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2.

やわらかな日差しと、撫でるような風に包まれた日曜の朝。
その穏やかな空気を打ち壊すかのように、けたたましく、黒ダイヤルの電話が鳴り響く。

ぱたぱたとスリッパの音を立てながら、私が電話をとりに向かうと
丁度、二階から降りてきたばかりの志貴さんが、電話を取ろうとしていたところだった。

「あ、志貴さん。電話なら、私が―――」
「いいよ、琥珀さん。たまには俺が出るから」
慌てて駆け寄る私を笑顔で制すと、彼は受話器を取り上げる。

「はい、遠野です―――うわ」
よほど、大きな声が聞こえたのか、志貴さんは、慌てて受話器を耳から離した。
が、それは一瞬のことで、眉間に皺をよせながらも直ぐに再び受話器を耳にあてがう。

「―――秋葉か? お前、いきなり大声を―――え、琥珀さんか?」
私?

小首をかしげて、私が自分を指差すと、志貴さんはこくこくと首を縦にふった。

「ああ、うん。ちょうど、そばにいるけど。一体何を興奮してるんだ、お前」
志貴さんは直ぐに電話を私に代わろうとせずに、秋葉様を諌めはじめた。

...そんなことしたら、逆効果ですよ? 志貴さん。

内心の私の言葉に違わず、電話の向こうの秋葉様はますます口調を荒げているようだった。
内容までは聞き取れないが、離れている私にさえ微かに秋葉様の声が聞こえるくらいだ。

「あのな、とりあえず、落ち着いて―――、ああ、わかったから。
 わかったから、大声出すんじゃない」
勝負有り、か。まったく、いつまでたっても秋葉さまには勝てないんだから。

忽ちの内に、秋葉さまをなだめることに失敗した志貴さんは、申し訳なさそうに
私に受話器を差し出した。
 
「秋葉から。何か妙に興奮してるみたいだから、気をつけて」
面目なさと、心配が入り混じった表情を浮かべる志貴さん。
その表情に、思わず笑みがぼれた。

「ご心配なく。秋葉様の扱いは、志貴さんより慣れてますから」
「面目ない」

くすり。
もう一度、小さく笑って、私は受話器を耳にあてた。
「はい、お電話変わりました」
「―――琥珀?! 琥珀ね?!」

「はい。おはようございます、秋葉さま」
「おはよう―――って、挨拶してる場合じゃないのよ!」
電話の向こうの秋葉様はあきらかに、興奮していた。
でも、これは、動揺とか混乱している時の秋葉さまの声に近い。

「秋葉様? どうなされました?」
「どうしたも、なにも――――」
努めて平静を保った私の声に、秋葉様の上ずった声が途中で途切れ―――。
1拍の間をおいて、再び聞こえてきた声は少しだけ平静を取り戻していた。

「琥珀。この間、私が家に連れて行った二人のこと、覚えてる?」
「はい。月姫さまと、三澤さまですね」
「その時にね、一人が、庭に干してあった―――その、茸を持って帰って来たらしいの」
「干してあった茸?」
「うん、そう。琥珀の花壇の近くの日陰に捨ててあったって言ってるけど」
「―――あ、陰干ししてあった漢方薬のことですね」

そういえば、先週、秋葉さまがご友人とお帰りになった後、
陰干ししておいた2,3の漢方薬が消えていたことを思い出した。

てっきり、野良猫かカラスあたりが持ち去ってしまったか、と思っていたのだけど。

...それにしても、随分と酔狂なものを持って帰る人もいるものだ。
どうせなら朝鮮朝顔とかの方がお勧めなのに。

「アレって、漢方薬なの?」
「ええ、ちょっと珍しいお薬です。わざわざ大陸産のを仕入れたんですよ」
まあ、漢方薬というより、強壮剤とか、媚薬の原料とかいった方が近いのだけれど。
ここで、それを言うとまた秋葉さまが逆上するので、そこは伏せておく。

「漢方薬...」

電話越しに、秋葉様がその言葉を反芻する声が聞こえる。

「秋葉さま? ひょっとして、誤って服用されてしまいましたか?」
「...琥珀。アレは、一体、何」
私の問いには答えずに、別の問いを返してきた秋葉様のその声色は、
凍てつくほどの真摯さで織り上げられていた。

その真摯さをからかう気にはなれず、一呼吸おいてから私は簡潔に答える。

「――キノコです」
「そんなのは見ればわかるわよ!」
大真面目な私の答えに、何故か声を荒げる秋葉様。

...はて、何かまずかっただろうか。

とりあえず、秋葉様を安心させよう。そう思って言葉を重ねた。

「見れば、ということはまだお食べになっていないんですね。安心しました」
「あ、あんなの食べるわけないでしょう!」

...あんなの?

「あんなの、と申されましても見た目は茸ですから。
 人によってはマツタケと思って食べる方も―――」
「ま、マツタケって、あなたね!」
叫ぶように言ってから、秋葉さまが絶句した。

...はてはて。

なにか、妙に会話がかみ合っていないような気がする。

「秋葉さま? 三澤さまが、あの茸の所為で、発疹が出来た、ということではないのですよね?」
「ほ、発疹―――? あれが、発疹だっていうの?」
「発疹といいますか。出来物といいますか」
「で、出来物といえば、出来物なんだろうけど――――」
そこで電話越しの秋葉さまの気配が一瞬、薄くなる。
ひょっとしたら、電話の傍に三澤さんがいるのかも知れない。

確かめてみようと、神経を耳に集中させると、突如。
「...って、ぜ、全身に生えるの、これ――――?!!」
という、秋葉様の絶叫に近い声と。

『全身――――?!』
『全身は嫌ー』
どうやら、やはり傍に居たらしいご友人たちの叫びが私の鼓膜を叩いた。

...なにか、大変な騒ぎになろうとしているらしい。あるいはなっているのか。
鼓膜の悲鳴が収まるのを待ちながら私は思考を巡らせた。

どうやら、私が思っている症状ではないみたい。

あの茸、そのまま服用すると体質によってはひどく全身に発疹ができることがあるのだが、
発疹をさして「生える」とは妙な表現だ。

あとは、やはり体質によるのだが、匂いを嗅ぐだけで、本来の効果―――つまりは媚薬だが―――
を受けてしまう人もいるのだが...いくらなんでも、ご友人が少しえっちになったくらいで、
秋葉さまがここまで、取り乱すのは考え難い。

一体、何が?

「秋葉さま。申し訳ありませんが、状況を詳しく仰ってもらえませんか?
 腫れが酷いようでしたら、直ぐに病院へ行かれた方がよろしいかもしれませんので」
「は、腫れ? ...そうね、腫れてるといえば、これ以上ないくらいに腫れてはいるけど」
またよく分からないことを言ってから、秋葉様は言葉を切った。

今度は、傍の人と話している気配は無い。

多分、言うべき言葉を選んでいたのだろう。
数拍の間を置いて、秋葉様は、短くはっきりとこう仰った。

「茸が生えたの」

.........何?

「秋葉様?」
「だから! 茸が生えたのよ! 生えてるのよ!
 茸が、羽居の...あそこから!!」
尋常でない語気で、冗談のような台詞を叫ぶ秋葉様。

・・・きのこが、生えた・・・あそこ、から・・・?

傍らの志貴さんにも、秋葉様が叫んでいることは聞こえているのだろう、
心配そうに私の顔を覗き込んでくれた。

その彼に、小さく頷きを返す私の脳裏に、あの茸の由来が、鮮明に蘇る。

それは、品の無い笑い話。
酒の席で、笑い飛ばす類のものだ。

しかし、まさか。

「琥珀? 聞こえてるの? 琥珀―――?」
電話の向こうで、秋葉様が呼ぶ自分の名前を聞きながら、
さて、なんと説明したものか、と私は混乱する頭で、言葉を探し始めていた。


                                      《つづく》