風になりたい
阿羅本 景
「志貴さん?」
雨戸の外に鳴る風の音に混じって、琥珀さんの声が聞こえる。
真夜中の風は秋の嵐を呼び寄せる前触れなのか、重く低く大地の上を駆け抜
けているようだった。それは木立を揺らすがさがさざわざわという音と、雨戸
を小刻みに揺すっている。
この畳敷きの寝室の中に、照らす明かりはない。辛うじて廊下の方から僅か
に光が漏れ混んでくるが、それは指一本ほどの細い隙間であった。
そんな闇の中でも、俺の目は慣れてきていた。手を伸ばして枕元の眼鏡を着
けようと。こんな闇の中であればあの死の線を見る深いと苦痛を味合わずに済
みそうなものなのだが、彼女の肌に走るそれを見たくはないから。
「ん……」
手を伸ばしても、そこに眼鏡のフレームが触れなかった。そのまま畳の上を
左右のぽんぽんと探る。もしかしてどこかに飛ばしてしまったかも……と怪訝
に思っていると、俺の手がそっと柔らかな手に握られる。
「はい、お眼鏡です」
「ああ……ありがとう」
琥珀さんが俺の手を取り、そっと眼鏡を渡してくれる。どうも俺がどこかに
やってしまったわけではない様だった。それをゆっくりと鼻がしらと耳の上に
のせると、俺は傍らの琥珀さんに振り向く。
琥珀さんは、枕を抱くようにして俯せの格好で身を起こしていた。この薄暗
闇の中でも彼女の肩と首筋、そして白いリボンがふわりと青白く燐光を発して
いるように、見える。琥珀さんの眼差しが俺の方を見つめている様だった。
琥珀さんを俺は見つめ合う。琥珀さんがこの布団の中で裸であるが、俺も同
じように一糸まとわぬ姿であった。同じ布団を温めあっていて、それを布地で
遮ることは無粋な気がしていた――それに、すでに一度俺は琥珀さんの中で果
てていた。
情事の後の気怠い疲労の中で、俺は夜風が強く吹き始めていることを感じて
いた。ああ、そうだ、傘を持ってくるのを忘れたな――行きの電車の中で台風
上陸とかそういう記事を見たような気がしたけども、気が逸っていたみたいに。
そんな感じになんとなく思考にまとまりが付かない中を、琥珀さんに名前を
呼ばれた。
言葉が無くなると、ヒュゥォーと低く吠える様な風音が耳を打つ。木の枝を
しならせ、葉々を擦り合わせる、騒々しいと言うよりも人を不安にさせる音。
傍らの琥珀さんは、俺と同じようにこの嵐の前触れに本能的な不安を覚えて
いるんだろうか?
「風……強くなってますね」
「うん……まずいな、帰れるかな……」
秋の連休を利用してこの琥珀さんの居る信州の農村まで、小旅行を決めてい
た。俺が発つときには翡翠はほのかに安堵を漂わせて俺を送っていたが、それ
は姉である琥珀さんのことを俺経由に尋ねたく思っていたかもしれない。翡翠
が琥珀さんに直に尋ねれば、琥珀さんは無理をしてでも平気だと答えるに違い
ないから――そう、昔のように。
遠野家の主であり、俺の計画を知って片眉を動かした秋葉であったが、別段
とどめはしなかった。ただいつもの毅然とした様子で旅費の精算などに関して
俺に指示を出していて、最後に「いい加減琥珀の料理が懐かしくなってくるわ」
と付け加えていたが……これが秋葉なりの和解の表現なのだろうか?
分からない。
でも、その時には帰りに台風がくるだなんて……天気予報をチェックするの
は忘れていた。
「あらー?いいですよ、もし一日二日こちらに志貴さんがお泊まりになられて
も十分におもてなしを出来ますから。いっそこっちに志貴さんが定住してもO
Kですよー」
俺の不安を宿の不安だと解釈したのか、琥珀さんが魅惑的な提案をしてくる。
その提案に俺は一も二もなく飛びつきたかった。この愛する琥珀さんと一緒
にこの地に住めるのであればそれはなんと幸福なことなのか……だが、その無
条件な幸福に至るまでの道は楽ではない。
琥珀さんに俺は苦笑を返す。そうはしたいのは山々なのだけど。
「明日からでもこっちに住み着きたいけど、なかなかそれが難しいから。」
「そうですよねー、学校や進学のことも志貴さんにはありますから……」
ふ、と学校という言葉を口にしたときに、薄闇の向こうの琥珀さんが悲しそ
うな顔をした……ような気がした。でも、それをしっかりと目の中に収めるこ
とは出来なかった。
仰向けの俺は手を伸ばすと、琥珀さんの肩に手を伸ばそうとする。指が触れ
るその肌が柔らかく、暖かい。木目の細かな肌がつと指に吸い付くような。
――こんなに美しい肌を持つ愛らしい琥珀さんが、一人でこの遠い地に住ん
でいるだなんて。
そう思うと居ても立っても居られないような、大事な何かが手元にないよう
なそんな喪失感を覚える。琥珀さんはどこかに消えてしまうことはない――あ
の夜のような喉が閉まるような喪失と恐怖はもう起こりえないにしても、その
不安を俺の心から消え去ることはない。
ごうっ!と強い野分が吹き寄せる。
雨戸がばたばたと震え、この木造の農家の梁が撓んで揺れるような音が立つ。
ぎしぎしっ、という耳の奥に染みこむような、人の不安を掻き立てる音。
「志貴さま、風が怖いのですか?」
琥珀さんがそう、尋ねてくる。
知らずに俺は怯えていたのか、琥珀さんの肩を強く握ってしまっていたらし
い。手の甲に琥珀さんの掌が重なり、怯える俺をあやしてくれるような――そ
んな感じがする。
強風が怖い、のか。いや、それよりも……俺が感じているのは……
「……怖いかも知れない。ずっと昔に、森の中で吹き荒ぶ風が山を揺らして、
俺をどこかに連れ去って……その先には何もなくて、一人で居ることを考える
とどうしようもなく怖くなる」
俺の中にこびり付いた記憶の欠片を言葉に起こすとそんな台詞になる。
俺のあやふやな過去の記憶の、遠野の家に居る前、あの月と朱の夜の前にも
微かな記憶がある。それは深い森に結びつけられた、俺の本能と言っていい領
域。もう一人の俺が潜んでいる深く暗い森の中。
琥珀さんが重ねた手が、暖かい。じわりと肌越しにその温度が伝わってくる。
俺は自分の言葉を気恥ずかしく感じて、話を変えようとする
「……変なことを言ったね、琥珀さん。その……琥珀さんは嵐は怖い?」
「嵐は怖くありません。東から吹く風がどんな嵐でも吹き流してくれますから
……空を駆ける風が変えてくれない、大地の上で私に覆い被さるあれにに比べ
れば」
……琥珀さんの言葉が、すっと冷たくなったような気がした。
俺が触れる琥珀さんの肌が、とたんに磁器に触れたような滑らかではあるけ
ども冷たいような気がする――こんな言葉を琥珀さんの口から聞くと、俺まで
が骨まで凍えて血の温もりを失ってしまうように。
「………………」
俺は体を起こし、琥珀さんのその体を抱き寄せる。
腕の動きのままに、琥珀さんは俺にその肌を合わせる。首筋を触れ合わせ、
ぎゅっと抱き寄せて……同じ布団の中の琥珀さんの温もりを逃すまいと。
脇から回した手を、琥珀さんの首筋に伸ばす。肩から伸ばすその肩、その首
は細い。
目頭がじわっと熱くなってきて、喉の奥がえぐついて震えるような……そん
な、堪らない感情の起伏がある。琥珀さんが苛まれた過去のことを、彼女の口
から語らせるだなんて――
「………琥珀さん?俺は……俺は、風になれるのかな?」
少し恥ずかしいけども、そんな喩えを口にした。日の下で面と向かっては言
えない台詞も、こうやって暗い寝室で抱き合って身体を触れ合わせていると、
どんな言葉でも言えるような気がした。
琥珀さんが囁く声は、外の風音に混じって消えてしまいそうなほどだったけ
ど……
「風……に?……」
「そう……琥珀さんを覆ういやなことを吹き飛ばす風になれたかな……」
俺は、琥珀さんの過去ではひどく無力だった。琥珀さんが父の槙久や義兄の
四季によって苦しめられている間にも、俺はそんなことを知らなくて。そして
俺がそれを知ったときにはもう遅くて……俺はこの秋に遅れてやってくる野分
の風のような、騒々しく無力な存在であったのかもしれない。
でも……琥珀さんを救いたいという一念で俺は……
静かに抱きしめられていた琥珀さんがそっと動く。目を凝らして琥珀さんの
顔を見ると、何と答えたら良いのか分からない空虚な表情だったが――ふっと
頬が緩む。
ぽすん、と俺の胸元に琥珀さんの拳が当たると……
「んもー、何恥ずかしいことを言ってるんですか志貴さんー」
「え?え?え?」
ぷははは、と堪らなくなったように笑い出した琥珀さんに俺は慌てる。すご
くシリアスな雰囲気だったのに、ぽすぽすと胸を叩かれると戸惑うものであろ
う、普通は。
琥珀さんは目を細めて笑いながら言う。
「おかしいですよ志貴さん、『俺は風になれたかな』だなんて恥ずかしくても
う、聞いた瞬間に吹き出さない様にするのが精一杯でしたよー」
「うう……だ、だって琥珀さんだって随分とポエティックな表現してたじゃな
いか、だから俺も韻を踏んでみただけだよ」
確かに恥ずかしく痛いところを突かれたので、俺は琥珀さんに言い返す。
くすくすと笑っていた琥珀さんがふっと真面目そうな顔をするが――根っこ
の所はふざけて作っている顔をして、声色を変える。
「『琥珀さんのいやなことを吹き飛ばす風になれたかな』だなんて、一体どう
しちゃったんですか?最近秋葉さまや翡翠ちゃんとの間で『キミの瞳に乾杯』
とかそういう臭い台詞を言い合うのが流行ってるんですか?」
「ぬー……うううう、せ、せっかく恥ずかしい思いを我慢して言ってみたのに」
琥珀さんのおかしがり様に口を尖らせて拗ねてみせる。
一体何がそんなに琥珀さんを面白がらせたのか――よく、わからない。でも
このまま同衾しながらずーっと笑われ続けるのは癪だ、男の沽券に関わる。
琥珀さんの背中に回した手に力を込めると、ぐっと抱き寄せた。
「きゃ!志貴さん?あ……ん……」
笑い声を上げる琥珀さんの唇を、俺の唇で塞ぐ。柔らかく暖かい琥珀さんの
唇。
合わせた唇は一瞬言葉を出そうとしたみたいだったけども、すぐに俺に唇に
触れ合わせる。唇の間に舌を潜り込ませて、琥珀さんの小さく揃った歯並びに
触れる。
琥珀さんの舌も俺を迎えてつん、と先っぽを触れあわせる。こんな唇と舌の
戯れも、ひどく慣れてきていた。何度も舌を繰り合い、唇を離すとつつ……と
唾液が線を引く。
手の甲でそれを琥珀さんは拭い、俺の唇にも指を伸ばしてくる。
「もう、志貴さん?分が悪くなってきたからキスで誤魔化すのは卑怯ですよ?」
「卑怯でもなんでもいいもん。俺が恥ずかしいこと言ったんだから、琥珀さん
の口からも恥ずかしいことを言わせてみせる」
まるで意地を張る子供みたいな言い分だったけども、正直俺の心境を口にす
るとこうだった。すこしお姉さんみたいなところがある琥珀さんにこういう風
にあしらわれると、俺としては精一杯の反撃を試みてみたくなるわけで。
――そこまで夢中にならなければ行けない理由はわからない、でも。
「あ……」
手をずらして、琥珀さんの胸に触れる。ほどよく柔らかく形のいい乳房が掌
に触れ、ふるんと揺れる。指で乳首を摘むように触れると、琥珀さんが小さく
声を上げる。
琥珀さんの頬にキスをしながら、指を動かす。柔らかに丁寧に、もぎたての
果実を触れる様に――掌に感じる琥珀さんの身体は、暖かく心地良い。乳首は
胸の中で凝縮して硬い手応えがあり、それを指にしているとひたすらにいじり
たくなる。
「ん……もう、志貴さんったら……私は……ああんっ」
琥珀さんは優しく責められると弱かった。今、こうして琥珀さんを優しくタ
ッチしていると、その身体から力が抜けて行くのが分かる。
琥珀さんに一方的にテクニックで弄ばれるのもよかったけども、逆に琥珀さ
んを愛撫してその甘美な身悶えを味わうのも良かった。決して乱暴にしてはい
けない。
「琥珀さん……ん……気持ちいい?ここも……ちゅぷ」
「ひゃっ……はぁぁ……んっんっ」
琥珀さんの背筋がふるふるっと震える。
俺は頬から顎、そして唇を上げて琥珀さんの首筋から今度は耳まで舐め上げ
ていた。みみたぶをかじるようにくわえ、その複雑な形の耳に舌を這わせる。
俺が囁く声がきっと大きく聞こえ、外の風音が聞こえなくなるほどに――
「琥珀さんの耳……感じる?」
「や……そ、そこも敏感なんです……ふぅ、ああ……ああん」
胸を弄っていない左手を伸ばして、琥珀さんの背中をなで上げ首筋に触れる。
耳を舐めている琥珀さんの首を据えて、もっと奥まで舐めるように――このま
ま舌を蛇の様に伸ばして、奥の奥まで舐めると琥珀さんがどうなってしまうの
か、そんなことを頭のどこかによぎらせながら。
「し……志貴さん……はぁ……ふぅ、は……ああ……」
琥珀さんが身を捩る様も、なんとも艶めかしい。ぬるりと愛欲の液にぬれて
蠢く生き物を目にしているかのように、この腕の中で動く琥珀さんはなんとも
――エロチックで。
乳首を触れる指に軽く力を入れる。弄っているうちに乳首は勃ってきていて、
きっとすごく感じているのだろう――と思う。実際に
「ひっああ……ん、胸……」
そんな小さく喜悦の声を上げる琥珀さんを感じていれば尚更に。
首に回している左手を離して、布団とすべすべの琥珀さんの背中の間を下げ
ていく。俺の手が目指すのは、琥珀さんのお尻だった。
首を上げ、琥珀さんの顔を見る。その顔はぽーっと何かの酔っているみたい
で……もっと灯りがあれば、琥珀さんの頬が赤くなっているのも見えたかも知
れない。
「お尻……柔らかい……ね。琥珀さん」
「ああんっ……はぁ……そこ……ふあぁ……」
掌が触れているのは、琥珀さんのお尻。二つ並んだ肉の丘の片方に手を当て
る。
指が沈みそうに柔らかく、ボリュームのあるお尻。ただ胸と違うのはその下
の方に筋肉の存在を感じることだった。足を動かす筋肉の上に、お尻がきゅっ
と乗っかっているみたいで……でも、その表面はそんな肉があることが嘘のよ
うに触り心地がいい。
掌だけじゃなくて……いっそ……
「そうだ……ふふふ」
「ど、どうしたんですか?志貴さん」
不意に天啓が訪れ、俺の口に不敵な微笑みが浮かぶ。それを不安に感じたの
か、琥珀さんの頼りなさげな声が掛かってくる。
うん、そうだ。手でそうするのだけじゃなくて、もっと琥珀さんのお尻を…
…
「琥珀さん……ふふふ、こういうことをしたらどうかなー?」
「え?ええ?し、志貴さん?」
《つづく》
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