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「朱鷺恵さん……どうして……」

 そこまで言うと俺は、背中の安定を失ってばったりとベッドの上に倒れ込んだ。
 ベッドのリネンはよく干されていて、湿った消毒液臭さがない。これも、こ
の人ならではの気配りだった。そう、これも記憶がある。
 横向きに倒れ込んだ俺がなんとか首を向けると、そこには――横向きになった、
ショートカットの柔和な顔が笑っていた。

 ずきん、と胸の底が痛むような……この女の笑顔。

「久しぶり、志貴くん。この学校の生徒だったんだね」
「朱鷺恵さんこそ、なんで保健室に……」

 呂律の回らない舌で俺が尋ねると、朱鷺恵さんはベッドに近づいてくる。ブ
ラウスの上に白衣を掛けていて、どこから見ても違和感のない保護教諭ぶりで
あった。ただわからない……なんで、時南診療院の助手だった朱鷺恵さんが、
ここにいるのかが。
 分からない。

「あれ?志貴くんはしらなかったっけ?私、教員の資格もってるの」
「初耳……」

 俺は小さく呻いた。いったい朱鷺恵さんはいつの間にそんな資格をとったの
だか……。
 俺はデッキシューズをなんとか気怠げに脱ぐと、ベッドの上に脚を上げよう
とする。だが、よろよろと脚は力弱く持ち上がるが、このままだと――

 ひょい、と朱鷺恵さんは俺の脚を持ち上げてくれた。
 俺はベッドの上に横たわると、首を巡らせて朱鷺恵さんを見つめる。そう、
こうやって見上げるあの日の朱鷺恵さんも、軟らかい表情で俺のことを見つめ
ていて……

「いろいろあって、私がこの学校に赴任になって……志貴くんは気が付かなかった?」
「……いや、全然。ここのところ調子が良くて、ここにあんまり来なかったから……」

 俺はそう言ってから、すこし甘酸っぱい思いを抱いて朱鷺恵さんを伺った。
 朱鷺恵さんは知っているはずだった……俺のこの体の言いようのない悪さの
コト。朱鷺恵さんのお父さんはあの宗玄のじいさんだけど、琥珀さんも宗玄の
じいさんに薬学を学んだという。俺と琥珀さんがこういう仲になったのも知ら
ない筈はないし、琥珀さんの能力のことももしかしたら……

 そこまでは勘繰りかもしれないけども……わからない

 朱鷺恵さんは俺のことをじーっと、瞬きもしないで眺めていた。その顔に浮
かぶ表情は、いったいなんだったんだろう……懐かしさだったのかもしれない
し、ひょっとするとこんな俺をおかしく思っていたのかも知れない。ただ、朱
鷺恵さんはほんの少し口を笑わせると……

「志貴くん……身体、よくなってたんだ」
「うん……その、琥珀さんのお陰で」

 言うべきか言わざるべきか悩んだけども、今の俺の頭ではその結果を先読み
して判断することは出来なかった。ただ、この朱鷺恵さんには隠し事が出来な
いと言う気がして、口に出してしまった。
 もしかしたら琥珀さんのその力のことを知らないかもしれない、と期待を託
しながら。

 だけども、朱鷺恵さんはその言葉をきいて、すっと目に寂しそうな色を走らせた。
 それでも笑いは崩さず、俺の枕元まで寄ると椅子に腰を下ろす。
 俺の顔の横に、朱鷺恵さんの優しい顔があって……ああ、俺は昔このひとの
この笑顔に……だけども今の俺には……いかん、考えが纏まらない。
 徒に俺の頭の中はぐらぐらして、気分が落ち着かない。どうして朱鷺恵さん
が側にいるだけで、こんなに俺は迷うのだろう?

「そっかぁ……志貴くんは、琥珀ちゃんと結ばれたんだ」

 朱鷺恵さんは軽く頷きながら俺にそう話しかけてくる。その言葉の調子から、
俺は朱鷺恵さんが――全部のことを知っているのだと分かった。
 今はもう朱鷺恵さんとの関係はないはずなのに、俺は琥珀さんとの仲のこと
を口にするときに疚しさを憶える。そんな必要はないのに……

 わからない。

「その……御免、朱鷺恵さん」

 訳もなく俺は謝っていた。いや、謝らずにはいられなかった。謝ることは何
にもないのに、ただ謝罪の言葉を口にするだけで心の落ち着きを求めるかのよ
うに。
 あの日の記憶を、俺と朱鷺恵さんは持っているから……なんだろうか?青かっ
た俺の若い日の過ちだったのかもしれない。だけれども……

 朱鷺恵さんはふるふる、と頭を振ると俺の額をちょん、と指で触れる。
 朱鷺恵さんの指先は冷たくて、ついその快に陶然としてしまう。半目の俺に
朱鷺恵さんは話しかけてくる。

「ううん、私も嬉しいよ……琥珀ちゃんはずっと恵まれなくて、私の妹のよう
に思ってて、いつか幸せになって欲しいって……志貴くんが琥珀ちゃんを幸せ
にしてくれたんだ」
「……幸せ、かな……」
「幸せだよ、琥珀ちゃんは……だって、志貴くんを身体も心も支えいるんだから」

 そう言って、朱鷺恵さんは笑った。
 ほんの少し涙ぐんでいるように……俺は感じていた。
 何故だろう……俺の心はそんなに喜べなかった。何故か?それはこの目の前
の朱鷺恵さんから何か大事な物を奪い去ってしまったかのような錯覚がある。

 この人はまだ幸せでないのかも……そう思うと、俺は居たたまれない。

「……ふぅ……」

 俺は朱鷺恵さんから目を逸らすように、ベッドの上に仰向けになって顔を腕
で覆う。
 白いカーテンに囲まれたこの保健室の奥には、外からの光に遮られた心地の
良い翳りがあった。このまま横になれば気持ちよく眠そうだったけども、今の
俺はそんな幸せなまどろみに沈めるほどに気分がいいわけではなかった。

「う……ぁあ……」

 口から呻きが漏れる。立っていた時は全身が鉛詰めになったような感じだっ
たが、横になると今度はぐるぐるぐらぐらと寝台が揺れている。いや、揺れて
いるのは俺の頭の中身だったが。
 俺がちらと腕をずらすと、朱鷺恵さんが心配そうに俺の顔を見つめている。

「志貴くん、調子わるいの……脈を見せてもらっていい?」

 朱鷺恵さんはひょいと俺を腕を取ると、指で手首を押さえて脈を見出す。
 東洋医学の心得のある朱鷺恵さんの脈取りは、ただ脈拍を測っているだけで
はない。これで俺の身体全体の様子を知ろうという術だった。

 そのせいか、俺の腕を押さえる朱鷺恵さんは、みるみる表情を曇らせていく。
 そんな……と、小さく朱鷺恵さんの口が動いた。

「志貴くんの陰脈も陽脈も弱くて……どうしたの?志貴くん」
「その、まぁ……」

 流石に琥珀さんとの直接の行為を触れることを躊躇う俺は、言葉を濁らせて
口ごもる。
 でも、朱鷺恵さんは俺の顔を問いつめるように真摯な顔で見つめる。彼女も
そのことに気が付いていたみたいだけども、すぐに俺に言うのが躊躇われるよ
うだった。

 朱鷺恵さんの頬が次第に赤みを差していって、恥ずかしげに俯くと、小さく俺に……

「志貴くん、その……」
「……」
「琥珀ちゃんとえっちしてないの?」

 くらぁ、と俺の目の前がその科白で暗くなった。

 ああ、なんたること。やはり琥珀さんとのことを正確に朱鷺恵さんは察して
いたのだ。それもそのことを、俺の初めての人に指摘されるというのはあまり
にも恥ずかしく情けなく憤ろしく、俺がもっと若造だったらその場で自殺した
くなったことだろう。
 俺はさらにぐわんぐわん回り続けるベッドの中で、宙を虚ろに睨んで絶句し
てしまう。

 なんと朱鷺恵さんに答えたらいいのか――わからない。
 いいえ、と嘘をつくのもはい、と肯定するのもどちらも……

「もしかして志貴くん……琥珀ちゃんと喧嘩しているの?だからえっちをして
いない……」
「いや、違うよ……長野の電車が止まってて、琥珀さんと会えなくて」

 朱鷺恵さんが不安そうに尋ねてくるので、俺もつい答えてしまう。
 それに、琥珀さんが聞いていないとはいえ、そんな喧嘩をしていると思われ
るのもいやだったから……俺の醜い矜持のわがままだ。

 朱鷺恵さんは俺の答えには、ぽん、と手を打つ。

「そうなんだ……その、志貴くん、どれくらい?」
「その……ああ、二週間弱くらい。でも大丈夫、横になればすぐに良くなるから」

 俺ゆっくり答えると、目を閉じて話を終わらせようとする。
 琥珀さんとのことをこれ以上朱鷺恵さんには喋る気にはなれなかった。第一
恥ずかしいし、朱鷺恵さんにも失礼なような……
 でも、そんな俺の思惑とは裏腹に朱鷺恵さんは、俺の身体の上に被さってくる。

「ダメよ、今の志貴くんは内力が消耗していて……困ったわね」

 俺は薄目を開いて、身体の上の朱鷺恵さんを見つめる。朱鷺恵さんは眉根を
寄せて困った顔で……俺のことなどどうでも良いのに、そんなに親身になって
悩んでくれるとは。
 有り難いような、それでいて何となく切ない。

 でも、俺の身体をどうこうできるのは琥珀さんだけ……翡翠も同じ力を持つ
らしいけども、翡翠に頼ることは出来ない。あとは秋葉の方の力を俺に移して
しばらくは乗り切る――でもそうすると、秋葉がまた遠野の血に酔いかねない。

 ……あの藪医者はどうこうできる訳はないし、こいつは一体どうしたらいいか……

「その、志貴くん……」

 俺はもう一度目を瞑り、頭痛の三割頭でなんとか対策を考えて朱鷺恵さんに
答えようと悩む。取りあえずはしばらくこのまま眠れば少しは体力を回復させ
れば……
 
 だがなぜか、プチプチという不思議な音が聞こえた。
 俺の身体の側で、というか俺の身体の上で。不思議に思って俺が目を開けると――

「志貴くんのためだもんね、うん」

 朱鷺恵さんが――ブラウスの胸元のボタンを外していた。
 なぜ?どうして?わからない。
 朱鷺恵さんは俯いて、小さく呟きながら胸元の白い肌を俺の前に露わにする。

「朱鷺恵さん……なにを、一体……」
「志貴くん……最初に私とエッチしたときのこと、憶えてる?」

 ――なんでそんな話を?

 俺は口をぱくぱくさせて絶句するのが精一杯だった。どうして朱鷺恵さんが
そんなことを言うのか、なぜ朱鷺恵さんは俺の前で服を脱ぎ始めるのか。全く
わからない……
 俺は頷くでも首を振るでもなく、ただ朱鷺恵さんを見つめた。
 朱鷺恵さんのブラウスの間からは、白いブラジャーと肌が覗く。白衣の下の
服を脱ごうとする朱鷺恵さんは、限りなくエロチックだった。
 だが、俺はそんな朱鷺恵さんを見つめるだけだった。腕一つ今の俺は動かせない。

「え?そ、そんな……」
「あの時の私は、まだ出来なかったから……でも、今の私なら少しは出来るか
も。ね?志貴くん」

 朱鷺恵さんの顔が俺に迫ってきて――俺はそれに抗うこともしないで……
 俺の視界が塞がれると、ちゅ、と唇が触れ合った。リップの微かに苦く、懐
かしいような味。まるで俺のあの日の思い出を反芻するかのような。
 唇を離した朱鷺恵さんは俺の目を覗き込む。

 その目は――俺をからかって巫山戯ているのではなかった。
 真剣な色を湛えて、じっと俺の瞳の底を見つめている。

「志貴くん……房中術って知ってるかな?」
「ボウチュウ……ジュツ?」



                                      《つづく》