

 もし私が赤竜の旗印の下に軍を率い、戦場に赴いたとする。だが仰ぎ見る丘
の上に陣を構える戦いの相手が、私が夢見て私がならんとした理想の王相の覇
者による軍勢であれば、私はどうすれば良いのだろう?彼は私の理想の王であ
り、私が王を為すよりも彼が玉座に上がることが万民万物の栄えであれば、私
は彼の足下に屈し、剣を捧げるべきなのであろう。
 ――あの半神ギルガメッシュなどではない、理想の王者。敢えて言えば賢人
王ソロモンなどか――いや、真のブリトンの王、物語られる我ならぬ、いずれ
甦るべき偉大なる王の到来か。

 だがその王が剣と盾と槍の林より出来て、大音声でこう呼ばわる。アルトリ
ア、お前は王者の理想を抱きながらその真の意味を悟らなかった。お前は王の、
覇者の真の責務と真の孤独を理解はしなかった。故にお前は王の道を見失い、
王座に座り王権を握ったが王になることは果たせない。故にお前は王としては
失格であり、真の王である私が貴様を否定する――

 ……そんな、絶望的な局面。私は進むことも退く事もならぬ、理想に理想を、
人生に人生を否定される、心が狂い、曲がり、折れそうになる宣告。それが見
知らぬ無責任な他人の声ではなく、間違いのない自らの理想であり究極である
存在に告げられる。
 その言葉を私は打たれるように聞き、私の回りの騎士達から疑念の瞳を向け
られる。そうなれば私はどうしたのだろうか?愛剣を翳し、敵わぬ彼に挑むの
か。あるいは我が身をその刃に臥して王たり得ぬ恥辱を恥じて倒れるのか。

 ――シロウが戦ったのは、そんな戦いであった。

 だが、彼は折れなかった。彼は曲がることはなかった。ただあのエミヤに打
たれるままになっても、彼の心は最後まで断ち切られることはなかった。彼は
剣を握っているのが不思議なほどの傷を負いながらも、次々に剣を取って立ち
上がった。
 そして――彼は、彼自身を打ち勝った。いや、彼が彼自身の原点を再び目の
当たりにし、その純粋さを認めたのか。

 私は息をするのも忘れてその戦いを見守っていた。そして彼の戦いを我が身
に重ね、私が同じ戦いで剣を振るい続けるのかどうか――

「………」

 シロウを撫でながら、私は頭を振った。

 いや、私はシロウほど強くなれなかった。強くなれなかったからこそ末期に
あり得ぬ救いを希求してしまった。あれは我が身を省みぬ万民に対しての責務
と慈愛だと信じていた、だが――シロウの叫びに私は打たれた。

 それを後悔しない、間違いなんかじゃない――そうだ、私はその時、過ちを
認め後悔してしまった。してしまったからこそ弱みの沼に足を取られた。そし
て全ての望みを叶える聖杯という事象の、その裏にある欲望の醜悪さを見通す
ことなく、それに無条件の救いを求めてしまった。強さが空しさに繋がること
はあっても、弱さが救いを生むことはない。

 あの時から、私はシロウを、凛を共に眺めていこうと決めた。
 そうすれば、私が見失ってしまった何か大事な強いなにかが見つかるのだと
――そして私は今、ここに居る。そしてかつて剣を手に戦場を駆けた私は、ま
るでおとぎ話の姫君の様に勇者に膝枕して憩うている。。

 私は、シロウに――

「………………」

 シロウの顔を、じっと見つめる。
 彼は私に見つめられているのを、まるで気が付いていないかのように安らか
に眠っている。気持ちよさそうな寝顔であった。私はだんだん顔が近づいてく
るのが分かった。
 私はシロウをどう思っているのだろう?シロウは私をサーバントという存在
ではなく、友であり同志、いやそれ以上の家族のように思ってくれているのだ
ろう。友も家族も共に持ち得なかった私だから、そう言うものだ、と思うしか
ない。
 だが、私はシロウを――彼は私を導く師なのだろうか?それとも共に生きる
ことを学び合う仲なのだろうか?落ち着けばその辺りは自然とはっきりすると
思っていたが、この穏やかな日々は却って私を迷わせている。

 ――そう、彼と私が恋人であれば、よかった。

「………………」

 迷妄だ。
 シロウは私が酔っていると言っていたが、強ち誤りではなかろう。こんな事
を考えるほどに私は酒精に狂わされているらしい。

 シロウの想い人であり共に歩むべきは私の主でもある凛だ、それは間違いな
い。そんなシロウに横恋慕するというのはあまりにも愚かしく浅ましい。それ
が賢明ではないことを知って私はその思いを打ち消そうとする、が。

 膝と掌から、シロウの温もりが伝わる。

 そうだ、かつて忠誠に燃えた騎士達もこの感情の中で次々に迷っていった。
彼らは鉄中の錚々であり、雲霞の如き敵を前にしても屈託のない笑いと共に槍
を閃かせ、手綱を打って突撃できる勇者達であった。
 だが、彼らも迷い、愚かさを悔い、この道の中で見失い、己を滅ぼした。
 私は彼らのそんな生き方をただ冷淡な王の瞳で眺めていただけだった。破滅
の小径に去る騎士達の足音は、私の王国の破滅の足音へと繋がっていった。

 去来する古き日々の苦い記憶。

「シロウ?教えて欲しい。間違えていたのは私なのですか?」

 そんな弱い、誰にも聞かれていないと思ったからこその言葉――が唇から漏
れる。
 私は正しくあろうとした。王たるために王たらんとした、その為にこの身で
ありながら妃を娶り、騎士を招聘し、忠誠には報い、反逆を罰した。そこには
一片の私心も持ち得なかった。
 そう、そこに心を持ち得なかったのが私の間違いだったのか――

「……こんなことをシロウに聞くべきではないのでしょう。凛も応えられるか
どうか分かりません。だが、シロウ、あなただから私は尋ねたいのです――」

 酔って寝ているシロウが答えるはずもない。答えないからこそ、私は尋ねて
いた。
 そう、シロウは答えを与える事はない。だからこそその静寂の中で、私は私
の道と答えを見いだすことが出来るのではないのか。私は膝の上のシロウに、
顔が近づけていく。
 この夜の闇のように、私の思いの途は暗く、光はない。手探りで進むばかり。

 私の中に凝り固まる感情を、少しづつ言葉に変えていく。そうしないとその
間に私の理性がその感情に負けてしまいそうな――

「……私は、私はシロウ、あなたを――こう想ってしまうことは間違いなので
すか?もしあなたが間違えていると言うのであれば、私はあるべき正しき道を
探しましょう。ですが、もし間違っていなければ――シロウも私も、傷を負わ
ずにはいられない。あの騎士達のように全てを失うほどの。でもシロウ――」

 シロウ、あなたは私を受け入れてくれるのか?
 凛を抱いたその腕で、私を抱きしめてくれるのか――

「シロウ、あなたは私の――――――――――」

 胸の中に溢れる思いは唇から空気に触れると、途端に陳腐なものと成りはて
てしまうことを恐れていた。言葉に不朽の力を宿らせるのは吟遊詩人だけで私
にそんな力はない。無いから、この思いを汚されたくなかった。
 でも、吐き出さずには居られない。欲望と希求の矛盾。

 胸が高鳴る。鼓動の中に心が震える。

 胸の中の心臓に、長い針が刺さっていた。だが、その針に貫かれる痛さより
も、この鼓動を胸の中に仕舞い込んでおくのが辛かった。高鳴るのはシロウへ
の想い、そして長い針はそれが凛への裏切りとなること……

 ――それは許されることのない、罪の痛み
 だが、その痛みが私を急き立てて止まない。このまま思い悩む事は、私の心
を破りかねない。賢明にあるのであれば、私はこの思いを禁じるしかない。そ
してシロウを私のあり方の水先案内人としてだけ頼るべきであった、が。
 私の中にある酒精のせいか、それとも私の血の中に融けた雌の本能か。

 私は、シロウを求めずにはいられない。
 初めて、道を外れ破滅に向かったあの騎士達を私は理解出来る――

「ぁあ……」

 私が囁くのは、愛の言葉ではない。
 罪人の血に滴る謝罪の言葉。私は瞼を閉じる。こんな言葉を、シロウの顔を
見ながら口にすることは出来ない。知れず一筋の涙が流れる。ただ、言葉に私
の思いが染みずにはいられない。

「シロウ――許して欲しい、私の行いはシロウに同じ罪の烙印を押してしまう。
しかし、私は不貞と不義の咎を背負ってでも、あなたが――欲しい」

 シロウ
 唇
 私
 唇
 塞いで――


(To Be Continued....)