青空の下を走るというのは、苦しくもあったが、その半面で心地よくもあっ
た。
軽く坂を下ったところで二人は歩を緩め、志貴に誘われるがままに琥珀は彼
の横を並行する。もとより、外出ならば買い物をする度にしているし、息抜き
にゲームを買う事だってあった。だが、琥珀の経験上では“走った”ことは数
えるほどあったかどうか。
多少、ゆったりと歩を進めたところで、また志貴が走り出した。よほど急い
でいるのか、待ち遠しいのか。どちらでもありそうな表情を彼はしている。
「……っはぁ、っはぁ」
気がつけば、走りながら吐息が荒々しく零れていることに気付く。
これほどまでに、荒い息を吐いたのは普通に生活してあっただろうか。考え
ていながらも、その答えがすぐに出ていることを自覚しつつ、琥珀は転ばない
よう注意しながら志貴に合わせた。
意識を足元から少しだけ外してみると、また世界が彩りを変えて流れてゆく。
何度となく通っているはずの道。それなのに、少しスピードを変えただけで
これほどまでに違って見えるものなのだろうか。全てが忙しなく琥珀の横を通
り抜けては、迫ってくる。軽く見上げた先にある、蒼穹の天体だけが固定され
たように存在していた。
何となく、それを見やっていると再び速度が緩む。
そんなことを何回か繰り返していると、琥珀は志貴が向かっている先が何処
なのかを何となく理解し始めた。もっとも、その頃にはすでに目的地は二人の
視界に入っており、理解というよりも確認するようなものであったが。
「ここ、なんだけど」
「志貴さんの学校ですかー」
琥珀があげた声も、また確認のためのもの。志貴もそれが解っているのか、
ただ頷くだけでそれに応じた。
連休ということもあってか、午後になって間もないというのに、志貴の通う
学校には人気というものは感じられず、静かでひんやりとした雰囲気を感じる。
別段、琥珀が志貴の学校に来るのはこれが初めてではなかったが、それでも彼
女は息を呑んだ。
(……ここって……)
思わず、一緒に持ってきていたバッグを胸元に抱き寄せる。先程、志貴から
隠そうとして後ろ手にやっていたものだ。大事そうにそれを抱え、彼女は青空
を仰ぎ見るようにして校舎を見上げる。
少しぼんやりと見つめていると、腕を急に引っ張られた。
言うまでもなく、志貴が琥珀の腕を引っ張ったのだ。彼は、琥珀を連れ添っ
て校舎の扉まで来ると、そのまま持ってきていたナイフで鍵をあっさりと殺し
てしまう。普段の志貴ならば躊躇いそうな行為を、随分と簡単にやってのける
ことに目を丸くしていると、彼は笑いながら言った。
「本当は、入っちゃ駄目なんだけどね……まあ、祝日で誰もいないから入って
も気付かれないよ」
「本末転倒な気がしますけどね………」
普段なら、その言葉は逆の立場で交わされているものだっただろう。だが、
今日に限って言えば、積極的な志貴のペースに呑まれているのか、立場が逆転
してしまっていた。
それを体現するかのように、志貴がふざけた口調で手を広げてみせる。
「ようこそ。我が学校へ」
「志貴さんったら……志貴さんの所有物じゃないでしょう。それにちょっと元
ネタが古いですし」」
「解ってますよ。CMみたく言ってみただけですって」
二人、顔を見合わせて破顔した。テレビを見ているからこそ解る冗談だった
が、遠野の屋敷では理解できる者は志貴と琥珀のみだろう。
そんな軽口を言い合いながら、二人はどこへいくともなしに奥へと進んでい
った。
普段は賑わいで溢れかえっているようなこの学校も、人がいなくなれば無機
物の淡泊さが自己を主張し始める。コンクリートの壁から感じられる微かな冷
気が、周囲の空気までも停滞させてしまったかのよう。
二人の足音が、よく響く。
学校に来て、行く場所といえばそうそう多くは無い。
いくつもあるクラスだが、実際に使うのは自分のクラスと移動教室の際に利
用する場所のみだろう。それが志貴の場合。
これが、琥珀の場合になるとより狭まってくる。
やはりというか、当然というか、志貴の通っている教室に辿りついて、琥珀
が呆けたように辺りを見回す。以前に立ち寄ったのは学園祭の時だったから、
雰囲気も違って見えるのだろう。
彼女は何も語らない。
志貴も何も語らない。
お互いに会話も無く、琥珀は物珍しげに教室の中を散策し、志貴はそんな琥
珀を微笑むように眺めつつ、自らの席へと腰を下ろす。
カーテンは纏められており、刺し込む陽光が教室の床に交錯する十字を描く。
影色の十字は斜めに傾き、教室を射抜くように彩る。休日の教室には、何とも
言えない静寂がそこを支配していた。刺し込む光と、浸透する影。その陰影と
光のコントラストが、妙な感慨めいたものを教室の中に感じさせる。
だが、琥珀はそれを感じるだろうか。
志貴が学校に琥珀を連れてきたのにはちゃんとした理由があった。ちゃんと
したかどうかは、定かではないが少なくとも志貴はそう思っている。
アルバムを見せたときの琥珀の言葉。
琥珀の部屋の白いアルバム。
そして、これは推測だが―――志貴の部屋の誰かがいたような感覚と、琥珀
が隠しているもの。
それを考えると、どうしても彼女をここに連れてきたくなって仕方が無かっ
た。連れてきたからどうだ、というわけでもないが、どうしても連れてこなく
てはいけない。そんな感情が胸の中に去来している。
「―――志貴さん?」
「え? あ、うわっ!」
耳元にかけられた声に意識を戻し、俯き加減だった視線を前に戻すと、そこ
には琥珀の顔が大きく視界を埋め尽くしていた。背を預けていた椅子が倒れそ
うになるのを何とか留めて向き直す。
「は、はい、琥珀さん。どうかしましたか?」
「あのー、五分……いや、10分間だけ……この教室に一人きりにさせていた
だけませんか?」
「はぁ……そのくらい構いませんけど。それが?」
「まあ、その……ナイショです。10分後には解りますし」
少し悪戯っぽく言う琥珀に、毒気を抜かれたような気分になって――無邪気
そうな笑顔だったからだ――反射的に志貴は頷いていた。そのまま、今度は彼
女のペースに乗せられるように、気がつけば教室を出ている。
一体、10分の間で何をするつもりなのだろうか。
皆目見当も付かない。
だが、何はともあれ。
「どうやって、時間を潰すかな………」
短いのか長いのか、いまいち判断しにくい時間の使い方を、志貴はのんびり
と思案し始めた。
思案するだけで終わってしまいそうではあったが。
誰もいなくなった教室。
琥珀は、そこに一人佇みながら志貴の席へとそっと座した。
本来ならば、いるべきはずの人物がこの部屋には誰も存在しない。その代わ
りに、存在するはずもない自分がここに存在している。琥珀はそっと笑みを刻
む。それは学園生活などとは皆無の人生を送ってきた自分への嘲笑か。
それが実際、何の笑みだったのか琥珀自身にも理解できなかったが、何とな
く皮肉めいたものなのだろうと自覚する。
だが、それは止めた。
ゆっくりと頬を撫で、拭うようにして表情を落し、琥珀は改めて教室を一望
する。
整然と並んだ机にはあちこちに傷があり、使い古した感が見て取れた。完全
に埃の取れていない黒板。窓際の席に刺し込む日差し。少し音を鳴らせば響き
渡りそうな、冷たい校舎。集団で生活する場所特有の、人の匂い―――古ぼけ
た残り香。
その全てが、手に入らないもの。
それを望んでいたかどうかは定かではない。
物心付いたときから、琥珀はそういった世界とは隔離された状態にあり、外
を考える余裕など無かったからだ。勉強することならば、屋敷の中でも出来る。
わざわざ外に出る必要性など感じてはいなかった。
「外……か」
何となく、昔のことを思い出す。
それは遠く遠くの昔の話。琥珀がまだ自分を人形と思い始めていた頃の話。
窓の向こうに広がる世界から、そっと手を振る少年が一人。彼女にとっては
外はただの流れる映像のようなものだったはずなのに。その均衡が一瞬にして
崩れ去った瞬間であった。干渉することも、されることもなかった外界が――
―そっと、優しく干渉してくる。
あの頃の琥珀にはそれが耐え切れなった。
人形だった彼女には、何か訳のわからないモノ、としか映っていなく。耐え
難い疑念に襲われたものだった。
「………外、かぁ」
しみじみと呟きながら、思う。
琥珀自身が外界を意識したのはいつからだっただろうか。
槙久が死んでから?
秋葉が琥珀の血を吸うようになってから?
志貴が来てから?
志貴が自分を解き放ってから?
そのどれもが、当てはまりそうであり、当てはまらなそうでもある。
何となく、一番最近に感じた、志貴のアルバムを始めて見た瞬間からかもし
れない。案外に当たっていそうだ。あの時は、普段であったら絶対に口にしな
かった感情を、思わず口に出してしまったほどだったから。
琥珀本人ですら、自らの発した羨望の言葉に驚いているほどであった。
以前までは、過ぎ去ったことになど思いをはせることがなかったというのに
――思いをはせるほどの過去も無かったためか――今では憧れを感じている。
それは、つまるところ。
琥珀が今の生活に必要以上に満たされているからなのだろう。満たされた余
裕があったからこそ、過去を惜しむことが出来る。そういうことではないのか。
でなければ。
志貴のアルバムに対して羨望を覚えることも無かっただろうし、白紙のアル
バムに思いをはせることも無かっただろう。それに志貴が寝ている間にアルバ
ムを拝借することもおそらくは無かったはずだ。
先に言われこそしたものの。
彼女自身、志貴に頼もうともしなかっただろう。
「学校に連れて行ってください、なんてね……」
約束の10分が過ぎ、中にいる琥珀に了承を窺ってから、志貴は教室へと戻
った。
ドアを開けた瞬間に差し込んでくる日差しに、瞬間的に視界が酔いそうにな
るがゆっくりと瞬きをすることでなんとか留まらせる。
「お待たせしましたー、志貴さん」
「――――!!」
そして絶句。
琥珀はいつも通りの彼女であり、いつもとは明らかに異なった彼女として存
在していた。彼女がおかしいというわけではない。むしろ、今の琥珀はこの場
においては相応しい状態にあると言えるだろう。
ありていに言えば。
そこには、制服姿の琥珀がいた。
「あ、あの、こはっ、琥珀さん?」
「はい、何ですか、志貴さん?」
「その格好は何ですか、一体全体?」
「秋葉様の制服ですけど、それが?」
質問を質問で返す問答を続ける二人。
琥珀の着ている制服は、確かに志貴の通っている学校のものではなく、秋葉
の通う浅上女学院のセーラー服であった。
だが、志貴が訊きたいのはそんなことではない。
着ているものが何なのか、ではなく、何で制服を着ているのか、である。W
hatではなくWhyを訊いているのだ。
「一度、着てみたかったんですよー」
「着たかったから着た……この上なく解りやすい理由をありがとうございます」
「いえいえ、そんなお褒めにならないでください」
制服姿のままでも、もとより染み付いた癖は直らないのか、口元に手をやっ
てころころと笑う琥珀。和服姿なら様になっていたが、制服のままだと奇妙な
印象を受ける。
不思議そうにそれを見やっていると、彼女が視線に気付き、自分の姿を見直
す。
「あのー、やっぱ似合っていませんか?」
「いやいやいや、そんなことありませんよ。むしろ、似合いすぎているくらい
です」
「そんなお世辞言っちゃってー。何も出ませんよ、志貴さん」
「いいですよ、別に。本音ですから」
返す言葉は何気ないものであったが、それに琥珀は過敏な反応を見せた。志
貴自身は気付いていないだろうが、彼はさらりと人の心を衝くような言葉が自
然と出る人間なのだ。頬を赤くしながら、硝子窓で自分の姿を確認する琥珀。
実際に、制服姿の彼女は違和感を感じさせないほどにしっくりときている。
秋葉のものだというが、サイズ的な違いはそれほど感じさせない。唯一、違
う点があるとするならば、胸元がやはりというか何というか、窮屈というわけ
ではないが妙にふくらみを意識させるような曲線を描いていた。
「でも、秋葉に怒らないかなぁ?」
「あー、覚悟の上ですよ。気付かれなければ大丈夫ですし」
「だといいんですけどね……でも、本当にどうして?」
改めて尋ねてくる志貴に、一拍だけ間をおいてから彼女は答えた。それは考
える素振のようにも思えたが、その間は小さすぎたために、むしろ考えること
を振り払っていたかのではないか。
「一度……学校に来てみたかったんですよ」
「………琥珀さん」
「その、ほら……わたしって学校に行けなかったから、何だか志貴さんのアル
バムを見たら行きたくなっちゃって」
「それで、俺が寝ている間にアルバムを拝借したんですか」
「あら、バレていましたか。ええ……悪いとは解っていたんですけど。何だか、
見たくなっちゃって………」
彼女は軽く俯きつつ、執着ですね、とだけ答えた。
もう戻るはずもない時間に思いをはせて、もう決して体験できることのない
生活に憧れを抱く。それを執着と言わずして何というのか。
琥珀が顔を上げて笑う。
その表情を見やった志貴は、不意に彼女のことを理解した。
ただ、壊れたように笑顔を見せていただけの彼女。その頃の琥珀であったの
なら、このような執着は無かったに違いない。だが、今の彼女には―――今の
彼女だからこそ、執着があるといえよう。
思いを幾らはせても。
彼女の願いは、羨望は叶えられることはないだろう。
琥珀が思いをはせる過去は、彼女にとっては虚無でしかないのだから。それ
だからこそ、今こうして擬似的な一時を体感しているのか。
限りが、あまりにも早すぎる。擬似的なものであっても、彼女が求めたもの
は完全には手に入らない。それに、この場にいられる時間は刹那にして過ぎ去
ってしまう。
望むものは、手に入らない。
思い出すものは、何も無い。
だが、それでも彼女が望むのは、思い出そうとするのは―――
《つづく》
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